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第四十二話 遠い日の約束

――スカラ。


声が聞こえた。


白い光の向こう。


久しぶりに見る“あの人”が、そこに立っていた。


――北の果てで待ってる。


「……ごめん」


スカラは俯いた。


「約束、守れなかった」


――どうして?


「死んだから」


自分で言って、少し変な気がした。


あの人は笑っている。


――大丈夫。きっと知識が、あなたを導いてくれる。


「……うん」


ずっと、そう思っていた。


たくさん知れば。


もっと世界を知れば。


いつか、あなたの言ったことも分かるはずだと。


でも。


「まだ、分からないことがあるみたい」


――そう。


「本には書いてないこと」


少し考えた。


「……たくさんあった」


スカラは、あの人を見る。


「私、あなたに褒めてほしかった」


一歩、近づく。


「よく来たねって」


また一歩。


「大きくなったねって」


手が届きそうになる。


「また……」


声が震えた。


「また、髪を撫でてほしかった」


――スカラ。


「……会いたい」


手を伸ばす。


だが、白い光の中で、その姿が薄くなっていく。


「待って」


――また。


「待って!」


――会いましょう。


光が消えた。


「待って――!」


その瞬間。


ぬるっ。


何かが、頬に触れた。


「……?」


ぬるぬる。


「何……」


また頬を撫でられる。


「ちょっ……」


ぬるっ。


「くすぐった……アハハ!」


笑った瞬間。


「痛っ!!」


胸に激痛が走った。


スカラは目を開けた。


青。


どこまでも青い空。


「……生きてる?」


身体を起こす。


「痛っ……!」


脇腹を押さえた。


息を吸うたび、肋骨の辺りが痛む。


全身ずぶ濡れ。


腕も脚も擦り傷だらけ。


服には泥がこびりついている。


だが、手足は動く。


「……どうして」


その時。


ぬうっ。


目の前に、長い鼻が伸びてきた。


「……象?」


一頭の象が、こちらを覗き込んでいた。


あの朝の子象より、ずっと大きい。


鼻を伸ばし、もう一度スカラの頬を撫でる。


「……お前か」


周囲を見る。


濁流から離れた、少し高い岩場。すぐ下には、川が大きく曲がった場所があった。流木や枝が岸辺に溜まっている。


泥の上には、自分の身体を引きずったような跡。その隣には、大きな丸い足跡が続いていた。


スカラは象を見上げた。


「……あそこで、私を見つけたのか?」


象は答えず、つぶらな目でじっとこちらを見ている。


スカラは少し笑った。


「……ありがとう」


長い鼻へ、そっと手を伸ばす。


「助かったよ」


象が小さく鼻を鳴らした。


スカラは立ち上がろうとした。


「痛っ……!」


身体が悲鳴を上げる。


「……そう簡単には動けないか」


もう一度、岩へ腰を下ろした。


その時だった。


袖の下に、淡い光。


「……?」


袖をまくると腕に、一本の光の輪が浮かんでいた。


「ホットスポット?」


さらに一本。


二本。


そして、三本。


「こんな山奥に……」


スカラは周囲を見渡した。


森。


岩。


川。


人の住む気配はない。


「何がある?」


ブーン――。


頭上から、奇妙な音が聞こえた。


見上げる。


大きな鳥が、空に円を描いていた。


いや。


鳥ではない。


翼はほとんど羽ばたいていない。それなのに、一定の速さで同じ場所を旋回している。


「……機械?」


スカラが腕を向けると、光がわずかに強くなった。


その瞬間、視界の端に古い文字が浮かんだ。


環境観測。気象。地形。河川。


「旧文明の……環境調査用飛行体?」


スカラは目を見開いた。


「なぜ、こんな所に?」


機械の鳥はゆっくりと高度を下げると、少し離れた岩の上へ着地する。


翼を畳み、動きを止めた。


スカラは、痛む身体を押して近づいた。


表面には、無数の傷。翼の端は欠け、片方の脚も曲がっている。


「……ずいぶん古いな」


そっと触れる。


その瞬間。


「……!」


頭の中へ、膨大な情報が流れ込んできた。


地形。気温。気圧。降水量。川の流量。森の分布。


百年。二百年。三百年。

幾つもの時代の記録が、次々と現れる。


「……こんなに長い間」


スカラは機械を見た。


この小さな飛行体が、何百年もの間ずっと空を飛んでいたわけではない。


記録には、休止と再起動を繰り返した履歴が残っていた。


雨を測り、川を測り、時には長い眠りについて、再び目を覚ます。


そうして、数百年。


誰も報告を受け取らなくなった後も、観測を続けていた。


「……まだ、働いていたのか」


スカラは機械を見つめた。


オオカミ岩の機械も。ヤナの村に残されていた装置も。与えられた命令を、ずっと守り続けていた。


この機械も同じだ。


ただ、観測し続ける。


自分が何のために作られたのか、もう誰も知らないのに。


「……疲れなかったのか?」


もちろん、返事はない。


スカラは少し考えてから、機械の頭へ手を置いた。


「よく頑張ったね」


そう言った自分に、少し驚いた。


機械に疲労も、寂しさもないはずだ。


そんなことは知っている。


それでも。


「……よく頑張った」


もう一度、そう言った。


すると、飛行体の小さな表示灯が一度だけ点滅した。


スカラの腕にも、淡い光が浮かぶ。


「……?」


見つめている間に、両方の光が消えた。


ただの接続反応か。


それとも。


「……まあ、いいか」


スカラは、機械の記録へ意識を戻した。


***


雨量。


「……変わっていない」


過去と現在の数字を比べる。


年によって大きな差はある。だが、長い期間で見ると、山岳地帯の降水量に極端な減少はない。


河川流量。


「これも……」


季節による増減はある。洪水もある。渇水もある。


だが、川へ供給される水が、何百年もかけて一方的に減り続けているわけではなかった。


気温。


降雪。


森の分布。


次々と数字を照らし合わせる。


「……おかしい」


ダルカの村では水が足りない。田は乾き、井戸の水位は下がり、人々は水を奪い合っている。


なのに。


山には雨が降っている。川にも水は流れている。


「説明がつかない……」


スカラは顔を上げた。


その時、初めて気づいた。


森の向こうに、巨大な人工物が見えていた。岩壁と一体になった、灰色の壁が谷を塞ぐように造られた旧文明の構造物。


「……ダムだ」


今も機能しているのか。それとも、とうに役目を失ったのか分からない。


スカラは飛行体を見た。ここが、長い観測記録の拠点だったのだろう。


そして、もう一度データを見る。雨はなくなっていない。川も消えていない。


ならば。


「……何が変わった?」


背後で象が鼻を鳴らしたのに気づき、スカラは振り返った。


「……そうだな」


少し笑う。


「まだ、途中だ」


スカラは、すぐには歩き出せなかった。痛む脇腹を押さえ、何度も休みながら川沿いを下った。


象は、しばらくその後をついてきた。


***


あれから三日。


アルスは、ほとんど眠れていなかった。


焼き畑の近くに寝泊まりし、来る日も来る日も川沿いを探し続けた。


下流。岩場。森。流木が溜まった場所。


何度も歩いた。


何度も名前を呼んだ。


「……スカラ!」


返事はない。


「もう少し休んだら?」


ミラが声をかけた。


「平気」


「平気じゃない」


アルスの目の下には、濃いくまができていた。


「スカラは――」


アルスは川を見た。


「絶対、どっかで生きてる」


まるで、自分に言い聞かせるように。


ミラは唇を噛んだ。


「……ごめん」


「何?」


「私が、あの時――」


「ミラのせいじゃないよ」


アルスは川を見たまま答えた。


「でも……」


「スカラは、自分で助けに行ったんだ」


ミラは黙った。


アルスも、それ以上は何も言わなかった。


その時。


「……おや?」


畑仕事をしていた老人が、道の向こうを見た。


アルスも顔を上げる。


一人の人影。


その隣に、大きな影。


朝日を浴びて、金色の髪が揺れていた。


「……」


アルスの足が止まる。


人影が、片手を上げた。


「ただいま」


次の瞬間。


アルスは走っていた。


「スカラ!!」


「うわっ!」


そのまま抱きついた。


「痛い!」


「スカラ!」


「離れて!」


「生きてる!」


「だから、離れろ!」


「嫌だ!!」


「肋骨が痛い!!」


「えっ!?」


慌てて離れた。


「ご、ごめん!」


「……まったく」


スカラは脇腹を押さえた。


アルスは、改めてその顔を見る。


泥だらけ。傷だらけ。いつも通り、ちょっと不機嫌そうな顔。


「……本物?」


「何が?」


「幽霊じゃない?」


「幽霊という現象は、一説には人間の孤独感や――」


「ああっ!」


アルスは泣きながら笑った。


「その言い方!本当にスカラだ!」


「……何だ、それは」


後ろから、嗚咽が聞こえた。


二人が振り向く。


ミラだった。顔をぐしゃぐしゃにして、立っている。


「……スカラ」


「何?」


「本当に……」


涙が次々に落ちる。


「本当に、生きてるの……?」


「そうだよ」


「うぅ……」


「泣きすぎだ」


「だって!」


ミラが叫んだ。


「私のせいで死んだと思った!」


「生きている」


「私なんか助けるために、なんであんなことしたのよ!」


スカラは少し考えた。


「……分からない」


ミラが顔を上げる。


「は?」


「あの時は」


少しだけ視線を逸らした。


「助けなきゃ、と思った」


「……それだけ?」


「ああ」


ミラは唇を震わせた。


「……バカ」


「なぜ?」


「バカ!バカ!」


そのままスカラへ抱きつこうとする。


「ちょっと!」


アルスが慌てて止めた。


「肋骨痛いって!」


「あっ!」


ミラは急停止した。


そして。


隣にいた象へ抱きついた。


「象さぁぁん!!」


象が驚いて鼻を上げる。


「スカラを助けてくれて、ありがとぉぉぉ!!」


「……そっちに行くのか」


アルスは泣きながら笑った。


ミラも、泣きながら笑った。


スカラは二人を見ていた。


なぜ泣くのか。なぜ笑うのか。以前なら、理由を知りたくなっただろう。


だが今は。


二人がここにいることが、ただ嬉しかった。


「……それで」


スカラが口を開いた。


「再会を喜んでいるところ悪いが」


「もう少し喜ばせてよ!」


アルスが叫ぶ。


「重要なことが分かった」


「……何?」


スカラは腕を見た。


今はもう、光の輪は消えている。


「旧文明の機械から、この地域の数百年分の環境記録を手に入れた」


「数百年!?」


「ああ」


ミラも涙を拭った。


「それで、何が分かったの?」


スカラは答えた。


「雨は――」


二人を見る。


「長い期間で見れば、ほとんど減っていない」


「……え?」


「山を流れる川の水量も、極端には変わっていない」


アルスは首を傾げた。


「でも、ダルカは干ばつで……」


「ああ」


スカラは北を見た。


「だから、分かったことがある」


「何?」


「自然だけが変わったわけじゃない」


白い山々。


その向こうを見つめる。


「人間の側で、何かが変わったんだ」


その時だった。


バサバサバサッ!


一羽の鳩が飛んできた。


三人の顔から、笑みが消えた。


紙を外す。


三行。


『第一防衛線、突破』


『橋、二本破壊』


『避難民、増加』


「……」


ミラが息を呑んだ。


アルスはスカラを見る。


「これ……あと、どれくらいもつ?」


スカラは紙を見た。


『避難民、増加』


その一行を、もう一度読む。


「……急ごう」


「どこへ?」


スカラは、白い山々を見た。


「水が消えた理由を、確かめに」


三人は再び、北へ歩き出した。

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