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第四十五話 盤上の戦い

三人は、北の山々を駆け下りた。


ヤク、馬、荷馬車、船。乗れるものには何でも乗った。峠を越えるほど、すれ違う人が増えていった。


家財を積んだ荷車。赤ん坊を抱く母親。牛を引く老人。三人は、その人波に逆らって進んだ。


一週間後。


ダルカの農村地帯は、すっかり姿を変えていた。


水路の脇に塹壕が掘られ、畦道には土嚢が積まれている。遠くで大砲が鳴るたび、鳥の群れが田から飛び立った。


「よく戻った!」


甲冑姿のラージャが駆け寄ってくる。顔には泥がこびりつき、目の下に深い隈がある。


「状況は?」


スカラが尋ねた。


「国境の橋を落とした。街道も塞いだ。だが、敵の砲兵は止まらん」


案内された建物には、大きな地図が広げられていた。その上には、赤と青の駒。細い川。橋。村。道。


窓から鳩が飛び込む。


「東部、敵先鋒二百、第二防壁を突破!」


赤い駒が一つ進んだ。


続けて別の鳩。


「西側の砲兵隊、街道で停滞!」


「南の橋、破壊完了!」


報告のたび、駒が動く。


「まるで盤上の遊びみたいだ」


アルスが呟く。


「駒の下には人がいる」


ラージャがそう言うと、地図の東を指した。


「こちらが本隊だ。西の砲兵は動きが鈍い。東を抜かれれば都へ続く平野に出る」


「なら、東へ兵を集めれば?」


「西を空ければ砲兵が進む。こちらにはもう予備兵がない」


スカラは地図を見つめた。


二本の街道。


その間を縫うように流れる、ダルカ河の支流。


「……敵の大砲は、なぜ西で止まっている?」


「橋を落としたからだ」


「橋を架け直せば進める」


「そうだ。時間の問題だ」


スカラは指を動かした。川の下流、低い農村地帯で止める。


「東の兵を、ここから退かせてくれ」


ラージャが顔を上げた。


「何だと?」


「守りを薄くする。敵に街道を進ませるんだ」


「都への道を開けというのか!」


「その手前で止める」


スカラは低地を指した。


「この堤を切れば、川の水が旧河道へ流れる。田畑と街道は浸水する」


アルスが目を丸くした。


「水攻め?」


「ああ。ただし敵を流すほどの水量は期待できない。狙うのは砲と荷車だ。重い車輪は、軟らかい地面で動けなくなる」


ラージャは地図に顔を近づけた。


「敵が高台へ回れば?」


「そこには橋がない。砲を運ぶには大きく迂回する必要がある」


「歩兵だけなら抜けられるぞ」


「その通り。だから勝つ作戦ではない。時間を買う作戦だ」


遠くで砲声が響いた。


ラージャは腕を組んだ。


「東を退けば、敵は追ってくるかもしれん。だが、追ってこなければ?」


「そのときは堤を切らない。兵を戻す」


「戻せる保証はない」


「ない」


スカラは答えた。


「敵の動きも、川の水位も、計算通りとは限らない」


「……ずいぶん危うい策だな」


「今ある兵力で正面から戦うよりは、可能性がある」


ラージャは、東の青い駒を見た。


その時、ミラが地図を覗き込んだ。


「……待って」


低地の小さな点を指す。


「ここ、私の村だ」


スカラの指が止まった。


「水を流したら、どうなるの?」


「家屋の一部は壊れるだろう。畑も、すぐには使えなくなる」


「……私の家がある」


ミラは小さく言った。


「おばあちゃんと暮らした家。嫌いな村だったけど……それでも、私の家なの」


ラージャは地図を見下ろした。


「分かっている」


「分かるわけない!」


ミラが叫んだ。


「あなたたちは、そこで暮らしてない!」


誰も言い返さなかった。


そこへ伝令が飛び込んだ。


「東の防壁が破られました!敵先鋒、街道へ!」


ラージャは顔を上げた。


「低地の村々に避難命令を出せ。動けぬ者には兵を向かわせろ。高台へ誘導するんだ」


「首長、確認を待つ余裕は――」


「分かっている。全村の返答は待たん」


ミラがラージャを見た。


「……やるの?」


「ああ」


「村が壊れても?」


「この道を抜かれれば、もっと多くの村が戦場になる」


ラージャは一度だけ目を閉じた。


「決めたのは私だ。責任も私が負う」


「責任って……家を元に戻してくれるの?」


ラージャは答えられなかった。


その沈黙の間にも、窓の外では鳩が飛び立っていった。


***


東の青い駒が二つ下がった。


「第一、第二防壁から後退開始!」


赤い駒が追う。


アルスは地図を覗き込んだ。


「……来た!」


「まだだ」


スカラが言った。


「先鋒だけだ。砲と荷車が低地へ入らなければ、意味がない」


次の報告。


「敵の先鋒、分岐点で停止!」


ラージャの眉が動いた。


「罠を疑ったか」


沈黙が落ちる。


赤い駒は動かない。


やがて。


「西側、敵の砲兵が移動を開始!」


「まずい!」


ラージャが地図に手をついた。


「高台へ回るつもりか!」


スカラは西の街道を見た。


橋は落ちている。高台へ行くには、砲をいったん北へ戻さなければならない。


「……いや」


「何だ?」


「砲兵は東へ合流するつもりだ。西の橋を諦めたんだろう」


「それなら、こちらの思惑通りだが」


「まだ分からない」


窓が震えた。


「東部、敵本隊前進!砲兵、後続!」


ラージャが息を吐いた。


赤い駒が、低地へ入った。


「堤の準備は?」


「完了しています!」


「村々の避難は?」


「二村から報告あり。残りは伝令を向かわせています!」


ミラの村からの返答は、まだなかった。


ミラは何も言わない。


スカラは地図上で指を動かした。


堤から低地へ。低地から街道へ。


「……今なら間に合う」


ラージャが尋ねた。


「何に?」


「敵の荷車が街道を抜ける前に、水を届けられる」


「村の避難は終わっていないかもしれん」


スカラは顔を上げた。


「そうだ」


二人の目が合った。


ラージャは、短く命じた。


「堤を切れ」


伝令が走った。


ミラは机の縁を握りしめた。


誰も、その手をほどけなかった。


***


しばらくして、山の向こうで鈍い音がした。


ドン。


続いて、もう一度。


堤が切られた。


地図の上には何も起きない。


窓の外の景色も変わらない。


「……本当に水は来るの?」


アルスが尋ねた。


「川からここまでは距離がある」


スカラは答えた。


「少し時間がかかる」


鳩が飛び込む。


「敵先鋒、低地を通過!」


赤い駒が進んだ。


「……抜けられたぞ」


ラージャの声が低くなる。


「先鋒は歩兵だ」


スカラは言った。


「狙いは後続の砲兵と補給隊だ」


「その後続も抜けたら?」


スカラは答えなかった。


また鳩が来る。


「敵本隊、前進を継続!」


ラージャの拳が机を叩いた。


「水はどうした!」


「堤からの流入を確認!ただし水深は浅く――」


「浅い?」


アルスが叫んだ。


「それじゃ、通れちゃうじゃん!」


「水深は問題じゃない」


スカラは地図を見つめていた。


「田の土が水を吸えば、車輪の下が崩れる」


一羽の鳩が、窓枠にぶつかるように飛び込んだ。


兵士が紙を広げる。


「敵砲兵、低地で停止!」


部屋が静まった。


「車輪が泥に沈み、引き上げられない模様!」


ラージャが顔を上げる。


「……止まった?」


「補給の荷車も次々に立ち往生しています!」


さらに報告が続く。


「先鋒部隊、後続との連絡が途絶!」


「東部の敵兵、後退を開始!」


赤い駒が、一つ、また一つと戻っていく。


アルスが拳を握った。


「やった……!」


「敵を全滅させたわけじゃない」


スカラが言った。


「ただ、これで進軍は続けられない」


ラージャは長く息を吐いた。


「一日でも欲しいと言ったが……何日かは稼げそうだ」


部屋のあちこちで歓声が上がった。抱き合う兵士。笑いながら泣く伝令。アルスも、思わず笑みを浮かべる。


だがミラは、窓の外を見つめていた。


「……村は?」


歓声に声が消えた。


「私の村は、どうなったの?」


そのとき、遅れて届いた鳩を兵士が捕まえた。


「低地の避難報告です!北の二村は高台へ移動。南の村は――」


紙を読む兵士の顔が曇った。


「避難の途中で、家畜を置いてきた者が多数。家屋の被害は確認できません」


ミラの唇が震えた。


「……見に行く」


「ミラ?」


アルスが振り向く。


「私、見に行く!」


ミラは駆け出した。


「待って!」


アルスも後を追う。


スカラは追いかけようとして、地図に目を戻した。


水が広がった低地。その先の村。いま守ったはずの人々が、帰る場所を失ったかもしれない。


「首長!」


別の兵士が飛び込んできた。


「敵部隊の一部が撤退していません!」


ラージャが振り向く。


「場所は?」


兵士が赤い駒を置いた。


カタン。


スカラの目が止まった。


「……そこは」


「何だ?」


「ミラの村だ」


水が流れ込んだ低地。退路を失った敵兵。


そして、たった今、そこへ向かった二人。


スカラは扉へ走った。


「アルス!ミラ!」

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