第五十六話 砂漠を渡る
振り返るたび、サマラは小さくなった。
最初に市場の声が聞こえなくなった。
次に、青い屋根が砂に沈んだ。
最後まで残ったのは、サマラで一番高い塔だった。
それもやがて、地平線へ溶けた。
前にも、後ろにも、砂しかない。道はない。目印もない。
それなのに。
隊商の先頭を歩く一人の老人だけは、一度も迷わず西へ進んでいた。
何を見て歩いているのか。
スカラは、その背中をずっと見ていた。
「スカラ、これ!」
アルスの声に振り向く。
「サリムが食べろって」
手渡されたのは白い塊。
「サリムって誰だ?」
「ラクダを引いてる人」
少し先から声が飛ぶ。
「アルス!そっちの荷、ずれてるぞ!」
「ありがと!ファディ!」
スカラがまた見る。
「誰だ?」
「護衛の人」
「片言なのに、なんでそんなに仲良くなれる?」
アルスは首を傾げた。
「なんとなく?ってか、食べてみて」
スカラはもらった白い塊を一口かじる。
ガリッ!
「固い」
断面を見る。
「ラクダの乳か。発酵させて、水分を抜いてある」
「なんで?」
「腐りにくくするためだ。砂漠では――」
ガリッ!
「……しょっぱい」
「でも食べるんだね」
アルスも笑って、それをかじった。
「ほんと、しょっぱい!」
見渡す限りの砂丘は、容赦ない日差しを照り返していた。地平線の先まで続く、明るい砂の世界。
この一帯は「赤い砂漠」と呼ばれていた。だが、アルスにはどう見ても赤く見えなかった。
「……ところで、スカラ。さっきからずっと気になってるんだけど」
「なんだ?」
「その目に着けてるの、何?」
スカラは、目の位置に横一線の細い切れ込みが入った、ゴーグルのようなものを着けていた。
「気になるか?」
「いや、めちゃくちゃ気になるでしょ!それ!」
「日差しを避けるためのものだ」
「それで見えるの?」
「ああ。細い隙間から見ると、入ってくる光を減らせる。雪原や砂漠で使われてきた方法だ」
「へえ!」
「ただし、隙間から砂が入ることはあるし、紫外線を完全に防げるわけではない」
「難しいことはいいから、俺も欲しい!」
「作ってあるぞ」
スカラはもう一つを投げ渡した。
アルスが着けてみる。
「おおっ!」
「どうだ?」
「なんか、世界が細くなった!」
「見える範囲が狭くなるからな」
遠くまで目を凝らす。だが、どこまで見ても道はない。
「……道、どこ?」
アルスが言った。
「あるだろ」
ずっと前を歩いていた老人が答えた。
「どこに?」
老人は振り返りもしない。
「そこら中に」
アルスは辺りを見回した。
「ないけど」
「なら、お前には見えないんだろ」
「なんだこの爺さん」
「聞こえてるぞ」
「耳いいな、この爺さん!」
「それも聞こえてる」
老人の名はハキム。七十はとうに越え、日に焼けた皮膚は乾いた木のよう。白い髭が顎を覆っている。
背中は少し曲がっているが、歩く速さはアルスより速かった。
昔は自分で隊商を率いていたらしく、今はこの何も目印のない場所で、二十二人の命を預かり先頭を歩いて道を決める役目を担っていた。
「どうして方角が分かる?」
スカラが尋ねた。
ハキムは答えなかった。
「太陽?」
無視。
「地形?」
無視。
「聞こえてる?」
「うるさいな、お前さんは」
ようやく振り返った。
「質問しているだけだ。命を預けている以上、聞く権利がある」
「俺は歩いてるんだ」
「私も歩いている」
「お前さんはラクダに乗ってるだろ」
スカラは自分の下を見ると、確かに乗っていた。
「……厳密に言えばそうだ」
ハキムはまた前を向いた。
アルスが笑う。
「相手してもらえないね」
スカラは不機嫌に頬を膨らませた。
***
昼になると、隊商は岩山の影で止まった。
砂漠では、日差しが最も強い時間に無理をして歩かない。暑い中で身体を動かせば、それだけ汗をかき、水も必要になるからだ。
荷物が降ろされると、布が張られ、人々がその下へ潜り込んだ。
スカラは水の入った革袋を受け取った。
少しずつ飲む。
アルスが隣でごくごく飲もうとすると、ラシードが声をかけた。
「待て」
「ん?」
「慌てるな。まだ先は長い」
「暑いんだからいいじゃん」
「次の大きな井戸まで二日ある」
「まだこんなに入ってるよ」
「その『こんなに』を全員が言ったら、明日にはなくなる」
アルスは革袋を見た。
「……はい」
「喉が渇いてるなら飲め。ただし、配った分を勝手に使い切るな。足りなくなったら言え」
ラシードはそう告げると、少し離れた場所で荷を確認し始めた。
ラクダは十八頭。
絨毯、香辛料、陶器、金属製品、干した果物、布、そして水。
この隊商にある物の多くが、彼のものだった。
護衛たちの給金も彼が払っている。
つまり、ハキムが「どこへ行くか」を決める男なら、ラシードは「誰が何を使うか」を決める男だ。
――水は俺が管理する。
出発前にもラシードは全員へそう告げていた。
――勝手に持ち出すな。砂漠では、金より水の方が高い。
その言葉通り、水袋の数も残量も帳簿に記録している。
スカラはその様子を見ていた。
「合理的だな」
アルスが言う。
「ラシード?」
「ああ」
スカラはラシードを見る。
「物資が限られる以上、それを厳密に管理する人間は必要だ」
「ふーん」
「何?」
「いや」
アルスはそれ以上言わなかった。ただ、そんな合理的なラシードを見ていると、昔のスカラが重なった。
その時。
少し離れた天幕から、二人の商人の声が漏れてきた。
「しかし、あの女もお腹に子どもがいるのに、なんで砂漠を渡ろうなんてするんだ」
アルスがそちらを見る。
商人たちの視線の先には、ライラがいた。日陰に座り、大きなお腹を撫でている。
「サマラにいれば安全なのに」
「訳ありなんだろ」
「訳あり?」
男が声を潜めた。
「逃げてきたって話もある」
「誰から?」
「さあな。あんな若い女が、身重で一人サマラまで来て、今度は命懸けで戻るんだ。男絡みじゃないのか」
「夫か?」
肩をすくめる。
「知らんよ」
アルスはライラを見た。
少し離れた木陰で、ライラは胸元の鈴を握り、じっと見つめている。
やがて鈴をお腹へ近づけた。
ちりん。
小さな音がした。
ライラはお腹を撫でて、微笑んだ。その顔は、どこか寂しそうだ。
ふとライラが顔を上げ、アルスに気づくと小さく手を振る。アルスも慌てて手を振り返す。
「……ねえ」
「何?」
「ライラって、誰かから逃げてきたのかな」
「どうだろう」
「気にならない?」
「個人的な事情だからな」
「出るぞ!」
ハキムの声がした。
隊商が再び動き始めた。
***
また岩が減り、砂が増える。
風によって作られた波模様が、地面いっぱいに広がっている。
前方には、大きな砂丘。
一つ越えると、また砂丘。
越えると、また砂丘。
「……全部同じに見える」
アルスが言った。
「違う」
前を歩くハキムが答えた。
「何が?」
「全部だ」
ハキムはしゃがみ、砂を掴むと指の間から落とした。
次に遠くの砂丘を見る。
「少し西へずれるぞ」
隊商が向きを変える。
スカラの目が細くなった。
「待て」
ハキムが振り返る。
「何だ」
「そっちじゃない」
隊商の何人かも足を止めた。
アルスがスカラを見る。
「分かるの?」
「ああ」
スカラは太陽を見る。
次に砂丘。風向き。遠くに見える岩山。
頭の中で、ここまでの移動距離と方角を重ねる。
「今までの進路から考えれば、ここでさらに西へずれる必要はない。このまま進んだ方が近い」
ハキムは少しだけスカラを見た。
「そうか」
そして前を向く。
「西へ行くぞ」
「聞いていたか?」
「聞いた」
「なら――」
「お前さんは真っ直ぐ行けばいい」
スカラが黙る。
「……」
アルスが小声で言った。
「どうする?」
スカラはハキムの背中を睨んだ。
「ついていく」
「自信あったんじゃないの?」
「だからだ」
「?」
「私の計算が間違っているなら、理由を知りたい」
しばらく進んだ。
スカラは何度も後ろを見る。
どう考えても遠回りだった。
「やはりおかしい」
その時。
ハキムが立ち止まった。
「見ろ」
「?」
指した先には、枯れた低木が一本。
「……木?」
ハキムはしゃがみ込むと、その根元の砂を掘った。
表面の乾いた砂が除かれていくと、やがて色の濃い土が現れた。
スカラの目が変わる。
「……湿ってる」
「この辺りは、昔から地下に水がある」
ハキムは立ち上がり、遠くの岩山を見た。
「この先に、古い水場がある」
「なら、最初からそこへ向かえばいいだろう」
「向かってるさ」
「遠回りしている」
「砂丘は動く。昔の道をそのまま歩けるとは限らん」
ハキムは枯れ木を指した。
「だから、変わりにくいものを見てるんだ」
「変わりにくいもの?」
「岩山の位置。地面の低さ。水を吸って育った木の跡」
スカラは周囲を見渡した。
わずかな窪み。
砂の下から覗く岩。
遠くの山。
ハキムが続けた。
「昔はこの辺りにも、もっと木が生えていた。今じゃ、残っているのはこいつくらいだ」
「……ここを覚えていたのか?」
「ああ。何度も通った場所だからな」
ハキムは砂を払って立ち上がった。
「これで間違いない。もう少し先だ」
再び歩き始める。
スカラは周囲を見渡した。
太陽。風。砂丘。岩山。そして、砂の下に隠れていた古い水場。
「……私の計算には、その情報がなかった」
ハキムは笑った。
「お前がたくさんの本を読んできたように、俺は五十年、砂を読んできた」
アルスが横から顔を覗き込む。
「負けたね」
「勝負してない」
「してた顔だったよ」
「してない」
しばらく歩くと、ハキムは立ち止まった。
「着いたぞ」
「……どこに?」
アルスは辺りを見回した。
相変わらず、砂しかない。
ハキムが足元を指した。
「下だ」
目の前の地面に、小さな穴がいくつも縦に並んでいる。
まるで、誰かが砂漠に点線を引いたようだ。
その穴の一つは、人が降りられるぐらいの大きさで階段がついている。
アルスが目を丸くした。
「……これが水場?」
スカラは穴の並びを見た。
「……カナートか」
「知ってるのか?」
ハキムが尋ねた。
「ああ。地下に水路を掘って、山から水を運ぶ技術だ」
ハキムは笑った。
「知ってるなら、話が早い」
ハキムは穴の縁に積まれた石を指した。
「こいつは近くの村の連中が手入れしてる。砂が詰まれば、水が止まるからな」
「村があるの?」
アルスが辺りを見回す。
「ここから半日ほど南だ。隊商は通るたびに、水場の維持代を置いていく」
「誰もいないのに?」
「誰も見てないからって、ただで使っていいわけじゃない」
ハキムは笑った。
「次に通る奴が困るだろ」
スカラは水場を見つめた。
仕組みは知っていた。だが、ここにあるとは知らなかった。
そして、この水路が今も使えるのは、誰かが手入れを続けているからだった。
ハキムは五十年かけて、この砂漠の変化を見てきた。
砂丘が動き、道が消えても、変わらないものを手掛かりに水場へ辿り着く。
自分には、その経験がなかった。
「……すごいな」
スカラが呟いた。
ハキムが振り向く。
「何が?」
「あなたが」
ハキムは少し驚いた顔をして、笑った。
「まだまだ知らんことだらけだよ」
二人は、ハキムに続いて穴を地下へ下りた。
途中から、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
「涼しい!」
さらに下りると、水の流れる音が聞こえてきた。
「川だ!」
アルスが声を上げた。
「砂漠の地下に川が流れてる!」
周囲を石で固めた細い水路。その底を、水が静かに流れている。
スカラは目を見開いた。
「遠くの山に降った雨や雪が、地面に染み込んでここまで流れてきている」
「こんな遠くまで?」
「ああ。地面の下なら、日差しで失われる水も少ない」
スカラは流れの向こうを見た。
「白い塔の地図にも、これと似た水路が描かれていた」
「じゃあ、あの地図にあった水路も?」
「おそらく」
アルスは水路を覗き込んだ。
その時。
頭上から声が降ってきた。
「おーい!」
見上げると、階段の上からラシードが覗いていた。
「つべこべ言わずに水を汲め!」
取水口では、隊商の男たちが水を汲んでいた。
革袋を満たす。
料理に使う分を確保する。
ラクダにも順番に飲ませる。
グビグビグビ。
「すごい飲みっぷりだ」
アルスはラクダのこぶを撫でた。
「やっぱりここに水を貯め込んでるのかな?」
「いや。こぶは脂肪だ」
「……え?」
「飲んだ水は胃に入る。ラクダは汗を抑えたり、体温の変化に耐えたりして、水を節約できる」
「ちょっと待って」
「何?」
「今まで、ここに水が入ってると思ってた」
こぶを指す。
「入ってない」
「……夢が一つ消えた」
アルスはため息をついた。
「スカラって、たまに知識で人の夢を壊すよね」
「事実を教えただけだ」
ハキムの声が響く。
「そろそろ行くぞ!」
スカラが乗ってきたラクダは、水をたっぷり飲んで満足そうに座っていた。
ハキムが乗るのを手伝おうとするのを、スカラは止めた。
「一人で乗れるようになりたい」
「その方が俺も助かる。やってみろ」
アルスが尋ねる。
「本当にやれる?」
「構造は分かる」
「嫌な予感するな」
スカラがラクダへ近づいた。
「まず左足を――」
脚を上げた瞬間に、ラクダが立った。
「待て!まだ乗っていない!」
不格好なまま砂に突っ伏すスカラを、ラクダは歯をむき出しにして、まるで笑っているような顔で見下ろした。
「座れ」
座らない。
次は違う言語で。
「座れ」
ラクダが横を向いた。
「聞け」
無視。
アルスが吹き出した。
「笑うな」
「言い方が悪いんじゃない?」
「そんなはずは……」
するとハキムが近づき、ラクダの首を軽く撫でると、短い声で合図した。
ラクダがゆっくり座った。
スカラが固まる。
「……今、何をした?」
「いつもの合図を出した」
「何と言った?」
「座れってな」
「私も言った」
「こいつはお前さんの言葉を知らん」
アルスは腹を抱えて笑っている。
「やっぱり言い方じゃん!」
スカラは本気で困惑していた。
ハキムも笑った。
「本には、ラクダとの付き合い方まで書いてなかったか」
「……なかった」
「じゃあ一つ賢くなったな」
スカラはラクダを見ると、ハキムの真似をして、首へそっと手を当てた。
「……頼む」
ラクダは座ったままだった。
「できた」
「最初から座ってるよ!」
砂漠にアルスの笑い声が響いた。
すると前方で、ラシードの急かすような口笛が響いた。
「さあ、そろそろ行くぞ!」




