第四十八話 夜明けを待つ鳥
その日の夕暮れ。
ダルカの前線に、信号弾が上がった。
一発。
二発。
ラージャが顔を上げた。
「……シェンクゥ軍が、攻撃を止めた」
アルスが飛び上がった。
「終わった!?」
「いや」
スカラは、遠くの敵陣を見る。
銃も、大砲も、そのまま残っている。
「止まっただけだ」
二つの軍は、数百メートルの距離を置いて向かい合っていた。
昨日まで、互いに命を奪い合っていた人間たち。今は、ただ睨み合っている。
撃てば、また始まる。
誰か一人でも間違えれば、また人が死ぬ。
「……フォンは?」
ミラが尋ねた。
誰も答えられなかった。
ラージャが口を開いた。
「シェンクゥへ向かったという報告は受けている。だが、その先は分からん」
ミラは、袖の下の糸飾りを握った。
「……そっか」
長い夜だった。
翌日。
シェンクゥから、さらに知らせが届いた。
シェンクゥ軍、全面撤退。
停戦協議の申し入れ。
ラージャは、何度も紙を読み返した。
そして、顔を上げた。
「……終わった」
アルスが振り向く。
「……え?」
「シェンクゥ王が、軍を退くと決めた」
「……本当に?」
「ああ」
その夜。
ダルカの空へ、再び信号弾が上がった。
一発。
二発。
そして。
三発。
遠くの敵陣から、人が動き始めた。
大砲が引かれる。荷車が並ぶ。
兵士たちが、少しずつ東へ歩き出す。
旗が遠ざかっていく。
アルスは、しばらく動かなかった。
「……終わった」
小さく呟いた。
そして。
「終わったんだ……!」
膝から力が抜け、その場へ座り込む。
「……よかった」
声が震えた。
「本当に……よかった」
スカラは、空へ消えていく光を見ていた。
戦争が終わった。
いや。
少なくとも、戦いは止まった。
知識だけでは、止められなかった。
山から持ち帰った記録。
ミラが知っていた土地の暮らし。
アルスが送った手紙。
フォンが見た現実。
ラージャの判断。
そして、シェンクゥ王の決断。
違う場所で生きていた人間たちが、それぞれ自分にできることをした。
その結果。
ようやく、銃声は止まった。
「……スカラ」
アルスが顔を上げた。
「何?」
「止められたね」
スカラは遠くの空を見た。
「ああ」
少しだけ笑った。
「……止められた」
だが。
その時だった。
「何が、終わったんだ?」
背後から声がした。
振り向くと、一人の男が立っていた。
泥だらけの服。片腕には包帯。男は、遠ざかるシェンクゥ軍を見つめていた。
「……あいつらが帰れば、それで終わりなのか?」
誰も答えられなかった。
男は続けた。
「俺の兄貴は、帰ってこない」
男は、包帯を巻いた腕を握った。
「それなのに、あいつらは帰れるのか」
ラージャが前へ出た。
「……気持ちは分かる」
「分かる?」
男が顔を上げた。
「何が分かるんだ!」
声が響いた。
「家を壊された奴もいる!畑を焼かれた奴もいる!家族を殺された奴もいる!」
遠くの敵陣を指す。
「それなのに、帰していいのか!」
周囲の兵士たちが黙った。
誰かが呟く。
「……そうだ」
また一人。
「俺たちが何をされたか、忘れたのかよ」
声が広がっていく。
スカラは、その光景を見ていた。
戦争が終わっても、怒りは終わらない。
ラージャは、男たちを見渡した。
「……忘れろとは言わん」
静かな声だった。
「許せとも言わん」
男たちが顔を上げる。
「だが、これ以上戦えば、また誰かが帰れなくなる」
長い沈黙。
「……私は、それを止めたい」
誰も歓声を上げなかった。
それでも、男たちは武器を下ろした。
遠くでは、シェンクゥ軍が東へ歩き続けていた。
向こうにも、帰りを待つ家族がいる。そのことは分かっていても、今はまだ許せなかった。
翌朝。
村には、避難していた人々が戻り始めた。
だが、泥に沈んだ道。
崩れた壁。
折れた柵。
水の引いた田畑には、分厚い泥が残っている。
自分の家の前で、呆然と立ち尽くす人。
壊れた家具を運び出す人。
何も言わず、土を掘り始める人。
ミラは、その中を歩いていた。
以前、自分を水泥棒だと責めた村人たちもいる。
地主の姿もあった。
だが、誰もミラを責めなかった。
それどころではなかった。
「……家が」
誰かが呟いた。
「何も残ってない……」
ミラは、壊れた家を見た。
自分が育った家。もう以前の姿には戻らないかもしれない。
「……」
スカラが隣へ来た。
「ミラ」
「……何?」
少しの沈黙。
「……ごめん」
ミラが振り向いた。
スカラは、壊れた家を見ていた。
「この村が浸水することは、分かっていた」
「……」
「人を避難させれば、命は守れると思った」
スカラは続けた。
「でも、それだけじゃなかった」
ミラは何も言わなかった。
スカラも、答えを求めなかった。
やがて。
「……私も」
ミラが呟いた。
「分かってるよ」
「……?」
「あれをしなかったら、もっと大勢死んでたかもしれない」
壊れた家を見る。
「分かってる」
一度、息を吸った。
「でも……嫌だった」
「……ああ」
「今も、嫌」
スカラは頷いた。
「……そうだな」
ミラは、少しだけ笑った。
「なんで、そこで否定しないのよ」
「否定できないから」
「……」
「ミラが失ったものを、私は全部は知らない」
ミラは、しばらくスカラを見ていた。
そして、視線を戻した。
「……じゃあ」
「何?」
「これから一緒に、直してよ」
スカラは顔を上げた。
「……わかった」
ミラは小さく頷いた。
「約束ね」
***
戦争が止まっても、飢えは終わらなかった。
倉庫に残っていた食料は少ない。
壊れた田では、すぐに作物を育てられない。
川の水も、まだ濁っている。
ラージャは各地から食料を集めるよう命じた。
山の村。
川沿いの町。
被害の少なかった地域。
持ち寄れるものを、少しずつ。
だが、どこも十分ではない。
「……コタから、食料が来たんだよね?」
アルスが尋ねた。
スカラは頷いた。
「シェンクゥの港へ、船が着いたという」
「だったら!」
アルスの顔が明るくなる。
「こっちにも、来るよね?」
スカラは少し考えた。
「……分からない」
「え?」
「港からここまで、運ばなければならない。道も橋も壊れている」
「……」
「そもそも、どれだけの食料がこちらへ届くのかも、まだ分からない」
アルスは空を見た。
「……そっか」
自分が送った手紙。
あれは、コタへ届いたのだろうか。
父さんは読んでくれただろうか。
もし読んでくれたとして。
今、どこにいるのだろう。
「……来るといいな」
小さく呟いた。
その日の午後。
ラージャは、村人たちを集めた。
「食料を分ける」
広場へ、わずかな袋が運ばれてくる。
雑穀。
豆。
乾燥させた根菜。
誰もが、その中身を見つめた。
「これだけ?」
「足りないぞ!」
「子どもが何日もまともに食べてない!」
ラージャは、厳しい顔で答えた。
「分かっている。だが、今あるのはこれだけだ」
「もっとないのか!」
「ほかの村も、食べ物が足りないんだ」
人々の声が重なる。
その時。
一人の男が、スカラの持っていた小さな袋に気づいた。
「……それは?」
スカラが振り向く。
「種だ」
「種?」
「ああ。山奥の寺院から持ち帰った」
男の目が動いた。
「……食べられるのか?」
「たぶん食べられる」
その瞬間、何人もの村人が近づいてきた。
「だったら、分けてくれ!」
「ここに子どもがいるんだ!」
「少しでもいい!」
アルスが、慌てて袋を抱えた。
「待って!」
「何だ!」
「これは……」
アルスは種を見る。
小さな粒。あまりにも小さな袋。
「これは、植えるための種なんだ」
男の顔が歪んだ。
「……来年のためか?」
「……うん」
「じゃあ」
男が声を荒げた。
「来年のために、今日死ねっていうのか!」
アルスは何も言えなかった。
スカラは、種袋を見た。
これを食べれば今日を、少しだけ凌げる。
だが、全部食べれば、二度と増やせないかもしれない。
「……どうすればいい?」
アルスが尋ねた。
「どっちが正しい?」
スカラは一粒の種を掌に乗せた。
「今日を生きられなければ、来年は来ない」
そして。
「でも、これを全部食べれば、来年の可能性はなくなる」
アルスは、袋を握った。
「……残したい」
スカラが顔を上げる。
「正しいとは、言い切れない」
「分かってる」
アルスは人々を見た。
そして、種を見る。
「でも」
小さく息を吸った。
「これ、まだ会ったことのない、来年の人たちのご飯だと思う」
誰も何も言わなかった。
その時。
ぽとっ。
地面へ、一粒の種が落ちた。
小さな子どもが、それを拾った。
口へ運ぶ。
「……待って」
ミラが、その手を止めた。
子どもが顔を上げる。
「……お腹すいた」
ミラの手が震えた。
細い腕。乾いた唇。自分も、何度も味わってきた空腹。
「……うん」
ミラは答えた。
「お腹すいたよね」
子どもは頷いた。
ミラは、自分に配られた雑穀の小さな包みを取り出した。
まだ、半分ほど残っていた。
「……これ」
子どもへ渡す。
「食べて」
「……いいの?」
「うん」
子どもは、包みを受け取った。
「……ありがとう」
ミラは、小さく笑った。
そして、落ちた種を拾った。
「これはね」
子どもの目を見る。
「また、ご飯を作るためのものなの」
「……ご飯?」
「うん」
ミラは、掌の種を見つめた。
「いつか、これがたくさん増えたら」
小さく息を吐いた。
「もう、こんなにお腹を空かせなくて済むかもしれない」
子どもは、よく分からないまま頷いた。
ミラは種を袋へ戻した。
「……私も、残したい」
誰も拍手しなかった。
全員が納得したわけでもなかった。
それでも種袋は、アルスの手に残った。
***
それから数日、食料は少しずつ減っていった。
アルスは、毎日のように街道を見に行った。
荷車が来れば走り寄る。
旅人を見つければ尋ねる。
「コタから来た人、知らない?」
「南の港から食料が来るって聞いてない?」
だが、返ってくるのは首を振る人ばかり。
「……そっか」
アルスは、また村へ戻った。
ミラも毎日、同じ方角を見ていた。
シェンクゥへ続く道。
あの道を、フォンが帰ってくるはずだった。
「……遅いな」
アルスが隣へ来た。
ミラは頷いた。
「……うん」
「フォンのこと?」
「……別に」
アルスは少し笑った。
「嘘つけ」
ミラは黙った。
その手には、古びた糸飾り。
何年も前、兄の無事を願って結んだ糸。
それを、ずっと持っていた。
「……約束したんだけどな」
小さな声。
アルスが振り向く。
「何を?」
「帰ってくるって」
ミラは、遠い道を見た。
「……今度こそ」
アルスは何も言わなかった。
ミラは少しだけ笑った。
「変だよね」
「何が?」
「ずっと、帰ってこないことに怒ってたのに」
糸飾りを握る。
「また、帰ってくるのを待ってる」
アルスは、しばらく考えた。
「……俺もだよ」
「……?」
「父さんが、手紙読んでくれたかなって」
アルスは空を見る。
「ヤナも、元気かなって」
そして。
「……いつか、コタに帰れるかなって」
ミラはアルスを見る。
「……帰りたい?」
「うん」
即答だった。
「でも」
アルスは、壊れた村を見た。
「ここも、早く直したい」
ミラは、少しだけ笑った。
「……ありがと」
夜。
広場の灯りは、ほとんど消えていた。
人々は疲れ切っている。
空腹。
寒さ。
不安。
戦争が終わったはずなのに、何もかもまだ足りない。
スカラは一人、壊れた水路のそばに立っていた。
水は、ゆっくりと流れている。
山から来た水。
森を抜けてきた水。
かつて、この土地を豊かにしていた水。
それが今は、壊れた田を横切っていく。
「……まだ、できることがある」
スカラは呟いた。
修復する水路。作り直す畑。育てる作物。必要な食料。調べるべきことは、山ほどある。
だが。
どれも、明日すぐに終わることではない。
スカラは、遠い北の空を見た。
――北の果てで待ってる。
あの人の声を思い出す。
自分も、ずっと誰かを探している。
帰りたい場所が、どこなのかも分からないまま。
その時。
小さな歌声が聞こえた。
「……?」
振り向く。
少し離れた場所。
ミラが一人、座っていた。
膝の上には、小さな種袋。腕には、古びた糸飾り。夜空を見上げながら、歌っている。
「まだ夜明けは来ないけど」
スカラは足を止めた。
「私は光を見る」
声は小さかった。
「そして神様に歌う」
ミラは、静かに続けた。
「朝の鳥のように」
アルスも、その声で目を覚ました。
少し離れた場所から、歩いてくる。
「……朝じゃないけど」
ミラが振り向いた。
「起きてたの?」
「今、起きた」
隣へ座る。
「鳥も寝てるよ」
ミラは少し笑った。
「知ってる」
「じゃあ、なんで歌うの?」
ミラは、夜空を見た。
真っ暗だった。まだ、朝の光はどこにもない。
「……朝になったから、歌うんじゃない」
「……?」
「朝が来るって、信じたいから歌うの」
アルスは黙った。
スカラも、二人の隣へ座った。
三人で、空を見上げる。
フォンは、まだ帰ってこない。
コタからの食料も、まだ届かない。
種は、まだ芽を出さない。
壊れた村も、元には戻っていない。
それでも。
ミラは、もう一度歌った。
「まだ夜明けは来ないけど、私は光を見る」
アルスも、空を見た。
スカラも、目を閉じた。
帰ってくると、約束した人がいる。
帰りを待っている人がいる。
そして。
いつか帰りたい場所がある。
三人は、まだ暗い空を見上げていた。
夜明けは、まだ来ない。
それでも、誰もそこから動こうとはしなかった。




