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第四十四話 山の記録庫

老人に案内された先には、湖を見下ろす巨大な寺院があった。


山の斜面に沿って、日干し煉瓦と石の建物が幾重にも重なっている。階段と空中廊下がそれらを結び、山そのものを城に変えたようだった。


「こんなところに……」


アルスが口を開けた。


「あなた、ここの僧侶なの?」


ミラが尋ねる。


「僧侶で、農夫で、記録係です」


老人は肩の袋から小さな帳簿を出した。


「三つともやっていると、どれが本業か分からなくなります」


「記録係?」


「人は、忘れますから」


老人は笑って、三人を中へ招いた。


石の床は、数えきれない足に磨かれていた。壁には文字が刻まれている。ある文字の上から別の文字が彫られ、さらにその隙間に新しい文字が書き足されていた。


「この寺院は、何千年もの間、建て直されながら残ってきました。王が替わっても、国が滅びても」


「そんなに昔から?」


「ええ。古いものを、すべて正しく伝えられたわけではありませんが」


老人は一枚の石板を示した。


人の姿。その隣に、幾何学模様のようなものが描かれている。


「これは?」


スカラが尋ねた。


「昔話です。かつて、人間が自分より賢いものを造った、と」


アルスが石板に顔を寄せる。


「そんなこと、できるの?」


「できたのでしょうな。昔話が本当なら」


石板の下半分は欠けていた。残っている絵では、人と奇妙な形のものが向かい合っている。握手をしているようにも、押し合っているようにも見えた。


「仲が悪かったの?」


「分かりません。人がそれを恐れたとも、それが人を恐れたとも伝わります。争ったという話も、最後まで助け合ったという話もある」


「どっちが本当なんだ?」


「さあ」


老人は石板の欠けたところを撫でた。


「一番知りたいところが、残っていないのです」


スカラは、そこから目を離せなかった。


石板の隅に刻まれた円が、幾重にも重なっている。見覚えのある形だった。


腕に巻かれた光の輪を、そっと袖で隠す。


「……ほかにも、同じ時代の記録は?」


「奥にあります。ただし、読めるものはわずかです」


老人は三人を見た。


「ところで、何を探しに来たのです?」


「ダルカを救う方法だ」


スカラが答えた。


「水が足りない。畑が痩せ、人々が水を奪い合っている。もう戦争も始まっている」


ミラが付け加えた。


老人は、しばらく黙っていた。


「ならば、見るべきものはたくさんあります」


そう言って、奥の扉を開けた。


「……!」


スカラが足を止めた。


巨大な記録庫だった。


天井近くまで続く棚。巻物、木簡、石板、綴じられた帳簿。湿気を避けるためか、床から浮かせた棚もある。


「すごい……」


スカラは一冊を手に取った。


「南の書院にもなかった記録だ」


次の一冊。また次の一冊。


アルスがミラへ囁く。


「これ、戻ってこなくなるやつだ」


「もう戻ってこない顔してる」


老人が笑った。


「日が暮れる前には、食事に来てくださいね」


返事はなかった。


スカラはすでに、机に帳簿を積み上げていた。


雨量。河川の水位。収穫量。人口。飢饉。移住。


時代も書き方も違う数字を、紙に並べ直していく。


「……おかしい」


しばらくして、スカラが呟いた。


「何が?」


待ちくたびれていたアルスが顔を上げる。


スカラは古い地図を広げた。


「ここを見ろ」


ダルカの西側。山裾に、今は使われていない村の名があった。


「大干ばつの年だ。周辺の村では収穫が激減している。だが、この村だけ、食料の備蓄が減っていない」


「水がたくさんあったんじゃない?」


ミラが言った。


「それなら説明がつく。だが、雨量は周辺より少ない。川もない。古い水路の記録も見つからない」


「じゃあ、どうやって?」


「それを調べている」


スカラは別の帳簿を開いた。


同じ村は、その後も何度か干ばつを生き延びていた。偶然ではない。


「井戸が深かったとか?」


「地下水位の記録は、むしろ低い」


「じゃあ、貯めてた?」


「大きな貯水池はない」


アルスは腕を組んだ。


「水がないのに、食べ物はある。変なの」


「ああ」


スカラは悔しそうに紙を見た。


「どこかに、見落としがある」


その時、棚の奥で乾いた音がした。


老人が石の箱を開けていた。


「それは?」


スカラが近づく。


箱には、薄い金属板が収められていた。細かな線が走り、表面には小さな四角が規則正しく並んでいる。


「何に使ったものか、分かりません。古い時代のものです」


スカラは息を止めた。


文字ではない。


人の手で彫った線でもない。


旧文明の記録媒体に似ている。


指先を近づけると、袖の下がかすかに温かくなった。


――。


耳では聞こえない何かが、遠くで鳴った気がした。


スカラは手を引いた。


「どうしたの?」


アルスが尋ねる。


「……何でもない」


もう一度、金属板を見る。


表面の一角だけが黒く焼け、そこから先の線が途切れていた。


「これも、ここで見つかったのか?」


「ええ。昔、山の北側から運ばれてきたそうです。同じものが、ほかにもありましたが……」


「ありましたが?」


「使い道が分からず、溶かして道具にしたと聞きます」


スカラは、黒く焦げた部分を見つめた。


この板が壊れたのは、事故だったのか。


誰かが、壊したのか。


石板に描かれた、人と人ならざるもの。


握手にも争いにも見えた、あの形。


「……スカラ?」


アルスの声で、我に返った。


「いや。今は、こちらが先だ」


スカラは帳簿の前へ戻った。


あの村の謎は、まだ解けていない。


***


夜。

寺院の窓辺に、スカラは座っていた。


湖の向こうで、雪を頂いた山々が月に照らされている。


「……やっぱり、ここにいた」


ミラが隣に腰掛けた。


「アルス、待ってるうちに寝ちゃったよ」


「そうか」


「本、全部読んだ?」


「まだだ」


「まさか、全部読むつもり?」


「可能なら」


「やばっ」


ミラが笑う。


しばらく、二人で湖を見ていた。


「……何か見つかった?」


「変な記録を見つけた」


スカラは昼間の地図を広げた。


「水が少ないのに、飢饉を乗り越えた村がある。どうしてなのか、分からない」


ミラは地図を覗いた。


「この辺り、知ってる」


「本当か?」


「おばあちゃんが、昔住んでた村の近く」


スカラが身を乗り出す。


「何か聞いたことは?」


「さあ……小さい頃の話だし」


ミラは首をひねったが、やがて地図から目を離した。


「ねえ。戦争、止められるかな」


スカラは答えなかった。


ミラは腕の古びた糸飾りに触れた。祭りの日、兄妹が互いの無事を祈って結んでいた糸。


「……それは、家族からもらったのか?」


ミラの指が止まった。


「……家族は、シェンクゥにいる」


「シェンクゥ?」


「多分ね」


ミラは湖を見た。


「小さい頃、父さんと母さんが仕事を探しに行ったの。私は、おばあちゃんのところに預けられた」


「……迎えに来る約束だったのか?」


「うん。すぐ戻るって」


ミラは膝を抱えた。


「最初は毎日、街道を見てた。今日かな、明日かなって」


「……」


「でも、そのうち見なくなった。水を汲んで、働いて、食べ物を探して。待ってても、お腹いっぱいにならないし」


スカラは何も言えなかった。


自分は、母にもう一度会うために北を目指している。だが、ミラは会いたいと思う暇さえなかったのだ。


「会いたいとか、寂しいって思えるのも、余裕がないとできないのかもね」


ミラはそう言って、少し笑った。


「……あ、でも腹は立ってるよ。それは別!」


「そうか」


スカラも小さく笑った。


「その糸は?」


「一人でも、強く生きるって決めた時に結んだの」


「決意を、腕につけておくのか」


「変な言い方!」


ミラは吹き出した。


やがて、ぽつりと言った。


「私も何かできればいいんだけど。スカラみたいに、何でも知ってるわけじゃないし」


「ミラは、この国のことを知っている」


「当たり前じゃん。ここで育ったんだから」


「私には、その当たり前が分からない」


ミラは、少し驚いたようにスカラを見た。


「……じゃあ、明日は畑を見に行こうよ」


「畑?」


「ここのおじいちゃん、農夫でもあるんでしょ。本ばっかりじゃなくてさ」


スカラは昼間の地図を思い出した。


「……そうだな」


翌朝。

寺院の裏手には、小さな段々畑が広がっていた。


石垣で区切られた土地に、背の低い草、細長い葉、重い穂を垂らした作物が並んでいる。


「米だけじゃないんだね」


アルスが言った。


「ええ。ここでは、昔からの作物を少しずつ育てています」


老人が畑の間を歩く。


「食べるためでもありますが、種を残すためでもあります」


ミラが、一角で足を止めた。


「……あれ?」


細い茎に、小さな穂がついていた。


「これ、おばあちゃんが作ってた」


スカラが振り向く。


「どんな作物だ?」


「おいしくなかった」


「そこから?」


アルスが笑った。


「売っても安いし、たくさん採れないし。だから、みんな米を作るようになったんだって」


ミラは葉に触れた。


「でも、雨が降らない年も、おばあちゃんの畑だけは残ってた」


スカラの目が変わった。


「……その村は、どこだ?」


ミラが答えた地名は、昨夜の地図にあった村の隣だった。


「待っていてくれ」


スカラは寺院へ駆け戻った。


「えっ、何!?」


「また本!?」


二人の声が背中を追った。


***


記録庫の机に、二つの帳簿が開かれた。


一つは雨量と収穫の記録。もう一つは、村ごとの作付けを記した古い台帳。


スカラは指で行を追った。


「……あった」


アルスとミラが覗き込む。


「この村では、干ばつの年にも米を増やしていない。むしろ減らしている」


「食べ物が足りなくなるんじゃない?」


「代わりに、別の穀物を増やしている」


スカラは古い文字を読み上げた。


老人が頷く。


「今朝、畑で見たものですね」


「そうだ。米より少ない水で育つ。収穫量は劣るが、乾燥に強い」


スカラは記録を並べた。


「水を増やしたんじゃない。水が少ない年には、育てるものを変えていたんだ」


アルスが目を丸くする。


「じゃあ、ダルカでもそれを作れば……!」


「すぐに全部を替えることはできない」


スカラは首を振った。


「土地に合うかも分からない。食べる人が受け入れるか、収穫まで何日かかるかも調べなければならない」


「……それでも」


ミラが畑の方を見た。


「試すことはできるよね」


「ああ」


スカラは頷いた。


老人は台帳を見つめた。


「昔は、作物を何種類も育てる村が多かったのです。よく採れる年には米が喜ばれます。しかし、雨が少ない年は別のものが残る」


「どうして、やめたんだろう?」


アルスが尋ねた。


「米の方がよく売れたのでしょう。暮らしを良くしようとした結果かもしれません」


スカラは帳簿を閉じた。


誰かが間違えたからではない。


豊かな年に役立った選択が、干ばつの年には弱みになる。


ミラが笑った。


「おばあちゃん、あんなにまずいもの作ってるって、みんなにからかわれてたのに」


「名前を覚えていてくれて助かった」


「名前は忘れてたけどね」


「……そうだったな」


アルスが声を立てて笑った。


老人は三人を、畑の脇にある小さな倉へ案内した。


棚には布袋が並び、古い文字で作物の名と採種した年が記されている。


「種は、しまっておくだけでは死んでしまいます。何年かごとに育て、また採るのです」


老人は一つの袋を開いた。


スカラの掌に、小さな粒が数粒落ちた。


「持っていきなさい。ただし、これだけで国は救えません」


「分かっている」


スカラは種を見た。


雨が降っても満たされなかった井戸。


森を焼かなければ食べていけなかった畑。


どちらも、この種だけで変わるわけではない。


それでも、選べる道が一つ増えた。


「……これ、増やせるかな」


ミラが尋ねた。


「条件を調べて、試す。うまくいけば、次の年にはもっと採れる」


「じゃあ、やろうよ」


「簡単に言うな」


「スカラが難しく言いすぎなんだって」


アルスが笑った。


その時。


バサバサバサッ!


一羽の鳩が窓へ飛び込んできた。


アルスの笑顔が消えた。


「……まただ」


スカラが脚の紙を外す。


『シェンクゥ軍、国境を突破』


倉の中が静まり返った。


スカラは掌の種を見た。


芽が出るまでに、何日かかる。実を結ぶまでには、、、その間にも、戦争は進む。


「……間に合わないよ」


アルスが呟いた。


「ああ」


スカラは種を袋へ戻した。


「だから、先に止める」


「戦争を?」


「そうだ」


「どうやって?」


スカラ答えずミラを見た。


「一緒に来てくれるか?」


ミラは一瞬、目を見開いた。それから、腕の糸飾りをぎゅっと握った。


「……当たり前でしょ」


三人は倉を飛び出した。


寺院の廊下を駆け抜ける途中、スカラは一度だけ振り返った。


記録庫の奥。


あの石板と、黒く焼けた金属板がある場所。


人間が造った、人間より賢いもの。


それは、なぜ消えたのだろう。


そして、なぜ記録まで、こんなに途切れているのだろう。


答えはまだない。


スカラは袖の下の腕輪に触れた。


今は、麓へ戻らなければ。


山道へ出ると、風が吹いた。


アルスが先を走り、ミラがそのあとを追う。


スカラも駆け出した。


小さな種の袋を、落とさないように握りしめて。

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