第六十六話 海峡の町ノブール
丘を越えた瞬間。
真夏の日差しを浴びて輝く、青い水面が現れた。
「……すごい」
アルスが立ち止まると、深呼吸した。
「久しぶりの潮の匂い!」
丘の下に広がる海峡。その間を大小の船がひっきりなしに行き交っている。
スカラも隣に並ぶ。
「東西の大陸と、南北の海が交わる、古くからの交易都市・ノブールだ」
対岸には、巨大な丸屋根と天を衝く塔を備えた建物が見えた。その周囲には石造りの家々が密集し、さらに奥には、ひときわ新しい赤い屋根の建物が並んでいる。
同じ街なのに、建物ごとに違う時代の匂いがした。
坂を下った岸壁では、船から降ろされたばかりの木箱や樽の間から、人夫たちの掛け声と、商人たちの売り言葉が飛び交っていた。
その時。
ゴーン!
音の洪水を切り裂くように、時計台の鐘の音が響いた。
「旧文明の機械式時計か。まだ動いているとは……」
「この街、色んな時代の建物があるね」
「これまで様々な宗教や支配者が統治してきたからな。例えば、文献によると――」
「あ、何コレ!?いい匂いする!」
アルスの目線の先には、屋台。
鉄板の上で、銀色の魚が焼かれている。脂が落ちるたびに火が上がり、香ばしい匂いが通りいっぱいに広がった。
女将が焼き上がった魚を細長いパンに挟み、刻んだ野菜を載せ、何かの汁を絞る。
「お腹空かない?」
「……確かに」
「でしょ?」
二人が近づくと、女将はすぐにスカラを見つけて声を掛けた。
「あら~!かわいいお嬢ちゃん!お人形さんみたいな顔してるわね!お代はいいよ、食べてって!」
パンを一つ差し出す。
スカラは受け取った。
「スカラって、どこ行っても食べ物すすめられるよね」
「何かと食べさせたくなる顔なのだろう」
スカラは構わず頬張った。
もぐもぐ。
アルスが覗き込む。
「魚とパンって合うの?」
もぐもぐ。
「……どう?」
もぐもぐ。
スカラの目が少しだけ大きくなった。
「めちゃくちゃ合う」
「俺も!」
アルスが手を出す。
女将も笑顔でもう一つ渡した。
「ありがとう!」
アルスが食べようとしたところで、女将が手を出した。
「ん?」
もう一度、手を出す。
アルスはスカラを見る。
「……なんで俺だけ金取られるの?」
「そういう顔なんじゃないか?」
「不公平だ!」
アルスは笑顔の女将の手に銅貨を握らせると、魚のパンを頬張った。
「うまっ!!」
二人はパンを片手に、渡し船へ乗り込んだ。
七月の太陽は傾き始めていたが、まだ空は十分に明るい。海峡を渡る風が、昼間の熱を少しずつ冷ましていた。
船の周りを、カモメが物欲しげに飛び回る。
その鳴き声に混じって、船内からは色んな国の言葉が聞こえてきた。
「今のは何語?」
アルスが尋ねた。
「西の方の言葉だ。上司の愚痴を話している」
「ふ~ん。じゃあ今のは?」
「南方の言葉。奥さんとのノロケ話だ」
「今通り過ぎたのは?」
「分からない。だが、スケベな話をしている」
「そこは分かるんだ?」
「そういう顔をしていたからな」
「適当じゃん!」
アルスは笑った。
スカラは再び対岸へ目を向けた。
北の果てへ向かう船が出るのは、この海峡からさらに西。山脈や渓谷をいくつも越えた先にある、ロッテルという港町だという。
ただし、いつでも出ているわけではない。
「十一月」
スカラが言った。
「ん?」
「北へ向かう船の最終便だ」
アルスの表情が変わる。
「それ過ぎたら?」
「北の海が凍り始める。次は春だそうだ」
アルスは指を折った。
七月、八月、九月、十月、十一月。
「……四か月くらい?意外とあるね」
「道が繋がっていればな」
「ないの?」
「何度か戦争があった影響で、うまく繋がっていない所もあるようだ」
横波で船が揺れた。
アルスは対岸のさらに向こうを見て呟いた。
「北の果てって遠いんだね」
「ああ」
「でも、少しずつだけど近づいてる……」
スカラは少し考えた。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
ロッテルまでどれくらいかかるのか、正確には分からない。
馬車で進める道。
徒歩での峠越え。
峡谷の迂回路。
地図の上では道が繋がっているが、必ずしもその道が使えるとは限らない。
船が対岸の岸壁へ着いた。
ノブールの西側は、東側の市場とは少し雰囲気が違う。
石造りの建物が坂道に沿って並び、古い壁の間を細い路地が何本も走っていた。
とはいえ人の多さは相変わらずで、荷車が行き交い、商人が声を張り、子どもたちが路地を走り回っている。
二人は人混みをかき分けて、ロッテルへ向かう馬車を探して歩いた。
だが。
「西なら明日の朝に荷馬車が出る」
「いや、あの道は先月の雨で崩れた」
「山の手前までなら行ける」
「そこから先は知らん」
「三日前に通った奴がいるぞ」
「それは別の道だ」
アルスが疲れた顔をする。
「みんな言ってること違う」
「情報が繋がっていないからな」
「同じ街なのに?」
「同じ街だからといって、同じことを知っているわけじゃない」
「じゃあ、とりあえず言われた通りに行ってみるしかない?」
「そうなる」
結局、全部外れだった。
そうこうしているうちに、太陽はずいぶん低くなってきた。
昼の熱を吸い込んだ石畳の熱気が、海峡から吹く風でわずかに冷ました。
「スカラ、あれ見て!」
「何?」
アルスが指さす細い路地の奥。
さっきまで白く光っていた石壁が橙色に染まり、建物の影は長く伸びている。
その路地の工房の軒先に、奇妙な光があった。
「光が白い」
周囲の店の油灯とは、明らかに色が違う。
近づいてみると、それは炎のように揺れることなく、まるでそこに小さな太陽の欠片が現れたように見える。
「……これ、火じゃないよね?」
「ああ。アーク灯……電気だな」
「電気って……スカラが前に言ってた、旧文明のエネルギー?」
「そうだ。この両端の炭素棒の間で放電させている――」
アルスは目を細めた。
二本の黒い棒。
その間に、目が痛くなるほど強い光が浮かんでいる。棒の先は少しずつ赤くなり、時折、白い光が微かに揺らいだ。
アルスは言葉を忘れて見惚れていた。
「……綺麗だね」
スカラはもう一度、白い光を見た。
「確かに綺麗だ」
その時。
「目をやられるぞ。あんまり近くで見るな」
工房の奥から声がした。
老人が作業の手を止め、こちらへ向かってくる。
「何だ? “電気ロウソク”を見たのは初めてか?」
「うん!まるで太陽みたい!」
老人は、興奮気味に頷くアルスを嬉しそうに見ていた。
スカラが尋ねる。
「ノブールでは電気が普及しているのか?」
老人は首を振ると、奥へ促した。
「ちょっとこっちへ来なさい」
小さな工房の中では、何人かの男が旧文明の機械を修理していた。
「これはどこから?」
「西の方だよ。旧文明の遺跡が多いからね」
アルスは、その手元を懐かしそうに見た。
「フォン、思い出すな」
「ああ」
工房を抜けると、建物の裏手に小さな水路があった。
その流れを受けて、水車が回っている。
動力は歯車を通して、錆びた大きな機械の軸へ伝わり、ブーンと無機質な音を立てていた。
アルスが水車と光を交互に見た。
「水車で電気ができるの?」
「回転を電気に変えている」
「どうやって?」
「磁石とコイルを――」
「そこから先が五十年かかった」
老人が笑った。
「五十年!?人生かけてるな!」
「好きでやっただけだよ」
スカラは、継ぎ接ぎだらけの機械を見た。
五十年。
目の前の歯車には、その時間が刻まれていた。
「その知識は、どこかに書き残してあるのか?」
老人は照れ笑いして首を振った。
「大袈裟な。ただの趣味だよ」
「書き残しておくといい」
スカラは言った。
「また壊れた時に、誰かが五十年かけずに済むから」
老人は少しだけ真面目な顔になった。
「……そうだな。考えてみるよ」
夕暮れの中で、白い光が小さく揺れた。
スカラは、もう一度機械を見た。
ブーン。
その時。
袖の下で、腕の輪がほんの少しだけ温かくなった。
「……?」
スカラは手首に触れる。
どこかで、この音を聞いたことがあるような気がした。
低く、一定に響く機械の唸り。
見慣れないはずの歯車。
初めて訪れたはずの工房なのに、一瞬だけ、知っている場所のように思えた。
だが、次の瞬間には消えていた。
「スカラ?」
アルスが覗き込む。
「どうしたの?」
「……いや」
スカラは手を離した。
「何でもない」
その時。
――ポォォォォォォッ。
低い音が、街の向こうから響いた。
船の汽笛に似ている。でも、海からではない。
道を歩いていた人が何人も振り返った。子どもたちが、一斉に同じ方向へ走っていく。
アルスも振り向く。
「……何の音?」
老人が笑った。
「今日は出るらしいな」
「何が?」
スカラだけが、目を見開いていた。




