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第五十五話 白い塔

その夜、アルスは眠れなかった。


いや、正確には眠らせてもらえなかった。


窓の近くで何かが動く気配がして、目を開けるとスカラが立っている。


白い塔を見ていた。


しばらくするとベッドへ戻る。


また少しして起きる。


窓へ行く。


塔を見る。


戻る。


三度目で、アルスは布団の中から声をかけた。


「……何か気になるの?」


スカラが振り向いた。


「起きてたのか?」


「起こされたんだよ!人が三十分おきに窓の前をうろうろしてたら気になるでしょ」


「三十分ではない。平均二十二分程度だ」


「もっと多いじゃん」


スカラは窓の外を見る。


月明かりの中、白い塔だけが青い街から細く伸びている。


そして今度は腕を見ると、三本の輪が淡く光っていた。


「いつもと違う」


アルスも起き上がった。


「腕輪?」


「ああ」


「塔に反応してるの?」


「分からない」


スカラは外套を羽織った。


「だから確かめる」


「今から?夜中だよ?」


「明日の朝には、何がなんでもこの街を出る」


「だからって……」


「今、確かめなければ、次にいつ戻れるか分からない」


スカラはもう扉を開けていた。


「寝てていいよ」


「それ言われて素直に寝られると思う?」


***


夜のサマラは、昼とは別世界だった。


市場の店はほとんど閉まり、昼間あれほど響いていた人の声も消えている。


石畳を月明かりが青白く照らし、建物の壁を埋めるタイルだけが静かに光を返していた。


スカラは塔へ向かって歩く。


その後ろをアルスもついていく。


腕の輪が強くなると、立ち止まる。


三歩戻ると、また光が弱くなる。


進むと強くなる。


「……間違いない」


「何か分かった?」


「塔へ近づくほど反応が強くなる」


「じゃあ、あそこも……例のホットスポットってやつ?」


「可能性は高い」


スカラは腕を見る。


オオカミ岩。ヤナの村。シェンクゥ。


これまで旧文明の機械が残る場所で、この輪は何度も反応してきた。


そして今、砂漠の真ん中にある古い街で、また光っている。


二人は白い塔の下へ着いた。


「……で?」


アルスが見上げる。


「どうやって入るの?」


スカラも白い壁を見上げた。


窓らしい窓は遥か上で、入口はない。


塔の周りを一周してみるが、やはりない。


「ないな」


「どうする?」


「考えている」


「まさか登るとか言わないよね」


スカラが壁へ手を当てると、つるつるだった。


「……登れない」


アルスは胸を撫で下ろした。


「よかった」


「何が?」


「いや」


二人で周囲を探した。


塔の裏には、小さな商家が密集している。


荷物を屋上へ上げるためだろう。壁には滑車が取り付けられ、その下に長い縄が巻かれていた。


さらに隣の建物では、屋根を直している途中らしく、木で組んだ足場が白い塔の近くまで伸びている。


「……嫌な予感する」


「行けそうだな」


「言うと思った」


二人は二階、三階と足場を登り、屋根へ出た。


昼間、下から見上げていた青い街が、今度は足元に広がっていた。


無数の丸屋根。塔。細い路地。


そのすべてが月の光を受け、深い海の底に沈んだ都市のように青く光っている。


アルスは思わず足を止めた。


「……きれい」


遠く、街の外には月明かりに照らされた砂漠が広がっている。


青い都は、暗闇の海に浮かぶ島のようだった。


「昼と全然違うね」


「ああ」


「こういう景色も本に載ってた?」


スカラは少し考えた。


「ない」


アルスは笑った。


「じゃあ俺の方が先に知った」


スカラが見る。


「何を?」


「この景色」


一瞬、スカラは何も言わなかった。


「……そうだな」


二人は再び進んだ。


屋根から屋根へ。建物の間には細い隙間がある。


一つ目は飛び越えた。


二つ目。


三つ目。


アルスが下を見る。


「うわっ!!」


「見るな」


「見たくないけど、見ちゃった」


「もう見たなら仕方ないか」


白い塔まであと一棟。


だが最後の屋根との間だけ、大きく離れている。しかも、向こう側の足場は途中で途切れていた。


「……どうするの?」


スカラは周囲を見回した。


屋根の端には、修理用の長い木材が何本か置かれていた。


「これを渡す」


「橋にするの?」


「ああ」


二人で木材を運び、隙間へ渡す。


だが、端を載せただけでは不安定だった。


スカラは屋根の上に残っていた縄を使い、木材を足場の柱へ結びつけた。


反対側も固定する。


何度か押して、ずれないことを確かめた。


「……本当に大丈夫?」


「一人ずつなら」


「その言い方、怖いんだけど」


スカラが先に渡った。


木材が小さく軋む。


だが、動かない。


向こう側へ着くと振り返った。


「アルス」


「……うん」


アルスは木材へ足を掛けた。


下には暗い路地。


「見ない。下は見ない……」


一歩。


また一歩。


その時、強い風が吹いた。


「うわっ!」


アルスの身体が傾く。


スカラが咄嗟に腕を伸ばした。


「掴め!」


アルスはその手を握った。


二人は足場の上へ転がり込んだ。


しばらく、息を整える。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


「もう絶対、夜中に塔なんか登らないからね」


「次は昼にするか」


「そういう意味じゃない!」


すると、塔の中腹。


崩れた壁に、人一人が通れるほどの穴があった。


そこから中へ入ると、空気が変わった。


冷たい。


音がない。


月の光が、細い筋になって床へ落ちている。


壁際には古い階段があった。


二人は上へ向かった。


一段。


一段。


足音だけが響く。


すると途中から、スカラの腕の光がさらに強くなった。


一本。


二本。


三本。


白い光が、暗闇の中で脈打っている。


「スカラ」


「分かってる」


階段の先に、広い部屋があった。


そこには、いくつもの古い機械が並んでいた。


壁には細い管が走り、床には砂が積もっている。


割れた計器。


動かなくなった歯車。


数字の刻まれた金属板。


「……何の部屋?」


アルスが尋ねた。


スカラは壁の計器を調べた。


「気圧計。温度計。それに……」


別の機械へ目を向ける。


「水位を測る装置だ」


「水位?」


「水がどれくらいあるかを調べる」


スカラは床に伸びる細い管を見つめた。そのいくつかは、塔の地下へ続いているらしい。


「ここは、何かを観測する施設だったのかもしれない」


「何を?」


「天候や、水の状態だ」


その時だった。


カチッ。


「……?」


どこかで小さな音がした。


スカラが振り向く。


腕の内側が熱い。


一本。


二本。


三本。


三つの輪が強く輝いた。


すると突然。


目の前の空間に、青白い光が広がった。


「うわっ!」


アルスが飛び退く。


無数の細い線が空中を走る。


重なり合い、広がり、やがて一枚の地図を形作った。


「……また、これか」


スカラが呟いた。


「シェンクゥの時と同じ?」


「ああ。操作してないのになぜか勝手に」


光の地図がゆっくりと広がっていく。


山。


谷。


砂漠。


そして、いくつもの青い線。


「……川?」


アルスが尋ねた。


スカラは首を傾げた。


「いや……」


線の一つに近づく。


青い線は山の麓から伸び、谷へ入り、そこで地表の線と交差していた。


「地面の下だ」


「下?」


「地下を流れる水の道だと思う」


「地面の下に川があるの?」


「川とは少し違う。地下水を集めて運ぶための水路だ」


アルスは目を丸くした。


「そんなもの作れるの?」


「ああ。地面にわずかな傾斜があれば、水は自然に流れる」


「でも、こんなに長く?」


「……そうだな」


スカラも地図を見つめた。


青い線は山の麓から砂漠の奥まで続いている。ところどころで枝分かれし、今は砂しかない場所へ伸びていた。


「ずいぶん大きな仕組みだ」


その時だった。


地図の一部が、突然明るくなった。


「……?」


スカラが顔を近づける。


光の線の向こうに、別の景色が重なった。


水が流れている。


乾いた谷ではない。緑がある。


水路の両側に、見たこともない建物が並んでいる。


人々が歩いている。


誰かが水辺にしゃがみ、手を浸していた。


笑い声が聞こえた。


スカラは息を呑んだ。


「……!」


一瞬だった。


瞬きをすると、景色は消えていた。


残ったのは、青白い地図だけ。


「スカラ?」


アルスが顔を覗き込む。


「どうしたの?」


「……昔の景色が見えた」


「昔?」


「分からない。だが、この場所にはもっと水があったのかもしれない」


アルスは地図を見た。


「じゃあ、今もある?」


「それは分からない」


スカラは青い線を指した。


「これは古い記録だ。今も水が流れているとは限らない」


「そっか……」


アルスは少し残念そうにした。


だが、すぐに顔を上げる。


「でも、すごいね」


「何が?」


「こんな砂漠の下に、水の道を作ってたなんて」


スカラは地図を見つめた。


「……ああ。ところでアルス。紙はあるか?」


「紙?」


「それと、書くもの」


アルスは鞄を探った。


旅の途中で使っていた紙と、短くなった筆記具を取り出す。


「何するの?」


「書き写す」


スカラは床へしゃがんだ。光の地図を見ながら、紙に線を引き始める。


「これ、持って帰れないの?」


アルスが光へ手を伸ばした。


指は何の抵抗もなく通り抜ける。


「ホットスポットから離れれば消える」


「そっか」


「だから今のうちに写しておく」


スカラは山の形を描いた。そして、谷。古い道。そして水路。次々と線を書き込んでいく。


やがて、地図の西側に小さな印が見つかった。


「……これは?」


「何?」


「水路の途中に、別の施設がある」


「井戸?」


「分からない。地図には印しかない」


スカラはその位置も書き写した。周囲には、古い水路がいくつも集まっている。


「今も使えるのかな?」


アルスが尋ねた。


スカラはしばらく地図を見つめた。


「……分からない」


そして、紙を折り畳んだ。


「でも、確かめることはできる」


さらに上へ続く階段があった。


「まだ登るの?」


アルスが天井を見上げる。


「上にも何かある」


二人は階段を上がる。


そこは、最上階。巨大な機械があった。


円形の台座。そこから斜めに伸びる、一本の金属の腕。


腕の先には何もない。ただ、空があった。


「……何これ」


アルスが近づいた。


「これも水を調べる機械?」


スカラは首を振った。


「分からない」


機械の表面には、見たことのない記号が刻まれていた。錆びている部分もある。


だが、長い金属の腕だけは、不思議なほど滑らかだった。


スカラが一歩近づく。


その瞬間。


腕の輪が、熱を持った。


「……っ!」


中層の装置とは比べものにならないほど、強く。


一本。


二本。


三本。


光が重なった。


視界が白く染まる。


そして。


誰かがいた。


白い光の中、一人の人間が空へ手を伸ばしている。顔は見えない。声も聞こえない。


ただ、その後ろ姿だけが見えた。


スカラは息を呑んだ。


なぜだろう。


その手の動きを、知っている気がした。


どこかで見た。


いや。


見たことがあるはずがないのに、懐かしい。


もっと――。


「スカラ!」


アルスの声が響いた。


次の瞬間、視界が戻った。


スカラは床に膝をついていた。


「大丈夫!?」


アルスが駆け寄る。


「急に倒れたからびっくりしたよ!」


「……ああ」


スカラはゆっくり顔を上げた。


機械は動いていない。何も起こっていない。


「何か見えた?」


アルスが尋ねた。


スカラは自分の手を見つめた。


「……誰かがいた」


「誰か?」


「空へ手を伸ばしていた」


アルスは機械を見上げた。


「この機械を使ってた人?」


「分からない」


「昔の人?」


「それも分からない」


アルスはスカラを見た。


「今日、分からない多いね」


「……ああ」


スカラはもう一度、金属の腕を見つめた。


そして小さく呟いた。


「……ここへ来たことがある気がする」


アルスは辺りを見回した。


「初めて来たんでしょ?」


「そのはずだ」


スカラは機械へ手を伸ばすが、今度は何も起こらなかった。


三本の輪も、淡く光るだけだった。


「これ、何のための機械なんだろう」


アルスが尋ねた。


スカラは空を見上げた。


金属の腕は、何もない夜空を指している。


「……分からない」


「じゃあ、またいつか分かるといいね」


スカラはその言葉を聞いて、しばらく黙った。


「……そうだな」


塔を出る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。


アルスは大きな欠伸をした。


「……結局、徹夜じゃん。今日はもう寝ようよ」


「隊商が出る」


「そうだった!」


スカラは懐から折り畳んだ紙を取り出した。


昨夜、光の地図を書き写したものだ。


「これが役に立つかもしれない」


「どうして?」


「隊商が必要としているものが描かれている」


アルスは地図を覗き込んだ。


「でも、そこに今も水があるか分からないんでしょ?」


「その通りだ」


「それでも?」


「少なくとも、調べる価値はある」


スカラは紙を畳み直した。


「行こう」


翌朝。

「だから無理なものは無理だと言っただろ」


出発の準備に追われるラシードは、迷惑そうに声を荒げた。


「見れば分かるだろ?今、忙しいから邪魔するな」


広場では、ラクダへ次々と荷が積まれている。


スカラは一歩踏み込んだ。


「では、同行できなくてもいい。一つだけ確認したいことがある」


「しつこいな……」


ラシードは呆れ顔で作業を続ける。


スカラは懐から一枚の紙を取り出した。


「これを見てほしい」


「何だ?」


「サマラから西へ続く、古い道の地図だ」


ラシードは面倒そうに目を落とした。


だが、次の瞬間。


その手が止まった。


「……おい」


地図を奪うように受け取る。


「これ、どこで手に入れた?」


「旧文明時代の記録だ」


ラシードは地図を食い入るように見つめた。


山の形。


谷の位置。


古い道。


そして、いくつもの水場。


「……こっちは、今でも使ってる井戸だ」


指を動かす。


「これもそうだ。こっちの道は、今じゃ砂に埋まってるが……」


ラシードが顔を上げた。


「ずいぶん古い地図だな」


「おおよそは合っているんだな?」


「おおよそどころか、かなり正確だ」


ラシードはさらに地図を見つめた。


そして、一点を指した。


「……ただ、これは知らない」


「どこだ?」


「ここだ。今の隊商路から少し外れている」


スカラは頷いた。


昨夜、古い水路が集まっていた場所だった。


「旧文明の施設らしい」


「水場か?」


「分からない。ただ、地下水路に関係する場所のようだ」


ラシードは腕を組んだ。


「今も水があるのか?」


「それも分からない」


「分からないことだらけじゃないか」


「古い地図だからな」


スカラは続けた。


「ただ、もし予定している井戸が使えなかった場合、別の可能性にはなる」


ラシードの目が変わった。


商人の目だ。


「……なるほどな」


砂漠では、水場を一つ失うだけで隊商全体が危険にさらされる。


確実な情報ではない。


だが、未知の水場の手がかりは、それだけで価値があった。


「お前、この地図をどこまで読める?」


「地形や水路の仕組みなら説明できる」


「他には?」


「医学の知識もある」


「医者か?」


「違う」


「じゃあ何だ」


スカラは少し考えた。


「ただの旅人。だが、大抵のことは知っている」


アルスが横から付け加えた。


「人の気持ち以外は」


「それは余計だ」


ラシードは二人を見た。


しばらく黙っていたが、やがて積荷を確認する。


「……あの箱を降ろせ」


近くの男が驚いた。


「旦那、でもこれは――」


「いい。次に回せ」


大きな木箱が一つ、ラクダから降ろされた。


ラシードは別の男を呼んだ。


「予備の水袋を二人に渡せ。食料も人数分を確保しろ」


そして、スカラを見る。


「二人分だ」


アルスの顔が明るくなった。


「本当!?俺たちもついてっていいの?」


「ただし」


ラシードが指を立てた。


「役に立て」


スカラは頷いた。


「そのつもりだ」


「お前じゃない」


「え?」


ラシードはアルスを指した。


「そっちだ」


「俺!?」


「こいつが本当に何でも知ってるなら、お前は何ができる」


アルスが固まった。


「えっと……」


スカラが横を見る。


アルスは必死に考えた。


「……泳げます」


「砂漠で?」


「……高いところは、ちょっと苦手です」


「聞いてない」


「船なら操れます」


「砂漠だぞ」


「魚も獲れます!」


「砂漠だと言ってるだろ!」


ラシードが頭を抱えた。


それを見て、スカラが小さく笑った。


「大丈夫」


アルスが見る。


「何が?」


「たぶん、役に立つ」


「たぶん!?」


ラシードは深いため息をついた。


「……もういい。乗れ」


「やった!」


アルスが飛び上がった。


その向こう。


ナディアがラクダのそばに立っていた。


ライラもいる。


スカラたちに気づくと、嬉しそうに手を振った。


スカラも小さく手を上げた。


***


朝日が昇る。


青い塔が光を受けて輝き始める。


その真ん中で、白い塔だけが何事もなかったように空を指していた。


スカラはそれを見上げた。


昨夜見たものは、まだ分からない。


失われた水の道。

地図に残された、名前のない場所。

そして、空へ向けられた謎の機械。

懐には、書き写した地図がある。


けれど、あの不思議な景色だけは紙に描けなかった。


空へ手を伸ばす、誰かの後ろ姿。

なぜか懐かしく感じた、その光景。


スカラはもう一度、白い塔を見上げた。


でも、それでいい。分からないなら、見に行けばいい。


スカラは砂漠の向こうへ顔を向けた。


「行こう」


サマラの巨大な門が開いた。


十八頭のラクダが鈴を鳴らしながら動き出す。青い都を離れ、道のない世界へ。

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