第五十四話 青の都サマラ
門をくぐった瞬間、世界がひっくり返った。
「うわ……!」
人。
人。
人。
巨大な通りを、数えきれないほどの人間が行き交っている。
頭に布を巻いた商人。
色鮮やかな服を着た女たち。
大きな荷を背負った男。
裸足で走り回る子ども。
そんな賑わいの間を、鈴を鳴らしながらラクダが悠々と歩いていく。
左右には店が隙間なく並んでいた。
赤や黄色の香辛料。山のように積まれた果物。金銀の装飾品。絨毯。陶器。薬草。焼いた肉から立ち上る煙。
そして、そのすべてを包み込むように青い建物が続いている。
壁を埋め尽くす小さなタイル。
花。星。幾何学模様。
同じ形がどこまでも繰り返され、離れて見ると巨大な一枚の絵のようだった。
「すごい!」
アルスは右を見る。左を見る。
「あの人、スカラと同じ髪の色だ!初めて見た」
「色んな民族が集まってくるからな」
耳を澄ませば、飛び交っている言葉まで違った。
東の言葉。
西の言葉。
北の言葉。
南の言葉。
アルスにはダルカやシェンクゥの言葉は聞き取れるが、それ以外は何を言っているのかほとんど分からない。
けれどスカラは、時々そちらへ顔を向ける。
「今の何語?」
「西方の言葉。儲け話をしている」
「こっちは?」
「北の遊牧民の言葉。恋バナをしている」
「あれは?」
「知らない。けど多分スケベな話をしている」
「知らないのに分かるの!?」
「そんな顔をしてるから」
アルスは吹き出した。
その時。
「そこのお嬢ちゃん!金髪のお嬢ちゃん!」
横から声が飛んできた。
スカラが振り向くと、太った店主が串に刺した肉を差し出していた。
「試食してきなよ!」
香辛料をたっぷりまぶし、炭火で焼いた肉から脂が滴っている。
「なんでいつもスカラばっかり試食させてもらえるの?」
「知らない」
スカラが受け取る。
もぐ。
「どう?」
「……」
もぐもぐ。
「……」
もぐもぐ。もぐもぐ。
「おいひい」
「美味しい?噛みきれないの?」
スカラはもぐもぐしながら頷いた。
「でもいい匂いだな!俺にも試食させて!」
アルスが店主へ手を伸ばすと、店主は笑顔で金を出せと手のひらを出した。
「その扱いの違い、何!?」
スカラはようやく肉を飲み込むと言った。
「人間には食べ物を与えたくなる顔というものがあるのかもしれないな」
「ズルい!」
二人は市場を歩きながら、さらに西へ向かう道を聞いて回った。
返ってくる答えは、どれも同じだった。
ここから先は本格的な砂漠が広がっている。
井戸から次の井戸まで何日もかかるし、盗賊も出る。方角を一つ間違えれば、何もない砂の中を延々と歩き、最悪干からびて死ぬ。
だから行くなら隊商に加わるしかない。
「次の隊商はいつ出る?」
スカラが尋ねると、絨毯屋の老人が市場の向こうを指した。
「明日の朝だ」
「さすがに急だね。その次の隊商が出るのはいつなの?」
老人は三本指を立てる。
「三日後?」
「いや」
「三週間後?」
「いや、三か月は出ないそうだ」
これから暑さがさらに厳しくなる季節に入る。その間、大きな隊商は砂漠を渡らないらしい。
「三か月後!?」
アルスが叫んだ。
スカラも黙った。
三か月。
これまで越えてきた国を一つ戻れるほどの時間だ。
「明日のに乗れなかったら……」
「何としても乗る」
スカラが答えた、その時だった。
腕の内側が熱を持った。
「……?」
足が止まる。
淡い光の輪が一本、二本、三本。
「スカラ?」
アルスが覗き込む。
「光ってる」
スカラは腕を見つめた。
ダルカを離れてから、一度も反応しなかったのに。
顔を上げると、市場の向こうに折り重なる青い建物の隙間から、一本だけ飾り気のない白い塔が突き出していた。
「……あれか」
「何?」
スカラは塔を見つめた。
腕の奥で、何かが脈打つように疼いている。
「いや」
袖を下ろした。
スカラは気になる様子で、もう一度だけ塔を見た。
「……まず隊商だ」
「珍しいね」
「何が?」
「スカラが『分からないもの』を後回しにするの」
「三か月待つ方が嫌だ」
***
市場の外れに、広い荷積み場があった。
十八頭のラクダが、ところどころに膝を折って座っている。
その周囲には木箱や革袋、絨毯、干した食料が積み上げられ、武器を持った護衛たちが行き来していた。
翌朝、砂漠へ出る隊商だった。
中でもひときわ立派な衣服をまとった大柄な男に、スカラが話しかけた。
「私たち二人も同行させてほしい」
男は見ていた帳簿から顔を上げずに言った。
「無理だ」
「まだ何も説明してない」
「満員だ」
「我々の荷物は少ない」
「人間二人は人間二人だ。それに砂漠じゃ、お前たち自身が荷物だ」
「私は小さい」
「そういう問題じゃないんじゃない?」
アルスは男の手元を見た。
帳簿。
積み上げられた荷。
何度も数えている水の革袋。
「ねえ、おじさん」
「何だ」
「何があれば、二人乗せてもいい?」
男が初めて帳簿から顔を上げた。
「何?」
「人数が増えるのが嫌なんじゃないんでしょ?」
男の眉が動く。
アルスは革袋を見る。
男は少し黙った。
「……水だけじゃない。食料、ラクダの負担、歩けなくなった時の人手。人間一人増えるってのは、口が一つ増えることじゃない」
「そっか」
アルスは頷いた。
「じゃあ、その分自分たちで持てたら?」
「簡単に言うな」
「だから聞いてるんだよ。何があればいい?」
スカラは黙って二人のやりとりを見ていた。
口を挟む必要すらなかった。
その時。
広場の向こうで、一人の女がよろめいた。
大きなお腹を両手で抱えるように支えている。
「あっ」
女の膝から力が抜けるのを見て、アルスが駆け寄った。
倒れる寸前、その身体を受け止める。
「大丈夫ですか?」
「……はい。ありがとうございます」
額に汗が浮かんでいる。
追いついたスカラも身体を支え、手首へ指を当てた。
「脈が速い」
「そのまま支えといてくださいな」
突然、低い声がした。
振り返ると、小柄な老婆が立っていた。
白髪を布でまとめ、深い皺の奥から鋭い目がこちらを見ている。
老婆は女の顔を覗き込んだ。
「ライラ。私を見な」
「大丈夫です、ナディアさん」
「大丈夫な奴は地面に座り込まないよ」
腹へ手を当てる。
呼吸を見る。
顔色を確かめる。
その動きを見ながら、スカラが言った。
「心拍はやや速い。発汗が多い」
老婆――ナディアは頷いた。
「まず日陰だ。少しずつ水を飲ませよう」
「同意する」
「足も休ませる」
「それも同意する」
二人は顔を見合わせた。
ナディアが眉を上げる。
「何だい」
「いや」
スカラも少し首を傾げた。
「見ているところが全然違うのに、同じ結論になったなと」
「結論?そんなこと気にする娘なんて初めて見たね」
近くの天幕へライラを運ぶと、アルスが持ってきた水を少しずつ飲ませた。
ナディアはライラの様子を見守り、しばらく休ませた。
やがて顔色が戻ってくる。
「ありがとうございます」
ライラは小さく頭を下げた。
その時、膝の上に置いていた布包みが滑り落ちた。
「あっ」
ライラは慌てて拾い上げる。
古びた、小さな布包みだった。
「大切なものなの?」
アルスが尋ねた。
ライラは一瞬だけ迷ってから、微笑んだ。
「……はい」
それ以上は言わず、胸元へしまい込んだ。
ちりん。
腰に結ばれた小さな鈴が鳴った。
ライラはその鈴にも指を添えた。
スカラはそのお腹を見る。明らかに出産が近い。
「こんなので砂漠越えられるかね」
ナディアの言葉に、スカラの動きが止まった。
「明日のに同行するのか?」
「はい」
「やめた方がいい」
空気が止まった。
だがスカラは構わず続けた。
「出産が近い状態で長距離を移動するのは危険だ。砂漠ならなおさら。脱水、転倒、出血――」
「スカラ……」
「危険性を説明しているだけだ」
「分かってます」
ライラの声は静かだが、はっきりしている。
腹に手を置いて続ける。
「でも、帰らなきゃ」
「なぜ?」
答えはなかった。
ほんの一瞬、ライラの表情にさっきまでとは違うものが浮かぶ。悲しさとも、怖さとも、どちらともつかない顔。
「……行かないといけないんです」
それだけだった。
スカラには理解できなかった。
危険性は明らかだ。
今いるサマラには医者もいる。水もある。食料もある。合理的に考えれば、ここに残るべき。
「次の隊商を待てば――」
「三か月以上先だよ」
ナディアが言った。
「その頃には、この子はもう生まれてる」
ライラの腹を見る。
「生まれたばかりの子を抱えて、砂漠を越えるのも簡単じゃない。もちろん、今出るのが安全だって意味じゃないよ」
「なら、なおさら――」
「分かってるさ」
ナディアはスカラを見た。
「だから私が一緒に行く。それがラシードの出した条件さ」
そこには先ほど帳簿を持っていた男が、商人たちへ次々と指示を出している。
彼こそが隊商を取り仕切る大商人、ラシード。だ
「あなたは医者なのか?」
「そんな立派なもんじゃないよ。子どもを取り上げてきただけだ」
ナディアはライラの肩へ手を置いた。
もう一度、尋ねようとした。
――なぜ、そこまでして急いでこの町を出る必要があるのか?
だが、アルスが先に袖を掴んで小さく首を振る。
「きっと、彼女なりの事情があるんだよ」
スカラはライラを見た。
胸元の布包みを握りしめている。
「……そうか」
それ以上は尋ねなかった。
***
少しして、二人はラシードのところへ戻った。
「やはり二人分の席を増やせないか?金なら用意できる」
「無理なものは無理だ」
「そこを何とか……」
「なら、あの二人に席を譲るように話せ」
ラシードがライラとナディアを指した。
「二人分空く」
スカラは先ほどのライラの顔を思い出した。
「……それは無理そうだ」
「なら諦めろ」
話は終わった。
アルスと二人、市場へ戻る。
「これからどうする?」
「考えている」
「三か月待つしかないのかな?」
「それは嫌だ」
「俺も嫌だけど」
スカラは歩きながら考えた。
その視線が、ふと上へ向く。
夕陽に染まる青い街。
その真ん中に白い塔。
袖の下で、また腕が熱を持った。




