第五十一話 旅する理由
終戦から、一か月。
ダルカの朝は、少しずつ賑やかさを取り戻していた。
カン、カン。
工房から金槌の音。
水路では、村人たちが水を分ける順番を話し合っている。
畑では、まだ小さな芽を囲んで何人もの農民が頭を悩ませていた。
「水をやりすぎじゃないか?」
「昨日は少なかったぞ」
「だったら土を見ろって!」
そんな声が、朝の風に乗って聞こえてくる。
壊れた家は、まだ多い。
泥の残った道もある。
食料だって、十分ではない。
それでも。
人々は、今日も自分たちの暮らしを取り戻そうとしていた。
***
村の広場には、大勢の人が集まっていた。
兵士。農民。子ども。老人。
復興作業の手を止め、二人の旅立ちを見送ろうとしている。
「……大げさだな」
スカラが呟いた。
ラージャが笑う。
「そう言わず、見送らせてくれ」
「仕事はいいのか?」
「お前たちを見送ったら戻るさ」
広場の向こうでは、荷車が行き交っていた。
鉄を積んだ荷車。
農具を運ぶ職人。
コタの印がついた木箱。
そして、国境へ向かう兵士たち。
停戦から一か月。
シェンクゥとダルカの間では、捕虜の交換と、食料や物資の運搬が少しずつ始まっていた。
だが、まだ互いを信用しているわけではない。
国境には見張りが立っている。
荷車は、一台ずつ調べられる。
戦争で家族を失った人々の中には、シェンクゥの品物を受け取ろうとしない者もいた。
それでも。
道は、閉じられていなかった。
ラージャは、その様子を見ながら言った。
「七人の首長も、まだ意見が割れている」
「だろうな」
スカラが答えた。
「交易を再開すべきだという者もいれば、二度とシェンクゥを信用するなという者もいる」
「それで?」
アルスが聞いた。
ラージャは、少し笑った。
「話し合っている」
「……それだけ?」
「ああ」
ラージャは答えた。
「今は、それを続けるしかない」
スカラは、小さく頷いた。
「それでいい」
「……お前に言われると、少し安心するな」
「安心するのは早い」
スカラは淡々と答えた。
「水不足も食料不足も、まだ解決していない」
「分かっているよ」
ラージャは苦笑した。
「だが、以前よりは何をすべきか分かってきた」
水路を見る。畑を見る。そして、人々を見る。
「これからは、我々自身の仕事だ」
スカラは、少しだけ笑った。
「……ああ」
***
「よ、ゴム!」
背後から声がした。
アルスが振り向く。
「ゴムじゃねぇって!」
フォンだった。
腰には金槌。柄には、黒いゴムが巻かれている。
「相変わらずだな」
「そっちこそ!」
二人は笑った。
アルスは、フォンの後ろにある小さな建物を見た。
「工房、できたんだね」
「ああ」
フォンが頷いた。
まだ屋根も一部しか完成していない。壁には隙間がある。道具も少ない。
だが、中には炉があり、金床があり、鉄を叩く音が響いていた。
「ここで、農具を作る」
「シェンクゥへ戻らないの?」
フォンは、少し考えた。
「……今は、ここにいる」
アルスが頷く。
「そっか」
「シェンクゥで覚えたことを、こっちでも使えるようにしたい」
フォンは金槌を持ち上げた。
「鍬とか、鎌とか、水車の部品とか」
「いいじゃん!」
「それに……」
フォンは、少し離れた場所を見る。
ミラが村人たちと何か話していた。
「ミラには苦労させたから。これからは、あいつがやりたいことをできるようにしてやりたいんだ」
アルスがにやっと笑う。
「優しいお兄ちゃんだね」
「うるさい!」
二人は笑った。
その時、アルスの目がフォンの手首で止まった。
「……あれ?」
新しい糸飾りが結ばれていた。赤と青の糸。小さな石。見覚えのある色。
アルスは、ミラの手首を見ると、そこにも同じ新しい糸があった。
古びた飾りの隣に、新しいものが結ばれている。
「……」
アルスは、少し笑った。
「よかったね」
フォンが怪訝そうな顔をする。
「何が?」
「別に」
「変な奴」
フォンも笑うと、拳を突き出した。
「アルス」
「何?」
「ありがとな」
「どういたしまして!」
拳と拳がぶつかった。
「じゃあな、フォン!」
「ああ!」
フォンは金槌を持ち上げた。
「次に会う時までに、もっとすごいもの作っとく!」
アルスも拳を上げた。
「俺も負けないからな!」
「何で勝負してんだよ!」
二人は、また笑った。
***
「アルス!」
ヤナが駆け寄ってきた。
「今日、私たちもコタへ帰ることになった」
「……そっか」
アルスは、少しだけ寂しそうに笑った。
「逆方向だね」
「うん」
ヤナは頷いた。
ヤナとアグレオは、南の海へ帰る。アルスとスカラは、北のさらに先へ向かう。
次に会えるのは、いつだろう。
「……ありがとう」
アルスが言った。
ヤナが顔を上げる。
「何が?」
「食べ物も、あの銀色のやつも」
アルスは笑った。
「全部」
ヤナは首を振った。
「私だけじゃないよ」
「……?」
「コタのみんなが手伝ってくれたから」
ヤナは、少し離れた場所を見る。
荷車へ荷物を積む人々。
船へ戻る準備をしているアグレオ。
「私一人じゃ、あんなにたくさん運べなかった」
「……うん」
「でも」
ヤナは少し笑った。
「少しは、役に立てたかな」
アルスは、すぐに頷いた。
「すっごく!」
「……本当?」
「うん!」
アルスは笑った。
「ヤナがいなかったら、大変だったよ」
ヤナは俯いた。
「……そっか」
「……どうした?」
「何でもない」
「泣いてる?」
「泣いてない!」
ヤナは顔を上げた。
少し赤くなった目で、アルスを見る。
「……アルス」
「何?」
何か言いかける。だが、やめた。
「……気をつけてね」
アルスも頷いた。
「ヤナも」
そして。
「……また会おうね」
ヤナは笑った。
「うん」
その時。
「おーい!」
アグレオの声が響いた。
「いつまで喋ってんだ!」
「父さん!」
アルスが振り向いた。
アグレオが近づく。
「ちゃんと食えよ」
「またそれ!?」
「腹が減ったら頭も働かねぇんだからな!」
アルスは笑った。
「分かってるって!」
「……アルス」
「何?」
「絶対、死ぬなよ」
アルスは、父の顔を見た。
「……うん」
アグレオが頷く。
「約束だ」
「約束する」
「よし!」
アグレオは、アルスの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「行ってこい!」
「……うん!」
アルスは、大きく頷いた。
***
「スカラ」
ミラが呼び止めた。
「何?」
二人は、少し離れた場所へ移動した。
ミラは、腕の糸飾りへ触れた。
「……前に言ったこと、覚えてる?」
「どれ?」
「正しいことばっかり言うって」
スカラは頷いた。
「覚えている」
ミラは少し笑った。
「今でも、たまにそう思う」
「そうか」
「……気にしないんだ」
「事実だから仕方ない」
「もう!」
ミラは笑った。
そして、少し真面目な顔になった。
「でもね」
「……?」
「私も、これからは聞いてみようかなって思う」
「何を?」
「正しいこと」
スカラは、ミラを見る。
ミラは続けた。
「自分が知らないこととか、間違ってることとか」
少し笑う。
「前は、そういうの言われるの嫌だったんだけど」
「……」
「知らないままだと、損することもあるんだね」
スカラは、少し考えた。
「……そうだな」
「でも!」
ミラが指を立てた。
「偉そうに言われたら、怒るからね!」
「……分かった」
スカラは頷いた。
「私も、正しいことを言う前に」
ミラを見る。
「一度、ミラならどう考えるか、想像するようにする」
ミラの顔が明るくなった。
「本当?」
「ああ」
「で、想像した後は?」
スカラは当然のように答えた。
「言う」
「結局言うじゃん!」
二人は笑った。
しばらくして、スカラが口を開いた。
「……でも」
「何?」
「ミラのおかげで、本に書いていないことを知った」
ミラの目が少し丸くなった。
「……少し?」
スカラは考えた。
「……かなり」
ミラは吹き出した。
「アハハ!」
スカラも、ほんの少し笑った。
ミラは、手を差し出した。
「……またね」
スカラは、その手を見た。
かつて、水泥棒だと責められていた少女。自分の正しさを何度も揺さぶった少女。
そして、自分が、命を懸けて助けようとした少女。
「……ああ」
スカラは、ミラの手を握った。
「また」
ミラは、その手をぎゅっと握り返した。
***
ラージャが、二人を見た。
「また、いつでも戻ってきてくれ」
スカラは答えた。
「気が向いたら」
「そこは『必ず』と言うところじゃない?」
アルスが笑った。
ラージャも笑う。
「まったく」
それから、少し真面目な顔になった。
「……ありがとう」
スカラが振り向く。
「何が?」
「国を救ってくれた」
スカラは、しばらく考えた。
「……救えたかは、まだ分からない」
「……」
「種が育つかも、水路を直せるかも、まだ確かじゃない」
ラージャは頷いた。
「ああ」
スカラは、人々を見た。
「これからは、あなたたちが考える番だ」
ラージャは少し笑った。
「……厳しいな」
スカラも笑った。
「この国は、あなたたちの国なんだから」
ラージャは、深く頭を下げた。
「……ああ」
二人は、歩き出した。
北へ。
さらに、その先へ。
「気をつけて!」
「元気で!」
「また会おう!」
人々の声が響いた。
アルスは、何度も振り返った。
「ありがとう!」
大きく手を振る。
スカラも、一度だけ振り返った。
そして、小さく手を上げた。
人々の声は、少しずつ遠ざかっていき、やがて聞こえるのは、風と鳥と二人の足音だけになった。
見渡す限りの平原。
来た時、この国は緑だった。だが、人々は飢えていた。
今、壊れた畑もある。水路も、まだ十分には直っていない。新しい種が、本当に実るかも分からない。シェンクゥと、また争う日が来るかもしれない。
それでも。
アルスは、少しだけ明るくなった空を見た。
「……ねえ」
「何?」
「知識って」
少し考える。
「この世界を、少しはよくしてるのかな」
スカラは歩きながら答えた。
「……分からない」
アルスが笑った。
「またそれ?」
「ああ」
スカラも少し笑った。
「分からないことだらけだ」
「世界中の本を読んだのに?」
「だからこそ」
「……?」
スカラは、空を見た。
「分からないことが、どれだけあるか分かる」
アルスも空を見上げた。
少しして、笑った。
「……じゃあ」
「何?」
「まだ、旅する理由があるね」
スカラは、アルスを見た。
そして、ほんの少し笑った。
「ああ」
二人は歩き続けた。
しばらくして。
「……次は?」
アルスが尋ねた。
「何が?」
「次の目的地!」
スカラは、北西の空を指した。
「砂漠のオアシス都市、サマラだ」
アルスの目が輝いた。
「……砂漠!?」
「ああ」
「どんなところ?」
「行けば分かる」
「スカラがそれ言うの!?」
「……何が悪い」
「何でもない!」
二人は笑った。
やがて、地平線の向こうへ小さくなっていった。




