第五十八話 砂漠の船
革袋の中の水は、少しずつ減っていた。
「喉渇いた……思いっきり水飲みたい。水浴びしたい」
アルスは呟いた。
「やめろ。こっちまでそんな気分になる」
スカラは淡々と前を見つめている。
その時。
「湖だ!」
隊商に大声が響いた。
「水!?」
アルスが叫ぶ。
皆が指さす方を見ると、確かに地平線に大きな青い湖が見える。その向こうには、緑の木々。
隊商の人々がざわつく。
だが、ハキムは止まらなかった。
「違う」
「何が?」
「水じゃない」
スカラも目を細めた。
「蜃気楼だ」
「しんき……ろう?」
「地面近くの空気が強く熱せられると、光の進み方が曲がる。遠くの空や景色が、水面のように見えることがある」
アルスは説明を聞きながら、不満そうに湖を見る。
「じゃあ、あれ全部幻ってこと?」
「ああ」
「木も?」
「本当にそこにあるとは限らない」
「水も?」
「そうだ」
「ちぇ……砂漠、嘘つきだな」
ハキムが笑った。
「砂漠は何もしてない。お前が勝手に見たんだ」
その時。
「ん?」
ラシードの目が止まった。
湖の中に、船。大きな帆船が浮かんでいる。
「……待て」
水は揺れているように見える。木々も揺らいでいる。なのに、船だけは輪郭がはっきりしていた。
「船は本物かもしれない」
「砂漠だぞ。船なんてあるはずない」
アルスが言う。
「分かってる。だから、おかしい」
ハキムも船を見ていた。いつもの笑いが消えている。
「……去年はなかった」
「ここを通った?同じ場所?」
「ああ。間違いなくこの辺りだ」
ラシードが腕を組む。
「本物なら?」
「大量の金属」
横にいた商人が答える。
「他にも使える物が残っている可能性がある」
ラシードの顔が変わった。
アルスが呟く。
「商人の顔になった」
「聞こえてるぞ」
「みんな耳いいな……」
ラシードは若い護衛を一人呼んだ。
「様子を見てこい。ただし、船には入るな」
「はい」
若い護衛が一人、船の方へ向かった。
十分。
二十分。
三十分。
戻らない。
ハキムの顔から笑みが消えた。
「見に行く」
するとラシードがアルスを見る。
「お前、船に詳しいと言ってたな」
アルスの顔が明るくなった。
「ほら!やっと来た!俺が役に立つ時!」
スカラも立つ。
「では私も行こう」
ラシードは護衛を二人つけた。
「何かあったら、すぐ戻れ」
船へ近づくにつれて、水は消えた。木々も。
だが、やはり船だけが残った。
「……砂の海だ」
一隻ではない。何隻もの巨大な船が、波のような模様を描いた砂の中から斜めに突き出している。
「旧文明の船って、初めて見た」
アルスは興味深そうに見つめた。
折れた帆柱。朽ちた甲板。ひび割れた船腹。
まるで海だけが消えて、船を忘れていったようだった。
「なぜ砂漠に船が……?」
スカラは船底近くの地面へしゃがんだ。
白っぽい筋が走る固く締まった泥の層。そこには貝殻のような欠片。
「……なるほど」
「何?」
「昔、ここには水があったのかもしれない」
「湖が……なくなった?」
「そうみたいだ」
「なんで?」
スカラは砂の海を見る。
「分からない。雨が減ったのか。川が変わったのか。人間が水を使いすぎたのか」
船へ目を戻す。
「でも――こんな大きな湖でも、消えることはある」
ハキムが首を傾げた。
「去年ここを通った時には見えなかったぞ」
スカラは砂を見る。
風が吹くと、船の周囲を砂が流れていく。
「砂丘が移動して、埋まっていたものが現れたのかもしれない」
その時。
「足跡」
ハキムがしゃがんだ。
先に向かった護衛のもの。
そして。
別の足跡。
一つ。
二つ。
三つ。
もっと。
カチッ。
聞き慣れない音が鳴った。
護衛たちが武器を構える。
見上げると、甲板の上に顔を布で覆った男がいた。
その後ろにも何人も。
「……盗賊」
「荷物を置いていけ」
男が言った。
ハキムがため息をつく。
「面倒なのが住み着いていたもんだ」
「先に来た男は?」
スカラが聞くと、盗賊が船の奥を指した。
「生きてるよ。今のところはな。仲間が見張っている」
「返せ」
「荷物と交換だ」
「それはラシード次第だ」
アルスが小声で言う。
「今それ言う?」
「私の荷物じゃない」
「そうだけど!」
盗賊が銃を向けた。
「喋るな!」
スカラは船を見た。
傾斜。
帆柱。
縄。
腐食。
そして、船体の片側を支えている砂丘。
「何見てる」
盗賊が銃を向ける。
「構造」
「何?」
「この船、かなり傷んでる」
スカラは船腹から突き出した板を踏んだ。
ミシ。
「アルス」
「何?」
「この船、どうして傾いている?」
アルスが船体を見る。
「片側が砂に埋まってるから……かな」
「そうだな」
スカラは船腹の下を見た。
船は大きく傾き、片側を砂丘に預けるようにして止まっていた。
反対側は砂から浮き上がり、朽ちた船底がむき出しになっている。
船尾の方では、砂丘が甲板の高さまで迫っていた。
その時、甲板の上で盗賊の一人が帆柱の根元へ足を掛けた。
ミシッ。
スカラが顔を上げる。
船体を支える砂丘に、細い亀裂が走っていた。
さらさらと砂が滑り落ちる。
亀裂が、少しずつ広がっていく。
「……まずい」
スカラは砂丘を指した。
「あの砂が崩れたら、船を支えるものがなくなる」
アルスの顔が変わった。
「船が倒れるってこと!?」
「ああ」
スカラは首を振った。
「……もう崩れ始めてる」
その時だった。
ザザッ。
砂丘の斜面が滑り落ちた。
ミシッ。
船体が、わずかに動いた。
盗賊の一人が振り返る。
「何だ?」
ギ……。
船がさらに傾いた。
「まずい!」
アルスが叫んだ。
「ここから離れて!」
だが盗賊は銃を向けたままだった。
「動くな!」
その瞬間。
ザザザザッ!
船を支えていた砂が、一気に崩れた。
バキッ!
船体がずれ、甲板の一部が抜け落ちた。
男が悲鳴を上げる。
ギギギギギ――!
船が砂の斜面を滑り、さらに大きく傾いていく。
「走れ!」
アルスが叫んだ。
銃声。
怒号。
甲板にいた盗賊たちが、我先に逃げ出していく。
スカラは船腹に開いた大きな穴を見た。
「……まだ中にいる」
アルスが振り向く。
「助けに行くの?」
スカラは傾いた船体を見た。
いつ完全に崩れるかは分からない。
「……ああ」
アルスは一瞬だけ船を見上げた。
「分かった。俺が先に行く!」
「なぜ?」
「船なら、俺の方が慣れてる!」
二人は、崩れかけた船内へ飛び込んだ。
ハキムも後を追おうとした。
だが、船体がまた大きく傾く。
「待て。あそこだ」
ハキムが指さしたのは、砂丘に接した船尾の甲板。
「上からなら、逃げ道を作れるかもしれん」
ハキムは護衛の一人を連れ、砂丘を駆け上がった。
傾いた通路。
船倉。
階段。
アルスが先を走る。
スカラが左へ曲がろうとする。
「そっちじゃない!」
アルスが腕を掴んだ。
「こっち!」
「なぜ?」
「船だから!」
「説明になってない!」
「あとで説明する!」
今度はアルスが、スカラより先を走った。
「そこ行き止まり!」
スカラが止まる。
「なぜ?」
「船首側だから!船倉は下だ!」
船倉へ続く階段が見えた。
「こっち!」
アルスが駆け下りる。
その時、奥の通路から男が飛び出してきた。
「何だ、お前ら!」
船内に残っていた盗賊だった。
男が銃を構える。
スカラは足元の樽を蹴飛ばした。
傾いた床を、樽が勢いよく転がっていく。
ドン!
男が倒れる。
「今!」
船倉の奥に、若い護衛がいた。手足を縄で縛られている。
アルスが短刀を取り出し、縄を切った。
「走れる?」
「はい!」
三人は甲板へ向かった。
だが、一度動き始めた船体は止まらなかった。
板が外れる。
梁が軋む。
帆柱が傾く。
甲板へ出ると、ハキムが護衛とともに待っていた。
「こっちだ!」
老人が手招きする。
船尾の向こうには、砂丘が迫っていた。
そこからなら、砂の斜面へ下りられる。
「急げ!」
アルスが先に走る。
スカラが続く。
だが、若い護衛が踏み出した、その時。
足元の板が崩れた。
「うわっ!」
護衛の身体が甲板の穴へ落ちかける。
片腕だけが縁に掛かった。
「助けて!」
ハキムが振り向いた。
「ハキム!」
老人は迷わず駆け戻った。
「爺さん!危ないから戻れ!」
アルスが叫ぶが、ハキムは答えない。
傾いた甲板を駆け上がる。
「手を出せ!」
護衛が手を伸ばした。
ハキムが掴む。
「離すな!」
ぐっ、と身体を引き上げる。
その時。
ギギギギギ――!
船体がさらに傾いた。
「ハキム!」
「引け!」
アルスたちも駆け寄り、護衛の身体を引き上げた。
だが、その瞬間。
バキッ!
船体が傾いた衝撃で、根元の腐った帆柱が折れた。
「危ない!」
ハキムが護衛を突き飛ばす。
次の瞬間。
ドンッ!
帆柱が甲板へ叩きつけられた。
その衝撃で、足元の板が砕ける。
「――!」
ハキムの身体が船内へ落ちた。
「ハキム!」
スカラは駆け寄り、船に開いた穴を覗いた。
砂だらけの船倉。折れた鉄材。錆びた鉄の骨組み。
その中に、ハキムが倒れていた。
「ハキム!」
スカラは安全な足場を探し、船倉へ下りた。
アルスも続く。
「おい!」
スカラが肩に手を当てる。
呼吸はある。脈もある。だが、顔色が悪い。
「ハキム!」
老人の目が開いた。
「……うるさいぞ」
スカラの肩から力が抜けた。
「大丈夫か?」
「俺に聞くな」
ハキムが顔をしかめた。
「どこか痛い?」
「全部かな」
「具体的に」
「いちいち説明させる気か?お前は本当に面倒な娘だな」
「いいから答えて」
ハキムは腹の辺りへ手を置いた。
「……腹を打った」
スカラの目が変わった。
「どこに?」
ハキムが指したのは、左の脇腹だった。すぐそばに、折れた鉄の梁が突き出している。
「見せて」
「嫌だ」
「なぜ?」
「若い娘の前で服を脱ぐ趣味はない」
「冗談を言ってる場合じゃない」
スカラはハキムの腹にそっと触れた。
老人の身体が強張った。
「……痛むな」
「どれくらい?」
「少しだ」
「少し?」
「……かなり、少しだ」
「そんな言い方はない」
スカラは顔を上げた。
「アルス。手を貸して。できるだけ身体を動かさずに外へ運ぶ」
「分かった」
二人は護衛たちを呼んだ。
板と布を使って身体を支え、崩れかけた船から慎重に運び出す。
外ではラシードたちが待っていた。
「やつらは逃げていった」
「追ってくる?」
アルスが聞いた。
ラシードは答えない。
代わりにハキムが言った。
「荷を狙ってるなら、諦めたとは限らんな」
隊商の人間たちの顔が強張った。
「だから、さっさと離れるぞ」
ハキムが起き上がろうとした。
「駄目だ」
スカラが肩を押さえる。
「動くな」
「俺がいなきゃ、道が分からんだろ」
「今はあなたの身体の方が重要だ」
「……ずいぶん偉そうになったな」
「あなたの真似だ」
ハキムが小さく笑った。
その時、助けられた若い護衛が近づいてきた。
「ありがとうございました」
ハキムは顔を上げた。
「次から落ちるな」
「はい」
「重いんだよ、お前」
皆が笑った。
スカラだけは、笑っていなかった。
額には冷たい汗。呼吸も、脈も、さっきより速くなっている。
「ハキム」
「何だ」
「……気分は悪くないか?」
「年寄りはいつだって気分が悪い」
「ラシード」
スカラが呼んだ。
「何だ?」
「ハキムを歩かせないで。身体を揺らさずに運びたい」
ラシードの顔が変わった。
「そんなに悪いのか?」
ハキムを見る。
老人は相変わらず、平気な顔をしようとしていた。
「……まだ分からない」
スカラは言った。
「だから、怖い」
ラシードは黙って頷いた。
男たちが運搬の準備を始めると、ハキムは不満そうに鼻を鳴らした。
「大げさな娘だ」
「あなたが大げさにしなさすぎる」
「……そうか?」
「そうだ」
ハキムは笑った。
「まったくだ」
そして、目を閉じた。
スカラはその手を握った。先ほどより、冷たくなっていた。




