第四十七話 王との交渉
夜が明ける前。
フォンは、一人でシェンクゥへ向かった。
胸元には、半分の鳥。懐には、スカラの調査記録と、小さな種袋。
振り返らなかった。
――今度は、ちゃんと帰ってきて。
その声だけを胸に、前へ進んだ。
泥に足を取られ、何度も転んだ。軍服は破れ、傷口から血が滲んでいた。
それでも止まらなかった。
壊れた村。水のない井戸。泥に沈んだ畑。アルス。スカラ。そして、ミラ。
何度も頭の中をよぎる。
***
昼過ぎ。
ようやくシェンクゥ軍の関所へ着いた。
「おい!」
見張りの兵士が声を上げる。
「どこへ行く!命令なく持ち場を離れるな!」
フォンは足を止めた。
「……陛下に伝えることがある」
「陛下だと?」
「この戦争を止めなきゃいけない!」
兵士が顔をしかめる。
「何を言ってるんだ!」
その時。
関所の奥から、声が聞こえた。
「……またこれだけか」
フォンが振り向く。
小さな焚き火の前で、二人の兵士が一枚の固いパンを割っていた。
半分の、さらに半分。四人で分ける。
一人が苦笑した。
「明日は増えるってさ」
「昨日も聞いたぞ」
「その前もだ」
笑い声。だが、誰も本当に笑ってはいなかった。
フォンは、その光景を見つめた。
ダルカだけじゃない。シェンクゥも、飢えている。このままだと、いつか暴発するかもしれない。
「……戻れ!」
見張りが叫んだ。
フォンは、ゆっくり首を振った。
「戻れない」
「何?」
「戻れないんだ!」
フォンは叫んだ。
「このまま戦っても、食べ物は増えない!」
兵士たちが顔を上げる。
「ダルカにも食べ物はない!畑は枯れてる!みんな腹を空かせてる!」
「……」
「このまま戦えば!」
フォンは拳を握った。
「シェンクゥもダルカも、どっちも飢える!」
誰も、すぐには答えなかった。
フォンは再び歩き出した。
背後から、見張りの声が聞こえる。
「おい! 待て!」
だが、フォンは止まらなかった。
***
シェンクゥへ戻ったフォンは、軍の連絡所で事情を説明し、王への面会を求めた。
最初は相手にもされなかった。
持ち場を離れた兵士。しかも、ダルカの出身。
信用されるどころか、捕まえられる可能性もある。
だが。
「……スカラ?」
担当の役人が、その名を聞いて顔を上げた。
「シェンクゥから逃げた、あの少女か?」
「……はい」
「彼女からの報告だと?」
フォンが懐から紙を取り出す。
「陛下へ直接、届けてください」
役人は紙を受け取ると、その内容に目を通す。
そして、顔色を変えた。
***
玉座の前。
フォンは膝をついていた。
王は、黙って調査記録を読んでいた。
一枚。
また一枚。
長い沈黙。
やがて。
「……これを信じろというのか?」
「自分も見ました」
フォンが答えた。
「ダルカには、食べ物がありません」
王の表情は変わらなかった。
フォンは続ける。
「送らなかったんじゃない。送れなかったんです」
「……」
「畑は枯れてる。井戸にも水がない。俺たちが攻め込んでも、奪える食べ物なんかありません」
王は紙へ目を落とした。
「雨の量は、大きく減っていないとある」
「はい」
「ならば、なぜ飢える」
「雨が減っただけの問題じゃないんです」
フォンは、スカラから聞いたことを思い出した。
シェンクゥが発展し、ダルカでは米を増産した。森を切り、井戸を深く掘り、長い年月をかけて水を使い続けた。
「土地が蓄えていた水まで、少しずつ失っていったんです」
「……つまり」
王が呟いた。
「我々の発展が、ダルカを追い詰めたと?」
フォンは頷いた。
「少なくともスカラは、原因の一つだと言っていました」
王は、しばらく何も言わなかった。
「……お前は」
やがて、フォンを見る。
「ダルカの生まれだそうだな」
フォンの身体が固まった。
「……はい」
「ならば、その言葉はどちらの国のためだ?」
「……」
「シェンクゥか。ダルカか」
フォンは答えられなかった。
シェンクゥには、自分を育てた工房がある。仕事を教えてくれた人がいる。一緒に飯を食べた仲間がいる。
ダルカには、自分が忘れようとした故郷がある。そして、妹がいる。
「……両方です」
王の眉が動いた。
「両方?」
「はい」
フォンは顔を上げた。
「どっちかなんて、選べません」
拳を握る。
「自分はダルカで生まれた。でも、シェンクゥで育った」
「……」
「どっちにも、死んでほしくないんです」
王はフォンを見つめた。
「……そうか」
フォンは、懐から小さな袋を取り出した。
「これを見てください」
王が眉をひそめる。
「……種?」
「はい」
掌に載せる。
小さな種。
「ダルカの山奥で見つかった、水が少なくても育つ作物です」
「……これで国を救えるのか?」
「分かりません」
王の目が細くなった。
フォンは俯かなかった。
「でも、少なくとも……」
種を見る。
「奪う以外の方法は、まだ残っています」
王は長く息を吐いた。
そして。
「軍は退かせない」
フォンの顔が強張った。
「……陛下!」
「ダルカに食料がないことは分かった」
「だったら!」
「だからこそだ」
王は椅子の背にもたれた。
疲れた顔だった。
「我が国にも食料がない」
フォンは言葉を失った。
「軍を退けば、何千人もの兵が帰ってくる」
王はフォンを見た。
「腹を空かせたままな」
「……」
「その者たちに、私は何を食わせる?」
フォンは答えられなかった。
「その種は、いつ実る」
「……次の収穫期には」
「来年の話を」
王の声が低くなった。
「今日飢えている民にしろというのか?」
フォンは黙った。
王は種袋を見る。
「私は、国民に責任がある」
「……」
「『未来には希望があります。だから今日を耐えろ』では、国は治まらん」
「でも!」
フォンが声を上げた。
「このまま戦っても、食べ物は増えません!」
「分かっている!」
王の声が響いた。
フォンが息を呑む。
その顔にあったのは、怒りではなかった。
焦りだった。
「分かっているから、困っているのだ!」
初めて、フォンは気づいた。
王も、答えを持っていない。
「……下がれ」
「陛下!」
「話は終わりだ」
兵士がフォンの両腕を掴んだ。
「待ってください!」
そのまま、宮廷の外へ連れ出される。
重い扉が閉まった。
フォンは廊下の壁へ背を預け、座り込んだ。
ここまで来た。事実を伝えた。種も見せた。
それでも、戦争は止まらなかった。
「……何が足りないんだよ」
胸元の糸飾りへ触れた。
――今度は、ちゃんと帰ってきて。
ミラの声が蘇る。
「……帰れねぇよ」
小さく呟いた。
「これじゃ、帰れねぇだろ……」
その時。
廊下の向こうから兵士が走ってきた。
「陛下!港より緊急報告です!」
扉が開く。
フォンも顔を上げた。
「南方より船団が入港しました!」
「船団?」
「コタの旗を掲げています!」
フォンの目が見開かれた。
「……コタ?」
アルスの故郷。
スカラたちが旅立った南の島。
「大量の食料を積んでいます!」
王の声が聞こえた。
「量は?」
「一国を養えるほどではありません。しかし、当面の配給には使えます!」
「……」
「食料の一部を、シェンクゥへ提供するとのことです!」
「ダルカから奪える食料はない。だが、戦をやめれば、また交易できる可能性はある」
王は地図を見た。
「そのためには、まず道を開かなければならん」
長い沈黙。
そして。
「……前線へ伝えろ」
フォンの胸が高鳴った。
――撤退?
だが、王の答えは違った。
「全軍、攻撃停止」
「……!」
「その場で待機させろ」
「二日だ」
王は続けた。
「その間に、ダルカが本当の状況を確かめる」
フォンが立ち上がった。
「……陛下!」
「前線の兵、交易商、捕虜。証言をすべて集めろ」
そして、港の方を見る。
「コタから来た食料も、この目で確認する」
王は静かに言った。
「戦争を始める決断も、難しかった」
誰に聞かせるでもなく。
「だが、終わらせる決断は……」
そこで言葉を切った。
フォンは拳を握った。
まだ、終わっていない。
それでも。
初めて、戦争の時計が止まった。
翌日。
王のもとへ、次々と報告が届いた。
ダルカから来た商人。
「市場には、もう米がありません」
前線の兵士。
「占領した倉庫も空でした」
捕らえられたダルカ兵。
「家族も腹を空かせています」
王は黙って聞いた。
スカラの調査記録。
フォンの証言。
商人。
兵士。
捕虜。
違う場所から届いた情報が、同じ事実を示していた。
ダルカは、食料を隠しているわけではない。
そもそも、奪える食料がない。
そして。
王は、自ら港へ向かった。
そこには、コタの船から降ろされた食料が積まれていた。
穀物。干した魚。保存食。
王は、その一つを手に取った。
「……これは」
箱の中には、見慣れない金属の容器があった。
蓋は固く閉じられている。
「長く保存できる食料だそうです」
役人が答えた。
「……保存?」
「はい。南方の島で、新しく作られたものだと」
王は、しばらくその容器を見つめた。
食べ物を増やすだけではない。腐らせずに運ぶ、必要な場所へ届ける、そんな方法がまだあったのか。
王はゆっくり容器を戻した。
王宮へ戻ると、再びフォンを呼んだ。
「……軍を退く」
フォンが顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ」
「……ありがとうございます!」
「礼を言うのは早い」
王は続けた。
「ダルカから奪えるものはない。これ以上戦えば、我が国はさらに飢える」
机の上に置かれた種袋を見る。
「だが、これで終わったわけではない」
フォンは黙って聞いた。
「我が国の食料不足は、まだ解決していない」
「……はい」
「そして、ダルカが我々を許すとも思えん」
王は窓の外を見る。
「向こうも、我が国の兵を殺した。我が軍も、向こうの村を壊した」
「……」
「撤退しても、死んだ者は帰らない」
フォンは胸元の糸飾りを握った。
王は、ゆっくり言った。
「それでも、これ以上増やすわけにはいかん」
そして立ち上がった。
「全軍へ命じる」
広間に声が響く。
「撤退せよ」
フォンは深く頭を下げた。
「……はい」
「ただし」
王は続けた。
「兵の帰還を認める交換条件として、捕虜の返還と国境での停戦協議を求める」
「……」
「交易再開は、その後だ」
フォンは頷いた。
二つの国は、まだ互いを信じていない。
これから何度も争うかもしれない。
それでも。
今は、銃を下ろす。
「フォン」
王が呼び止めた。
「お前は、ダルカで生まれたのだったな」
「……はい」
「ならば、戻れ」
フォンが顔を上げる。
「……え?」
王は言った。
「両方の国を知る者が、これから必要になる」
「……!」
「停戦協議へ同行しろ。お前の言葉を、私が信じたことも伝えよ」
フォンは、しばらく動かなかった。
そして。
「……はい!」
深く頭を下げた。
王は窓の外を見た。
遠くには、工場の煙。
その向こうに広がる国。
自分が守ろうとしてきた国。
「……まったく」
机の上の手紙を見た。
「恐ろしい娘だ」
大臣が顔を上げる。
「何がでしょう?」
王は、調査記録の最後の頁を指した。
「我が国の戦費まで、よく計算している」
大臣の顔が青ざめる。
「……彼女の忠告がなかったら」
小さな声。
「食料不足の前に、戦争で国家が破綻していたかもしれません」
王は長く息を吐いた。
そして。
「……だが」
少しだけ笑った。
「今度は、その知識を国を立て直すために使ってもらわねばな」
窓の外。
シェンクゥの街には、今日も煙が立ち上っていた。
工場は動いている。だが、人々は飢えている。
戦争をやめても、明日の食べ物はまだ足りない。
それでも王は、撤退命令へ署名した。




