↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/62

第五十八話 砂漠の船

革袋の中の水は、少しずつ減っていた。


「喉渇いた……思いっきり水飲みたい。水浴びしたい」


アルスは呟いた。


「やめろ。こっちまでそんな気分になる」


スカラは淡々と前を見つめている。


その時。


「湖だ!」


隊商に大声が響いた。


「水!?」


アルスが叫ぶ。


皆が指さす方を見ると、確かに地平線に大きな青い湖が見える。その向こうには、緑の木々。


隊商の人々がざわつく。


だが、ハキムは止まらなかった。


「違う」


「何が?」


「水じゃない」


スカラも目を細めた。


「蜃気楼だ」


「しんき……ろう?」


「地面近くの空気が強く熱せられると、光の進み方が曲がる。遠くの空や景色が、水面のように見えることがある」


アルスは説明を聞きながら、不満そうに湖を見る。


「じゃあ、あれ全部幻ってこと?」


「ああ」


「木も?」


「本当にそこにあるとは限らない」


「水も?」


「そうだ」


「ちぇ……砂漠、嘘つきだな」


ハキムが笑った。


「砂漠は何もしてない。お前が勝手に見たんだ」


その時。


「ん?」


ラシードの目が止まった。


湖の中に、船。大きな帆船が浮かんでいる。


「……待て」


水は揺れているように見える。木々も揺らいでいる。なのに、船だけは輪郭がはっきりしていた。


「船は本物かもしれない」


「砂漠だぞ。船なんてあるはずない」


アルスが言う。


「分かってる。だから、おかしい」


ハキムも船を見ていた。いつもの笑いが消えている。


「……去年はなかった」


「ここを通った?同じ場所?」


「ああ。間違いなくこの辺りだ」


ラシードが腕を組む。


「本物なら?」


「大量の金属」


横にいた商人が答える。


「他にも使える物が残っている可能性がある」


ラシードの顔が変わった。


アルスが呟く。


「商人の顔になった」


「聞こえてるぞ」


「みんな耳いいな……」


ラシードは若い護衛を一人呼んだ。


「様子を見てこい。ただし、船には入るな」


「はい」


若い護衛が一人、船の方へ向かった。


十分。


二十分。


三十分。


戻らない。


ハキムの顔から笑みが消えた。


「見に行く」


するとラシードがアルスを見る。


「お前、船に詳しいと言ってたな」


アルスの顔が明るくなった。


「ほら!やっと来た!俺が役に立つ時!」


スカラも立つ。


「では私も行こう」


ラシードは護衛を二人つけた。


「何かあったら、すぐ戻れ」


船へ近づくにつれて、水は消えた。木々も。


だが、やはり船だけが残った。


「……砂の海だ」


一隻ではない。何隻もの巨大な船が、波のような模様を描いた砂の中から斜めに突き出している。


「旧文明の船って、初めて見た」


アルスは興味深そうに見つめた。


折れた帆柱。朽ちた甲板。ひび割れた船腹。


まるで海だけが消えて、船を忘れていったようだった。


「なぜ砂漠に船が……?」


スカラは船底近くの地面へしゃがんだ。


白っぽい筋が走る固く締まった泥の層。そこには貝殻のような欠片。


「……なるほど」


「何?」


「昔、ここには水があったのかもしれない」


「湖が……なくなった?」


「そうみたいだ」


「なんで?」


スカラは砂の海を見る。


「分からない。雨が減ったのか。川が変わったのか。人間が水を使いすぎたのか」


船へ目を戻す。


「でも――こんな大きな湖でも、消えることはある」


ハキムが首を傾げた。


「去年ここを通った時には見えなかったぞ」


スカラは砂を見る。


風が吹くと、船の周囲を砂が流れていく。


「砂丘が移動して、埋まっていたものが現れたのかもしれない」


その時。


「足跡」


ハキムがしゃがんだ。


先に向かった護衛のもの。


そして。


別の足跡。


一つ。


二つ。


三つ。


もっと。


カチッ。


聞き慣れない音が鳴った。


護衛たちが武器を構える。


見上げると、甲板の上に顔を布で覆った男がいた。


その後ろにも何人も。


「……盗賊」


「荷物を置いていけ」


男が言った。


ハキムがため息をつく。


「面倒なのが住み着いていたもんだ」


「先に来た男は?」


スカラが聞くと、盗賊が船の奥を指した。


「生きてるよ。今のところはな。仲間が見張っている」


「返せ」


「荷物と交換だ」


「それはラシード次第だ」


アルスが小声で言う。


「今それ言う?」


「私の荷物じゃない」


「そうだけど!」


盗賊が銃を向けた。


「喋るな!」


スカラは船を見た。


傾斜。


帆柱。


縄。


腐食。


そして、船体の片側を支えている砂丘。


「何見てる」


盗賊が銃を向ける。


「構造」


「何?」


「この船、かなり傷んでる」


スカラは船腹から突き出した板を踏んだ。


ミシ。


「アルス」


「何?」


「この船、どうして傾いている?」


アルスが船体を見る。


「片側が砂に埋まってるから……かな」


「そうだな」


スカラは船腹の下を見た。


船は大きく傾き、片側を砂丘に預けるようにして止まっていた。


反対側は砂から浮き上がり、朽ちた船底がむき出しになっている。


船尾の方では、砂丘が甲板の高さまで迫っていた。


その時、甲板の上で盗賊の一人が帆柱の根元へ足を掛けた。


ミシッ。


スカラが顔を上げる。


船体を支える砂丘に、細い亀裂が走っていた。


さらさらと砂が滑り落ちる。


亀裂が、少しずつ広がっていく。


「……まずい」


スカラは砂丘を指した。


「あの砂が崩れたら、船を支えるものがなくなる」


アルスの顔が変わった。


「船が倒れるってこと!?」


「ああ」


スカラは首を振った。


「……もう崩れ始めてる」


その時だった。


ザザッ。


砂丘の斜面が滑り落ちた。


ミシッ。


船体が、わずかに動いた。


盗賊の一人が振り返る。


「何だ?」


ギ……。


船がさらに傾いた。


「まずい!」


アルスが叫んだ。


「ここから離れて!」


だが盗賊は銃を向けたままだった。


「動くな!」


その瞬間。


ザザザザッ!


船を支えていた砂が、一気に崩れた。


バキッ!


船体がずれ、甲板の一部が抜け落ちた。


男が悲鳴を上げる。


ギギギギギ――!


船が砂の斜面を滑り、さらに大きく傾いていく。


「走れ!」


アルスが叫んだ。


銃声。


怒号。


甲板にいた盗賊たちが、我先に逃げ出していく。


スカラは船腹に開いた大きな穴を見た。


「……まだ中にいる」


アルスが振り向く。


「助けに行くの?」


スカラは傾いた船体を見た。


いつ完全に崩れるかは分からない。


「……ああ」


アルスは一瞬だけ船を見上げた。


「分かった。俺が先に行く!」


「なぜ?」


「船なら、俺の方が慣れてる!」


二人は、崩れかけた船内へ飛び込んだ。


ハキムも後を追おうとした。


だが、船体がまた大きく傾く。


「待て。あそこだ」


ハキムが指さしたのは、砂丘に接した船尾の甲板。


「上からなら、逃げ道を作れるかもしれん」


ハキムは護衛の一人を連れ、砂丘を駆け上がった。


傾いた通路。


船倉。


階段。


アルスが先を走る。


スカラが左へ曲がろうとする。


「そっちじゃない!」


アルスが腕を掴んだ。


「こっち!」


「なぜ?」


「船だから!」


「説明になってない!」


「あとで説明する!」


今度はアルスが、スカラより先を走った。


「そこ行き止まり!」


スカラが止まる。


「なぜ?」


「船首側だから!船倉は下だ!」


船倉へ続く階段が見えた。


「こっち!」


アルスが駆け下りる。


その時、奥の通路から男が飛び出してきた。


「何だ、お前ら!」


船内に残っていた盗賊だった。


男が銃を構える。


スカラは足元の樽を蹴飛ばした。


傾いた床を、樽が勢いよく転がっていく。


ドン!


男が倒れる。


「今!」


船倉の奥に、若い護衛がいた。手足を縄で縛られている。


アルスが短刀を取り出し、縄を切った。


「走れる?」


「はい!」


三人は甲板へ向かった。


だが、一度動き始めた船体は止まらなかった。


板が外れる。


梁が軋む。


帆柱が傾く。


甲板へ出ると、ハキムが護衛とともに待っていた。


「こっちだ!」


老人が手招きする。


船尾の向こうには、砂丘が迫っていた。


そこからなら、砂の斜面へ下りられる。


「急げ!」


アルスが先に走る。


スカラが続く。


だが、若い護衛が踏み出した、その時。


足元の板が崩れた。


「うわっ!」


護衛の身体が甲板の穴へ落ちかける。


片腕だけが縁に掛かった。


「助けて!」


ハキムが振り向いた。


「ハキム!」


老人は迷わず駆け戻った。


「爺さん!危ないから戻れ!」


アルスが叫ぶが、ハキムは答えない。


傾いた甲板を駆け上がる。


「手を出せ!」


護衛が手を伸ばした。


ハキムが掴む。


「離すな!」


ぐっ、と身体を引き上げる。


その時。


ギギギギギ――!


船体がさらに傾いた。


「ハキム!」


「引け!」


アルスたちも駆け寄り、護衛の身体を引き上げた。


だが、その瞬間。


バキッ!


船体が傾いた衝撃で、根元の腐った帆柱が折れた。


「危ない!」


ハキムが護衛を突き飛ばす。


次の瞬間。


ドンッ!


帆柱が甲板へ叩きつけられた。


その衝撃で、足元の板が砕ける。


「――!」


ハキムの身体が船内へ落ちた。


「ハキム!」


スカラは駆け寄り、船に開いた穴を覗いた。


砂だらけの船倉。折れた鉄材。錆びた鉄の骨組み。


その中に、ハキムが倒れていた。


「ハキム!」


スカラは安全な足場を探し、船倉へ下りた。


アルスも続く。


「おい!」


スカラが肩に手を当てる。


呼吸はある。脈もある。だが、顔色が悪い。


「ハキム!」


老人の目が開いた。


「……うるさいぞ」


スカラの肩から力が抜けた。


「大丈夫か?」


「俺に聞くな」


ハキムが顔をしかめた。


「どこか痛い?」


「全部かな」


「具体的に」


「いちいち説明させる気か?お前は本当に面倒な娘だな」


「いいから答えて」


ハキムは腹の辺りへ手を置いた。


「……腹を打った」


スカラの目が変わった。


「どこに?」


ハキムが指したのは、左の脇腹だった。すぐそばに、折れた鉄の梁が突き出している。


「見せて」


「嫌だ」


「なぜ?」


「若い娘の前で服を脱ぐ趣味はない」


「冗談を言ってる場合じゃない」


スカラはハキムの腹にそっと触れた。


老人の身体が強張った。


「……痛むな」


「どれくらい?」


「少しだ」


「少し?」


「……かなり、少しだ」


「そんな言い方はない」


スカラは顔を上げた。


「アルス。手を貸して。できるだけ身体を動かさずに外へ運ぶ」


「分かった」


二人は護衛たちを呼んだ。


板と布を使って身体を支え、崩れかけた船から慎重に運び出す。


外ではラシードたちが待っていた。


「やつらは逃げていった」


「追ってくる?」


アルスが聞いた。


ラシードは答えない。


代わりにハキムが言った。


「荷を狙ってるなら、諦めたとは限らんな」


隊商の人間たちの顔が強張った。


「だから、さっさと離れるぞ」


ハキムが起き上がろうとした。


「駄目だ」


スカラが肩を押さえる。


「動くな」


「俺がいなきゃ、道が分からんだろ」


「今はあなたの身体の方が重要だ」


「……ずいぶん偉そうになったな」


「あなたの真似だ」


ハキムが小さく笑った。


その時、助けられた若い護衛が近づいてきた。


「ありがとうございました」


ハキムは顔を上げた。


「次から落ちるな」


「はい」


「重いんだよ、お前」


皆が笑った。


スカラだけは、笑っていなかった。


額には冷たい汗。呼吸も、脈も、さっきより速くなっている。


「ハキム」


「何だ」


「……気分は悪くないか?」


「年寄りはいつだって気分が悪い」


「ラシード」


スカラが呼んだ。


「何だ?」


「ハキムを歩かせないで。身体を揺らさずに運びたい」


ラシードの顔が変わった。


「そんなに悪いのか?」


ハキムを見る。


老人は相変わらず、平気な顔をしようとしていた。


「……まだ分からない」


スカラは言った。


「だから、怖い」


ラシードは黙って頷いた。


男たちが運搬の準備を始めると、ハキムは不満そうに鼻を鳴らした。


「大げさな娘だ」


「あなたが大げさにしなさすぎる」


「……そうか?」


「そうだ」


ハキムは笑った。


「まったくだ」


そして、目を閉じた。


スカラはその手を握った。先ほどより、冷たくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。