第五十三話 岩の回廊
緑が消えた。
最初は、木が減った。
次に、草が減った。
昨日まで道の脇に生えていた黄色い花も、いつの間にか見なくなった。
やがて地面から土まで消えた。
風が吹くたび、乾いた砂が足跡を少しずつ埋めていく。
振り返ると、自分たちが歩いてきた道さえも消えて、残ったのは見渡す限りの砂と岩。それと青い空だけ。
「……何もない」
アルスが呟いた。
「ある」
隣を歩いていたスカラが答えた。
「え?」
スカラはしゃがむと、砂の上に開いた小さな穴を指した。
「トカゲ」
「そういうことじゃない」
穴の奥から、黒い瞳だけがこちらを見ていた。スカラが顔を近づけると、トカゲは迷惑そうに奥へ引っ込んだ。
「逃げた」
「そりゃ逃げるよ」
大陸の西方と東方を分かつ山岳地帯。
その間を結ぶ回廊を抜けるため、二人はダルカの西端で出会った小さな隊商に同行していた。
峠越えの山道は次第に細くなっていく。
右は岩壁、左は崖。
人が一人通れるほどの道を、荷を背負った十頭ほどのラバと共に、一列になって進んでいく。
足元には岩くずが積み重なり、踏み外せばそのまま崖の下だ。
アルスは脚の震えを抑えながら、岩壁にところどころ彫り込まれた石碑のようなものに手を掛け、慎重に歩いていた。
「ねえ、スカラ」
「……なんだ?」
「さっきからある、この石の置物って何?」
スカラは隊商の男に山の言葉で尋ねた。
返ってきた答えを聞いて、アルスへ向き直る。
「墓標だそうだ」
「墓標?」
「この崖から落ちた旅人たちの。アルスが手を掛けているそれも」
「えっ!これも!?」
アルスは慌てて手を引っ込めた。
道のあちこちに並ぶ、名もなき旅人たちの墓標。
それは崖道の険しさを知らせると同時に、それほどの危険を冒してでも、町と町を繋ごうとした人間たちの執念を物語っていた。
その後も、朝は太陽が昇る前に出発し、昼になると岩陰で休み、陽が傾くとまた歩く。
そんな生活を三日も続けた。
すると、さすがに緊張感も薄れてくる。
「ねえ」
「何?」
「あとどれくらい?」
アルスは欠伸をしながら、後ろを歩くスカラに尋ねた。
「道を知っているのは前の人間だ。私に聞くな」
アルスが先頭の男に片言のダルカ語で声をかけると、男は振り返り、日に焼けた指を一本立てた。
「一日?」
男は首を振った。
もう一本。
「二日?」
首を振る。
さらに一本。
「三日?」
男は頷いた。
アルスはその場に座り込みそうになった。
「あと三日!?」
スカラは涼しい顔をしている。
「人間は食料と水さえ確保できれば、数百キロ程度の移動は――」
「今、そういう話聞きたくない」
「そうか。私は聞きたいけどな」
「じゃあ自分で自分に話せば?」
その時だった。
ガラッ。
足元で石が崩れた。
「危ない!」
前を歩いていた男の身体が傾いた。
伸ばされた手が、空を掴む。
「うわあああっ!」
男が崖の下へ消えた。
「止まった!」
十メートルほど下。男は斜面から突き出した岩棚にしがみついていた。
完全な垂直ではないが、足元は細かな砂礫で、身体を持ち上げようとするたびに崩れていく。
「動くな!」
隊商の男たちが縄を下ろした。
「身体に巻け!」
男は震える手で縄を掴み、脇の下へ回した。
「引け!」
三人が縄を握る。
「せーの!」
ぐっ、と縄が張った。
男の身体が少し浮く。
だが。
「重っ……!」
男の足場が崩れ、身体が再び岩壁へ叩きつけられた。
「もう一人!」
アルスが縄を掴もうとした。
「待て」
スカラが止めた。
「何!?」
「持ち上げようとするから重い」
「人が落ちてるんだよ!」
「見れば分かる」
スカラは崖下を覗いた。
男の下には、細いが斜面が続いている。ところどころに、足を置けそうな岩もあった。
「全部こっちで持ち上げる必要はない」
「じゃあ、どうするの?」
「本人に登ってもらう」
「登れないから困ってるんだけど!」
「今はな」
スカラは辺りを見回した。
崖際から少し離れたところに、大きな岩がある。
蹴る。
動かない。
根元を調べると、岩盤と一体になっていた。
「縄をここへ回して」
「何するんだ?」
「落ちないようにする」
スカラは男たちに縄を大岩へ回させた。
「縄を握って。男が登る間、少しずつ引いて」
「それだけか?」
「それだけだ。引き上げようとしなくていい」
スカラは崖下へ叫んだ。
「右の岩に足を!」
男が足を伸ばす。
届いた。
「そこを踏んで、自分で登って!」
男が岩を蹴る。
一歩だけ身体が上がる。
「今!」
アルスたちが縄を引き、緩んだ分を詰める。
男がまた足を上げる。
一歩。
縄を詰める。
一歩。
縄を詰める。
少しずつ、少しずつ。
その時。
ガラッ!
足場が崩れた。
「うわっ!」
男の身体が滑り落ちる。
だが。
ガッ!
縄が張った。
岩を支点にして、男たちが必死に踏ん張っていた。
「……!」
男が息を呑む。
「大丈夫!」
アルスが叫んだ。
「縄がある!もう一回!」
男は頷いた。
一歩。
縄を詰める。
一歩。
縄を詰める。
やがて男の手が崖の縁に掛かった。
「掴め!」
アルスたちが腕を掴む。
「せーの!」
男の身体を引き上げた。
ドサッ。
「はあ……はあ……」
男は地面に転がった。
しばらく誰も喋らなかった。
アルスも座り込む。
「……助かった」
アルスは崖下を覗いた。
それから、縄を見る。
「なんか、ずるくない?」
「何が?」
「力がないから、持ち上げるのをやめるって」
「問題を難しいまま解く必要はない」
スカラは歩き出した。
「条件を変えればいい」
アルスは一瞬考えた。
「……それ、本に書いてあった?」
スカラの足が止まる。
「いや」
振り返る。
「今、考えた」
アルスが笑った。
「そっちの方が、すごいじゃん」
「そうか?」
スカラは少しだけ考えて、また歩き出した。
***
ようやく峠を越えると、世界は少しずつ変わっていった。
山々は低くなり、やがて地平線へ沈んだ。
岩ばかりだった地面に砂が増え、風が吹くたび、足元を細い砂煙が蛇のように走っていく。
昼は、空から火が降ってくるように暑かった。
だが日が沈むと、今度は嘘のように冷える。
アルスは毛布にくるまりながら空を見上げた。
遮るもののない夜空には、コタで見たこともないほど多くの星が浮かんでいた。
「これが砂漠か。変なところだなぁ「
「何が?」
「昼と夜で、別の国みたい」
「乾燥した地面は日中に熱くなりやすく、夜は熱を失いやすい。それに雲も少ないから――」
「それは明日聞く」
「そうか」
スカラも空を見上げた。
星だけは、どこへ行っても同じだった。
コタでも。
シェンクゥでも。
ダルカでも。
けれど――。
スカラは北の空を見つめた。
星々の見える位置が、少しずつ変わっている。自分たちは確かに北へ近づいていた。
――本を全部読み終えたら、北の果てで会おうね。
北の果て。あの人が待っていると言った場所へ。
翌日。
「おい!」
先頭の男が声を上げると同時に、隊商の人々が一斉に顔を上げた。
アルスも目を細める。
「何?」
地平線に、青いものが見えた。
「湖?」
アルスが目を凝らす。
「それとも幻?」
スカラも足を止めた。
砂色の世界の向こうに、一本だけ青い線が見える。
「いや」
近づくにつれて、それは細い線になり、塔になり、壁になった。
巨大な門。
青いタイル。
青い屋根。
青い塔。
太陽の光を受けた無数のタイルが、宝石のようにきらきらと輝いている。
アルスは立ち止まった。
「……青い」
それしか言葉が出なかった。
砂色の世界の真ん中に、空を切り取って作ったような都市が現れた。
大陸の東と西を結ぶ、砂漠の交易都市――サマラ。
その街の中心には、一本だけ白い塔が立っていた。
アルスは疲れも忘れて走り出した。
「スカラ!早く!」
「急いでも門は逃げない」
「分かってるよ!」
「なら走る必要は――」
「いいから!」
アルスの背中を見ながら、スカラも少しだけ歩調を速めた。
砂の向こう。
青い都へ。




