第四十三話 神々の山
「はぁ……」
一歩。
「はぁ……はぁ……」
また一歩。
空気を吸う。
だが、どれだけ吸っても息苦しい。
「くる……しい……」
アルスが膝に手をついた。
ミラも、さっきからほとんど喋っていない。
三人はついに、“世界の屋根”と呼ばれる山岳地帯へ足を踏み入れていた。
木々は消えた。草も少ない。
あるのは、岩と雪と空。
そして、果てしなく続く山々。
「……一旦、休もう」
アルスが言った。
誰も反対しなかった。三人は岩陰へ座り込んだ。
「全然……息が……できない……」
スカラは、いつもの無表情を装っていたが、その肩も大きく上下している。
「スカラは……大丈夫?」
「よ……ゆう……」
アルスが思わず笑った。
「うそ……つけ……」
「……うるさい」
荷物を運んでくれている山岳民族の男が、毛の長い動物から荷を下ろした。
「何……あれ?」
アルスが尋ねる。
「ヤク……だ」
スカラが答えた。
「寒さや高地に強い。こういう場所では、貴重な家畜……だよ」
まくしたてるとまた大きく息を吸った。
男は慣れた手つきで小さな火を起こした。鍋に湯と茶を入れると続いて、乳を注ぐ。
甘い香りが漂い始めた。
「……チャイだ!」
ミラの顔が明るくなる。
三人は温かい器を受け取った。
口に含む。
甘さと温もりが、冷えた身体の奥へ染み込んでいく。呼吸も落ち着いてきた。
「……生き返る」
アルスは大きく息を吐いた。
白い息。
その向こうには、驚くほど青い空が広がっていた。
いや。
青を通り越して、黒に近い。
「……空って、こんな色だったっけ」
スカラも空を見た。
「標高が高いからな。上空にある空気が少ない分、光の散乱も変わる」
「へえ……」
アルスは、しばらく見上げていた。
雲が近い。
山々の稜線が、空を突き刺している。
「……世界の屋根かぁ」
ミラも隣で空を見上げた。
その時。
「ねえ」
足元を指す。
あちらこちらに、石が積み上げられていた。
小さいもの。
大きいもの。
古いもの。
つい最近、積まれたように見えるもの。
「これ、何?」
山岳民族の男は肩をすくめた。
「さあ。ずっと昔からある」
「知らないの?」
「ああ」
男は一つの石積みに触れた。
「旅の無事を祈ったのか。神様に感謝したのか。誰かを弔ったのか」
少し笑った。
「もう、誰にも分からん」
アルスは石の山を見た。
「じゃあ、なんで今も積んでるの?」
男はしばらく考えた。
「……誰かが始めたことを、誰かが続けたかったんだろうな」
そして、頂上の小さな石を指さした。
「これを積んだ人間にも、何か願いがあったはずだ」
スカラは、その石を見た。
何百年も観測を続けていた機械と、
何百年も石を積み続けてきた人間。
どちらも、遠い過去から何かを引き継いでいる。
だが、人間は、その意味を忘れてもなお新しく意味を見つけられる。
スカラは少しだけ考えた。
「……面白いな」
「何が?」
アルスが尋ねる。
「いや」
スカラは首を振った。
「何でもない」
***
休憩を終えると、三人は再び登り始めた。
少し歩いては休む。
また歩く。
身体が薄い空気に慣れるまで、無理はできなかった。
やがて、岩だらけの斜面を抜ける。
「……わぁ」
アルスが立ち止まった。
目の前に、白い山々が広がっていた。
岩肌へ張りつく雪。谷を埋め尽くす氷河。雲が山にぶつかり、ゆっくりと姿を変えている。
「すごい……」
ミラも言葉を失っていた。
スカラは遠くの山を指した。
「私たちは今、これまでの旅で一番空に近い場所にいる」
アルスが顔を上げる。
「じゃあ、宇宙に一番近いってこと?」
「そうとも言える」
「すげえ!」
アルスは両手を広げた。
「宇宙まで、あとどれくらい!?」
「一般的な目安なら、高度百キロだ」
「百キロ!?」
「ここからでも、まだ遥か上だよ」
「全然近くないじゃん!」
ミラが吹き出した。
「アハハ!」
冷たい風が、三人の間を吹き抜ける。
湿った空気を含む雲が山にぶつかり、斜面を這い上がっていた。
スカラは、その雲を見つめた。
「……ああやって、雨や雪が降る」
「山にぶつかって?」
「ああ。空気が山を登ると冷えて、水蒸気が水滴や氷になる」
アルスは白い峰々を見る。
「それが、ずっと積もってるんだ」
「そうだ」
足元には、小さな流れがあった。
雪が解けてできた水。
細い流れが一本。
また一本。
少し下で別の流れと合流する。
二本。
三本。
谷の底では、もう小さな川になっていた。
アルスは上と下を見比べた。
「……これが」
「何?」
「ダルカ河になるの?」
スカラは頷いた。
「その一部だよ」
アルスは山に向かって両手を広げた。
「じゃあ、この山」
白い峰々を見る。
「全部が、水を貯めてるんだ」
ミラが言った。
「神様の水瓶みたい」
スカラは少し考える。
「旧文明なら、天然の給水塔と呼んだかもしれない」
「給水塔?」
「雪や氷の形で水を蓄えて、少しずつ川へ流しているんだ」
アルスは足元の流れを見た。
「……へえ」
それから、ふと思い出した。
「コタの山も、そうだったね」
スカラが頷く。
「ヤナの村だな」
あの南国の山にも、雨が降っていた。
森が水を受け止める。
川が海へ注ぐ。
海の生き物が育つ。
コタでは、そのつながりを取り戻した。
そしてダルカでも、水は山から流れ、森を通り、田畑を潤し、人間の暮らしを支えている。
「……世界はつながってるんだね」
アルスが呟いた。
「ああ」
スカラも頷いた。
ミラは白い山を見つめていた。
「ねえ、スカラ」
「何?」
「この山に降る水も、減ってないんだよね?」
「長い期間で見れば、極端には減っていない」
スカラは答えた。
「ただ、年ごとの変化はある。雪の量も、解ける時期も、いつも同じではない」
「でも……」
ミラの目が少し明るくなった。
「水は、まだあるんだ」
「ああ」
スカラは、足元の細い流れを見る。
「少なくとも、自然から供給される水がすべて失われたわけじゃない」
アルスも顔を上げた。
「だったら、希望あるじゃん!」
スカラは、少しだけ笑った。
「あるとすれば」
白い山の向こうを見る。
「自然を変えることじゃない」
「……?」
「人間が、水との付き合い方を変えることだ」
風が吹いた。足元の石積みから、小さな石が転がった。
山岳民族の男が立ち上がると、荷物をまとめ、足元から一つの石を拾った。
そして、積み石の上へそっと置いた。
「……何をお願いしたの?」
アルスが尋ねる。
男は笑った。
「秘密だ」
そう言って、北を指す。
「行こう」
***
さらに数日かけ、三人は最後の峠を越えた。
「はぁ……」
アルスが顔を上げる。
風が、急に弱くなった。
岩と雪しかなかった世界。その向こうに突然、青いものが見えた。
「……?」
アルスは目を細める。
「水?」
さらに数歩。
視界が開けた。
「……水だ!」
次の瞬間、アルスは走り出した。
「水だ!!」
「おい、アルス!」
スカラが呼び止める。
「急に走るな!まだ空気が――」
「分かってる!」
岩場を駆け下りる。
そして、立ち止まった。
湖が、そこにあった。
青い。
広い。
満々と水を湛えた、巨大な湖。
「……うわぁ」
アルスは息を呑んだ。
鏡。
そう思った。
青。
青。
青。
空を、そのまま地上へ落としたような青い湖。
岸辺の水は驚くほど澄んでいて、底の石まで見える。
少し離れると、深い青。
さらに遠くでは、雪を抱いた山々が水面へ映り込んでいた。
まるで、もう一つの空がそこにあるようだった。
「……すごい」
ミラも言葉を失っていた。
あれほど下流で探し続けた水。
人々が奪い合い、命を落としかけた水。
それが。
ここには、溢れるほどあった。
ミラは静かに目を閉じ、手を合わせた。
アルスは湖へ駆け寄った。
「ここが、ダルカ河の始まり!?」
スカラが頷く。
「この湖も、水源を構成する場所の一つだろう」
「……これが」
アルスは両手を広げた。
「最初の一滴!」
「一滴と言うには大きいけどな」
スカラも湖へ近づいた。
岸辺へしゃがみ込み、水へ触れる。
冷たい。
そして、古い水位の跡を見る。
岩の表面。
今の水面より、少し高い場所に線が残っている。
「……水位が下がっている?」
「え?」
アルスが振り返る。
スカラは、岩の線を指した。
「昔は、もう少し高かったのかもしれない」
湖へは、今も雪解け水が流れ込んでいる。それなのに、水位は低くなっている。
「……じゃあ」
アルスは少し考えた。
「魚と同じだ」
「何が?」
「コタの魚も、いなくなったんじゃなかった。増えるより速く、俺たちが獲ってた」
湖を見る。
「水も、入ってくるより速く使ってるんじゃない?」
スカラは、少し驚いたようにアルスを見た。
「……可能性はある」
「当たった?」
「まだだ」
「えー!」
スカラは湖へ目を戻した。
旧文明の飛行体に残されていた観測記録。そこには、この地域の水位や降水量についての情報も含まれていた。
記録と、今の景色を比べる。
「……それだけでは、説明できない」
「何が?」
「水を使いすぎているだけなら、上流のこの場所まで、同じように変化しているとは限らない」
スカラは山を見る。
雪がある。氷河がある。そこから水が流れ出している。湖にも、大量の水がある。
なのに。
遠い下流では、井戸が枯れ、人々が水を奪い合っている。
「……水がないんじゃないの?」
ミラが小さく言った。
スカラは振り向いた。
「……何?」
「だって」
ミラは湖を指した。
「ここには、こんなにあるじゃん」
三人は、青い水面を見た。
水はある。
それなのに、人間の暮らしからは水が消えている。
スカラはゆっくり立ち上がった。
「……そうだな」
湖から流れ出す川を見る。
「問題は、どこに水があって、どこへ届かなくなったのか……なのかもしれない」
その時だった。
ピュー。
口笛が聞こえた。
三人が振り向くと湖畔を、一人の老人が歩いてきた。杖をつきながら、ゆっくりと。
老人は三人の横まで来ると、湖を見た。
「水を探して来たというのは、あなたたちですか?」
ミラが頷いた。
「ダルカが渇いてるの」
「そうですか」
老人は湖を見渡した。
「なら、ここまで来て分かったでしょう」
「……?」
「水は、ある」
三人は黙った。
老人は続ける。
「それでも、人は昔から何度も水に困ってきた」
スカラの目が動いた。
「……昔から?」
「ええ」
老人は杖を持ち直した。
「森があった時代も。今より雨が多かった時代も」
そして、山の上を指さした。
雲の切れ間。
岩肌へ張りつくように、巨大な建物の影が見えた。
「知りたいのなら、ついて来なさい」
老人は静かに言った。
「昔の人間が、何をしてきたのか」
少し笑う。
「そこには、たくさん残っていますよ」
スカラは、山の上の建物を見た。
石の壁。
段々に重なる屋根。
空へ伸びる古い塔。
「……あれは?」
老人が答えた。
「寺院です」
湖を見下ろす、巨大な寺院。
三人は、老人のあとを追って歩き出した。




