第五十二話 ヤナの手記
昔、私は「呪われた村の子ども」だった。
村では、次々と人が病気になった。母さんも倒れた。大人たちは、私たちの村には呪いがかかっていると言った。村の外へ行けば、誰も近づこうとしなかった。私が歩くと、人々は道を空けた。
最初は、悲しかった。どうして私たちだけ、こんな目に遭うんだろう。何か悪いことをしたのかな。神様を怒らせたのかな。
でも、何度もそういうことが続くうちに、悲しいと思うことさえ減っていった。きっと、仕方のないことなんだ。私は、そう思うようになっていた。
そんなとき、二人に出会った。
アルスと、スカラ。
最初に驚いたのは、アルスだった。私が呪われた村の子どもだと知っても、逃げなかった。それどころか、当たり前みたいに話しかけてきた。
「何も悪いことしてない人を、どうして神様が呪わなきゃいけないの?」
その言葉を聞いたとき、私は何も答えられなかった。だって、そんなふうに考えたことがなかったから。呪いを受けたのは、私たちが悪いから。ずっと、そう思っていた。
でも、アルスは違った。
私が悪いなんて、少しも思っていなかった。それが、不思議だった。そして、少しだけ嬉しかった。
スカラは、もっと不思議な人だった。
村の様子を調べ、病気になった人たちの話を聞き、水や土まで調べ始めた。何かを見つけるたびに、難しいことを言った。正直、半分も分からなかった。
でも、一つだけ分かったことがある。
スカラは、私たちの村を怖がっていなかった。呪いがあるかどうかではなく、何が起きているのかを知ろうとしていた。そして、とうとう原因を見つけた。
「呪いは知識で解ける」
あの言葉を、私は一生忘れないと思う。母さんの病気も、村の人たちの苦しみも、神様の罰なんかじゃなかった。ちゃんと原因があった。それを知ったとき、嬉しいより先に、涙が出た。
だって。
私たちは、悪くなかったんだ。
母さんも。
村のみんなも。
私も。
誰かに許してもらわなくても、生きていてよかったんだ。
あの日、スカラは私たちの村から呪いを解いてくれた。でも、私が本当に救われたのは、それだけじゃなかった。
世界には、分からないことがたくさんある。
そして、分からないからといって、怖がったり、諦めたりする必要はない。
調べれば、分かることがある。考えれば、変えられることがある。それを、二人が教えてくれた。
あのときは、本気で思った。
スカラは神様なんじゃないかって。
でも、今なら分かる。
スカラは神様じゃない。
分からなければ調べる。できなければ考える。失敗したら、また試す。
世界中の本を読んだというのに、知らないことに出会うと、どこか嬉しそうな顔をする。だから、私もそうなりたいと思った。
誰かが困っているとき、ただ怖がるのではなく、何ができるか考えられる人に。
あの日、二人が私にしてくれたように。
***
二人がコタを旅立った日のことは、今でもよく覚えている。
朝から港は賑やかだった。魚を運ぶ人、船に荷物を積む人、出航を待つ人たち。いつもと変わらない朝だった。
ただ一つ。
今日は、アルスとスカラがいなくなる。
「ヤナ!」
船の上から、アルスが手を振っていた。
「元気でな!」
「……うん!」
私は精一杯、笑って手を振り返した。
「次に会ったとき、どっちが知識あるか勝負な!」
「……勝手なこと言わないで!」
アルスが笑った。
その隣で、スカラもこちらを見ていた。
「ヤナ」
「何?」
「勉強は続けろよ」
「……分かってる!」
「分からないことがあったら、まず調べるんだ」
「それも分かってる!」
「それから――」
「もう! お別れのときくらい、先生みたいなこと言わないでよ!」
アルスが吹き出した。スカラは少しだけ首を傾げ、それから小さく笑った。
やがて、船が岸を離れた。
私は手を振り続けた。
二人の姿が小さくなっても。
声が届かなくなっても。
ずっと。
やがて船は、水平線の向こうへ消えていった。
私は手を下ろした。
さっきまであんなに賑やかだった港が、急に静かになった気がした。変わらず、漁師さんたちは魚を運び、市場ではいつものように声が飛び交っている。
変わったのは、私だけだった。
……寂しい。
二人がいなくなって、胸の中にぽっかり穴が開いたみたいだった。
でも、それだけじゃない。
少し、腹が立っていた。
世界には、まだ知らない国がある。知らない人がいる。知らない知識が、山ほどある。
そんなことを教えてくれたのは、あの二人だった。
それなのに自分たちだけ、見に行くなんて。
……ずるい。
私だって、行きたかった。海の向こうを見てみたかった。でも、今の私がついていっても、きっと何もできない。
スカラみたいに、何でも知っているわけじゃない。
アルスみたいに、誰とでもすぐ仲良くなれるわけでもない。
私は、まだ知らないことばかりだった。
港の向こうを見つめた。
……いつか。
今度は私が、あの海の向こうへ行こう。
そのときは、ただ二人についていくんじゃない。私にもできることを、ちゃんと見つけてから。
そう決めた。
二人が世界を旅するなら。
私もここで、知識の旅を始めよう。
***
最初に夢中になったのは、ゴムだった。
コタにあるゴムの木から樹液を集め、固める。いろいろなものが作れたけれど、暑いと柔らかくなり、寒いと硬くなる。
「……何とかならないかな」
油を混ぜる。灰を混ぜる。別の樹液を混ぜる。
失敗。失敗。また失敗。
スカラの残した記録を読んでいて、硫黄というものを知った。職人に相談しながら試してみると、熱や寒さで性質が変わりにくいゴムができた。
一度ではうまくいかない。材料の割合を変え、熱の加え方を変え、何度も確かめた。
そして、ようやく。
「……できた!」
嬉しくて、すぐ手紙を書いた。
『アルスへ。
新しいゴムができました。前よりずっと丈夫です。スカラにも見せてあげてください。
それと……』
筆が止まった。
本当は、最初から書きたいことがあった。
『また会いたいです』
書いてから、顔が熱くなった。
消そうかと思った。
でも、消さなかった。
しばらくして返事が来た。相変わらず少し汚い、アルスの字だった。
『俺もスカラも元気だよ。
ヤナの作ったゴム、こっちでも役に立ってる。ありがとう』
何度も読み返した。
その先には、ダルカとシェンクゥで食べ物が足りず、困っていると書いてあった。
私は、アグレオおじさんのところへ走った。
***
「食べ物を送る?」
「うん。アルスたちが困ってるの!」
幸い、コタでは漁も畑も以前より豊かになっていた。けれど、遠い国へ運ぶには時間がかかる。
「途中で腐っちまうぞ」
おじさんが言った。
それは、私も考えていたことだった。
干す。塩漬けにする。燻製にする。コタには昔から、食べ物を長持ちさせる知恵がある。
でも、もっと遠くまで運べたら。
私は保存の実験を始めた。
瓶に入れて蓋をしても腐る。熱を加えても、長く置くと傷むものがある。金属の容器を試したときには、蓋が飛んで、アグレオおじさんにひどく叱られた。
「家を壊す気か!」
「違うの!食べ物を長持ちさせたくて……」
「それで怪我したらどうする!」
その日から、危ない実験は一人ではできなくなった。
悔しかった。でも、正しかった。
私は職人たちに相談した。熱や圧力に耐えられる容器を作る人。食べ物を扱う人。保存したものを調べる人。
みんなで少しずつ確かめた。
失敗の記録ばかり増えた。中身が変わらないように見えても、安全とは限らない。だから、疑わしいものは人に渡さなかった。
夜遅くまで記録をつけていたとき、アグレオおじさんが筆を取り上げた。
「寝ろ」
「あと少しだけ!」
「明日も考えるんだろ?」
「……うん」
「なら、明日の頭を残しとけ」
何も言い返せなかった。
それからも試験を続けた。使えるものは少しずつ増えたけれど、うまく保存できない食べ物もあった。
全部は救えない。でも、運べる食料は増やせる。
私は机の上の銀色の容器を見た。
これは、スカラが教えてくれた答えじゃない。教わった知識を使って、失敗して、人に教わって、私たちが見つけた答えだった。
***
港には、四隻の船が並んだ。
米、豆、干した魚、燻製、塩漬けの野菜。そして、試験を重ねて輸送に使えると確かめた保存食。
「……私も行きたい」
アグレオおじさんに言うと、驚いた顔をされた。
「危ないぞ」
「分かってる。でも、見たいの」
「何を?」
「自分たちの作ったものが、本当に誰かの役に立つのか」
おじさんはしばらく考えた。
「……俺から離れるなよ」
「うん!」
そうして、生まれて初めて遠い国へ旅立った。
海は荒れた。船が揺れるたびに、胃の中までひっくり返りそうになった。
「吐くなら風下で吐けよ」
「……吐かない」
「アルスも最初そう言ってたな」
ちょっと腹が立った。
でも、夜の甲板で月を見たとき、胸がいっぱいになった。コタで見ていた月と、同じ月だった。アルスとスカラも、どこかでこれを見ているのかな。
そう思うと、怖さが少しだけ小さくなった。
***
シェンクゥの港は、煙と鉄の匂いがした。
工房には、私が工夫したゴムと似たものが使われていた。道具の柄、車輪の部品。知らない街に、自分の考えたものが届いている。
嬉しかった。
でも、食べ物を待つ人たちの列を見て、その気持ちだけではいられなくなった。
港では、国境で攻撃が止まったという知らせが飛び交っていた。
戦争を止めようとした人がいる。山を越えて答えを探した人がいる。私たちの知らないところでも、たくさんの人が動いていたんだ。
その後、ダルカへ向かう道でフォンさんと話した。
アルスがシェンクゥの工房で、何度も言葉を間違えたこと。金槌の柄にゴムを巻いたこと。スカラと一緒に、いろんなものを作ったこと。
私の知らない二人の旅だった。
フォンさんは金槌を見せてくれた。
「ヤナが作ったゴムも、役に立ってたんだぜ」
黒い柄を見て、私は笑った。
一緒にいなくても、私の作ったものは、二人の旅に加わっていた。
***
ダルカで、アルスとスカラに会った。
アルスは少し痩せていたけれど、笑い方は変わっていなかった。スカラは、私が抱きつくと一瞬固まって、それからそっと背中に手を回してくれた。
「……私も、会いたかった」
その声を聞いて、泣きそうになった。
広場では、私たちが運んだ食べ物が配られていた。小さな子どもが、両手で椀を抱えている。
昔、私は思っていた。
――私、生きててもいいのかな。
今は、違う。
生きていたから、あの容器を作れた。
生きていたから、ここへ来られた。
誰かが食べ物を口にするところを、自分の目で見ることができた。
――私、生きててよかった。
そう思った。
それから少しの間、ダルカで過ごした。
ミラという女の子と仲良くなった。はっきりものを言うので最初は驚いたけれど、話していると面白かった。
ミラとフォンさんは、よく言い争っていた。
「そこ、違うって言ったでしょ!」
「分かってるって!」
「全然分かってない!」
仲がいいようには見えなかったけど、二人の手首には、同じ色の新しい糸が結ばれていた。
私は少し笑った。
きっと、これから何度も喧嘩するんだろう。
それでも、同じ場所で暮らしていくんだろう。
そんな気がした。
別れの日が来た。
スカラとアルスは北西へ。私とアグレオおじさんは、コタへ帰る。
前にも、こうして二人を見送った。
あのときは、二人だけが世界へ行って、自分は置いていかれる気がした。
でも、今は違う。
私は遠い海を渡った。知らない街を見た。自分で考えたものが、誰かの役に立つところも見た。
コタへ帰ったら、また調べよう。
まだうまく保存できない食べ物もある。もっと安全で、もっと便利なものを作りたい。
昨日まで知らなかったことを、今日一つ知る。
できなかったことが、少しできるようになる。
それも、旅なんだと思う。
「スカラ!アルス!」
二人が振り向く。
私は、あの日と同じように、大きく手を振った。
「いってらっしゃい!!」
アルスが振り返す。
スカラも、少し遅れて手を上げた。
私は笑った。
次に会うときは、勝負だからね。
どっちが、世界をたくさん知ったか。
私だって、まだ旅の途中だ。




