第五十話 希望の種
数日後。
村外れの小さな畑に、人々が集まっていた。
ミラがしゃがみ込む。手の中には、山から持ち帰った種。
「……ここでいい?」
「まず土の状態を確かめよう」
スカラが答えた。
ミラは土を掴んだ。
指で崩すと、少し硬い。
「……よく分かんない」
「分からないなら、試せばいい」
スカラは畑を指した。
「何か所か、条件を変えて植えてみよう」
アルスが顔を上げる。
「条件?」
「土の状態。水の量。日当たり」
スカラは続けた。
「どれが適しているのか、確かめるんだ」
ミラが種を見た。
「……そんなの、最初から分からないの?」
「記録はある」
「じゃあ!」
「でも」
スカラは土を掴んだ。
「この畑について書かれた本はない」
ミラはしばらく考えて、それから笑った。
「……じゃあ、やってみるか」
アルスも隣へしゃがんだ。
「俺も!」
フォンが金槌を持ってきた。
「何か作るものあるか?」
「今は穴」
ミラが答えた。
「……穴?」
「種を植える穴!」
「それなら金槌いらないじゃん!」
アルスが笑った。
村人たちも集まってきた。
一人。
また一人。
畑へ溝を掘る。
土をほぐす。
種を蒔く。
かつて、水泥棒だと責められたミラが、今は畑の真ん中にいた。
「……これでいい?」
ミラが尋ねる。
スカラは頷いた。
「たぶん」
「たぶん!?」
「育てたことはないからな」
ミラが呆れる。
「何でも知ってるんじゃなかったの?」
スカラは少し笑った。
「知識と経験は違う」
「……便利な言葉」
アルスが笑った。
数日後。
最初の芽が出たのをミラが見つけた。
「……あ!」
小さな緑。土の間から、顔を出している。
「出た!」
アルスが駆け寄る。
「本当だ!」
「こっちも!」
小さな芽にミラは目を輝かせた。
「……育ってる」
フォンも笑った。
「やったじゃん」
アルスがスカラを見る。
「ほら、スカラ!」
だが、スカラは笑っていなかった。
隣の畑を見ている。
「……?」
アルスも覗き込む。
そこにも、同じ種を植えたはずだったが芽がほとんど出ていない。
「……あれ?」
ミラが首を傾げた。
「同じ種だよね?」
「ああ」
「水も、同じくらいやった」
「そうだな」
フォンが土を掘った。
固い塊が出てきた。
「……こっち、硬い」
アルスが水を少し垂らすが、水はなかなか染み込まず、横へ流れていった。
一方、元気に芽が出ている畑の土は柔らかい。
水が、ゆっくりと中へ入っていく。
ミラは呟いた。
「……種だけ変えても駄目なんだ」
スカラが頷く。
「そうだ」
数日後。
最初に芽を出した畑でも、一部が茶色く枯れ始めた。
「……なんで」
ミラがしゃがみ込む。
「せっかく出たのに……」
スカラは、枯れた芽を見た。
「原因を調べよう」
ミラが顔を上げる。
「……また?」
「ああ」
スカラは答えた。
「まだ、何も終わっていないからな」
翌日。
畑には、村の老人たちが集まった。
一人が土を掴んだ。
「昔は、雨の前にもっと土をほぐしたもんだ」
別の老人が言う。
「雑穀は、米みたいに水を張らんでも育つ」
ミラが顔を上げる。
「……どれくらい?」
「水か?」
「うん」
老人は空を見る。土を見る。それから、芽を見る。
「……その日による」
スカラが眉をひそめた。
「数字では?」
「そんなもの知らん」
「……」
老人は笑った。
「毎日、畑を見れば分かるようになる」
スカラは黙った。
ミラが笑う。
「本に書けないやつだ」
「……ああ」
スカラも少し笑った。
村人たちは、もう一度畑へ向かった。
溝を作る。水が一気に流れないようにする。
腐った葉を土へ混ぜる。硬くなった場所をほぐす。
そして、もう一度種を蒔いた。
***
畑の次は、水だった。
村の水路に、人々が集まっている。
地面へ描かれた地図には、田、水路、取水口。
誰が、いつ、どれだけ水を使うのかは以前なら地主が決めていた。だが今は、村人たちが輪になって話し合っている。
「……ミラもこっちへ」
一人の村人が声をかけた。
ミラは目を丸くした。
「……私?」
「フォンと畑をやるんだろ?」
「……うん」
「なら、水を使う側だ」
ミラは、輪の外で立ち止まった。
「……でも」
村人が振り向く。
「何だ?」
「私、水泥棒だよ」
気まずい沈黙。しばらく、誰も答えなかった。
やがて、あの日ミラを責めた男が頭を掻いた。
「……悪かった」
ミラが顔を上げた。
「……何が?」
「あの時だ」
男は視線を逸らした。
「あいつの言うことを、鵜呑みにしすぎた」
少し離れた場所には、元地主の男が座っていた。
不満そうな顔だが、以前のように一人で水路を動かすことはできない。
「これからは、使う奴みんなで決めようってことになった」
村人が言った。
「何日も揉めたけどな」
「だから、お前も来い」
ミラはしばらく黙っていた。そして、輪の中へ座った。
「……じゃあ」
地図を見る。
「私も言っていい?」
「ああ」
「上の畑から順番に水を流せば、無駄が少ないと思う」
村人たちが頷く。
だが。
「駄目だ」
声がした。
元地主の男だった。
ミラが眉をひそめる。
「……何?」
男は居心地悪そうに地図へ近づいた。
「この水路は、午後になると下流の水量が減る」
指で流れをなぞる。
「上の田が先に使い切れば、下まで届かん」
ミラは少し驚いた。
「……詳しいんだね」
「伊達に四十年やっとらん」
男は答えた。
「だが、だからといって、俺の田を最後に回すのは困るぞ」
すぐに別の村人が言い返した。
「前はあんたが全部決めてただろ!」
「だから今、話してるんだ!」
また言い争いになりかける。
ミラは、地図へ目を戻した。
「……じゃあさ」
皆が振り向く。
「一回、午前と午後で水を測ってみない?」
「……?」
「本当にどれくらい減るのか、確かめるの」
スカラが顔を上げた。
ミラは続けた。
「それで、順番を決めようよ」
村人たちは顔を見合わせた。
しばらくして。
「……やってみるか」
一人が頷いた。別の者も頷く。
元地主は、不満そうに鼻を鳴らした。
「……好きにしろ」
だが、その場を離れなかった。
スカラは、その様子を見つめていた。
正しい答えは、まだない。
それでも、人々は自分たちで考え始めていた。
***
村の工房では、フォンが金槌を振っていた。
カン。
カン。
カン。
「……片手で使える鍬?」
フォンが顔を上げる。
目の前には、一人の男。戦争で、右腕を失っていた。
「ああ」
男は、空になった袖を見た。
「畑へ戻りたいんだ」
「……」
「だが、前の鍬じゃ力が入らん」
フォンは、男の左手を見た。
「……少し待ってもらえますか」
「あるのか?」
「今は、ありません」
男は残念そうに頷いた。
「……そうか」
帰ろうとする。
「でも」
フォンが呼び止めた。
「作ります」
男が振り向いた。
「……何?」
「明日までに」
フォンは、自分の金槌を握った。
「片手で使えるものを、作ります」
男はしばらく黙った。
フォンの服を見る。その袖には、まだシェンクゥ軍の印が残っていた。
「……お前」
「……はい」
「シェンクゥの兵士だったのか」
フォンの手が止まった。
「……はい」
男は、空になった袖を見た。
「俺の腕を奪ったのも、その国の兵だ」
「……」
フォンは何も言えなかった。
男は続けた。
「お前が撃ったわけじゃないのは、分かってる」
だが。
「すぐには、好きになれん」
フォンは頷いた。
「……はい」
しばらくの沈黙、それから男が鍬を指した。
「……それでも、作ってくれるのか」
フォンは顔を上げた。
「はい」
「……そうか」
男は静かに頷いた。
「じゃあ、頼む」
その夜。
フォンは、鉄と木とゴムを前に何度も試した。
柄の位置。腕への固定。力のかかり方。
一回目。外れた。
二回目。痛みが出た。
三回目。ようやく、刃が土へ入った。
翌朝。
男は片手で鍬を握った。
ゆっくり、土へ刃を入れる。
ぐっ。
土が起きた。
「……使える」
フォンは息を吐いた。
「……よかった」
男がもう一度、土を起こした。
「十分だ」
だが、フォンは首を振った。
「……もっと良くします」
「もう使えるぞ」
「でも」
フォンは鍬を見た。
「もっと、使いやすくできるはずです」
男はしばらくフォンを見ていた。
そして。
「……そうか。なら、頼む」
フォンも頷いた。
その手には、もう銃はなく、金槌があった。
***
その頃。
ヤナは村の一角で、銀色の容器を並べていた。
「……何してるの?」
アルスが覗き込む。
「そういえば、まだちゃんと見せてなかった」
ヤナが、一つ持ち上げる。
「……何それ?」
「開けてみて」
アルスは道具を使い、蓋を開けた。
プシュッ。
「……?」
鼻が動いた。
懐かしい匂い。
中を覗く。
「……これ」
ヤナが笑った。
「コタの味」
アルスの目が輝いた。
「……本当!?」
一口食べる。
「……うまい」
もう一口。
「……うまい!」
ヤナが笑う。
「長く保存できるようにしたの」
スカラが容器を受け取った。
蓋。継ぎ目。金属の厚み。中身。
一つずつ確かめる。
「……これを、ヤナが?」
「うん」
「私が教えた方法か?」
「ううん」
ヤナは胸を張った。
「自分で考えた」
スカラは、もう一度容器を見た。
「……素晴らしい」
ヤナが固まる。
「……え?」
「素晴らしいと言った」
「……」
ヤナは、少し照れたように笑った。
「最初は、いっぱい失敗したけどね」
「そうだろうな」
「一回、容器が壊れてアグレオおじさんにすごく怒られた」
「当たり前だ!」
少し離れた場所から、アグレオの声が飛んできた。
アルスが笑った。
「父さんらしい!」
スカラは、ヤナを見た。
「……よく頑張ったな」
ヤナの目が、少し潤んだ。
「……うん」
スカラは、容器を大切に置いた。
「ヤナの知識が、ここまで食べ物を運んだんだ」
ヤナは、広場を見る。
食べ物を分け合う人々。笑う子ども。
その光景を、しばらく見つめていた。
「……よかった」
小さく呟いた。
***
さらに数日後。
ミラは、畑にしゃがみ込んでいた。
「……あ」
植え直した場所。
小さな緑が、顔を出していた。
一つ。
二つ。
三つ。
前より、しっかりした芽だった。
「……出てる」
ミラが呟いた。
「出てる!」
アルスが駆け寄った。
「本当だ!」
フォンも来た。
村の老人たちも集まる。
「……今度は大丈夫そうだな」
一人が言った。
だが、スカラはすぐに頷かなかった。
「まだ分からない」
ミラが振り向く。
「またそれ?」
「ああ」
スカラは答えた。
「芽が出ても、収穫できるとは限らない」
「……」
「雨が多すぎても駄目だ。病気になるかもしれない。虫に食われるかもしれない」
ミラは芽を見る。
小さな緑が、風に揺れている。
「……そっか」
少し考えて、笑った。
「じゃあ、毎日見ないとね」
「そうだな」
ミラは柄杓を持った。
少しだけ、水を与える。
「……もういいの?」
アルスが聞いた。
「うん」
ミラは芽を見る。
「この子は、これくらいで生きられるから」
スカラが隣に立った。
ミラは、ちらりと見る。
「……合ってる?」
スカラは少し笑った。
「私に聞く必要があるか?」
ミラも笑った。
「……ないか」
アルスが畑を見る。
「でも、これからちゃんと育つかな」
「分からない」
スカラが答えた。
「収穫できるかも。どれだけ取れるかも」
ミラは、しばらく芽を見つめた。
それから。
「……じゃあ」
スカラを見た。
「見届けなくていいの?」
スカラは、周囲を見た。
畑で働く村人たち。
水路の前で話し合う人々。
金槌を振るフォン。
土を触るミラ。
以前なら、自分が答えを見つけるまで、ここにいたかもしれない。
正しい方法を考え、すべてを確かめ、誰も間違えないように、指示したかもしれない。
だが、今は違う。
「……いい」
ミラが首を傾げた。
「どうして?」
スカラは答えた。
「私たちがいなくても」
畑を見る。
「もう、考える人がいるから」
ミラは目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「……そっか」
風が吹いた。小さな芽が、揺れた。
その時。
チチチ。
チチチチ。
朝の鳥が鳴いた。
ミラは顔を上げた。
今日は、歌わなかった。
鳥たちが、代わりに歌っていた。




