第四十一話 濁流
「……急ごう。高い場所へ」
スカラの言葉に、アルスとミラは頷いた。
三人は足を速める。
だが、道は進むほどに狭くなっていった。
両側には切り立った岩壁。遥か下を、白く泡立つ川が流れている。
上流からは、時折、鈍い音が響いていた。
ドン……。
「……さっきより近くない?」
アルスが振り返る。
「気のせいではない」
スカラは答えた。
「急いだ方がいい」
やがて、道が途切れた。
目の前には、一本の吊り橋。
深い谷を横切り、向こう岸へ続いている。
木の板を縄で繋いだだけの、頼りない橋だった。
「……これを渡るの?」
アルスが呟く。
「他に道はないみたい」
ミラが答えた。
スカラは橋の先と周囲を見渡した。
向こう岸には、少し登れば高い岩棚へ出られそうな斜面がある。
「渡ろう」
アルスが先に橋へ踏み出した。
ぎしっ。
「うわ、結構揺れる!」
「古い橋だからね。気をつけてよ」
ミラも後に続く。
スカラは二人の後を追った。
三人が橋の半ばまで進んだときだった。
ぎしぎしっ。
橋が大きく揺れた。
「え?」
ミラが足を止める。
誰も動いていない。
岩壁から、小さな石が落ちた。
ころん。
ころころ。
「……?」
アルスが足元を見る。
「今の、何?」
スカラは答えなかった。
上流を見つめている。
先ほどまで青空の下に見えていた白い山々が、灰色の土煙に隠れ始めていた。
ドドド……。
また、音がした。
今度は、はっきりと聞こえた。
雷ではない。
地面そのものが唸っているような、低い音。
「……まずい」
ミラの顔から血の気が引いた。
「ミラ?」
「鉄砲水だ」
「え?」
「鉄砲水!!逃げて!!」
その叫びと同時に、山の向こうから轟音が響いた。
ドドドドドドド――!!
アルスが目を見開く。
谷の奥から、黒い壁が迫っていた。
水だ。
泥を含んだ大量の水が、岩も木も巻き込みながら押し寄せてくる。
「うわっ!何だよ、あれ!」
「鉄砲水だ!急げ!」
アルスが向こう岸を見る。
「渡りきるしかない!」
「待て!」
スカラが叫んだ。
「向こうの斜面まで距離がある!今からでは間に合わない!」
「じゃあどうするんだよ!」
スカラは周囲を見回した。
橋の向こうには高い岩棚がある。
だが、そこへ続く道は細く途中に足場も少ない。
一方、こちら側の岩壁には少し上がったところに岩棚が見えた。
「戻るぞ!」
「こっち!?」
「橋の手前だ!あの岩棚まで登る!」
ミラも振り返った。
川は少し先で大きく曲がっている。
以前、スカラに教わったことを思い出す。
――川は曲がるとき、外側の岸を強く削る。
確かに、向こう岸の岩壁は深くえぐられていた。
対して、こちら側には土砂の積もった斜面があり、その上に岩棚が続いている。
「分かった!」
ミラが叫んだ。
「こっちなら登れる!」
スカラが頷く。
「ただし、水が来ればどちらも危険だ!とにかく高いところまで!」
「よし、走れ!!」
アルスが先頭を駆け戻った。
ぎしぎしぎしっ!
橋が激しく揺れる。
ドドドドドドド――!
轟音が迫った。
振り返ると、もう水の壁が見えていた。
黒い水面から、引き抜かれた木々が突き出している。
巨大な岩が転がり、ぶつかり、砕け散る。
そのすべてが、信じられない速さで谷を下ってきた。
「急げ!!」
橋を渡り終えたアルスが、斜面に取りついた。
岩の割れ目に足をかけ、一気によじ登る。
「こっちだ!」
崖の上から手を伸ばす。
最初にスカラが取りついた。
「自分で登れる!」
「いいから手を貸して!」
「だから――」
「時間ないって!!」
アルスが腕を掴み、力いっぱい引き上げる。
「ぐっ……重っ!」
「重くない!」
スカラの身体が岩棚の上へ転がった。
「よし!次、ミラ!」
二人が振り返る。
ミラはすぐ下まで来ていた。
「今行く!」
岩に手をかける。
足を踏み出す。
だが。
がらっ。
足元の土砂が崩れた。
「きゃっ!」
身体が滑り落ちる。
「ミラ!」
アルスが腹ばいになった。
崖から身を乗り出し、手を伸ばす。
「掴まれ!」
ミラも腕を伸ばす。
指先が触れた。
だが、掴めない。
「もう少し!」
「届かない!」
そのとき。
谷底から凄まじい風が吹き上がった。
ミラの髪が逆立つ。
息が詰まる。
迫る濁流が、谷の空気を押し出しているのだ。
ドンッ!
巨大な流木が岩壁に激突した。
バキバキバキッ!
木の幹が折れる。
「もう来る!!」
アルスが叫ぶ。
「ミラ!もう一回!」
「うん!」
ミラが必死に身体を伸ばした。
あと少し。
ほんの少し。
だが、足をかける場所がない。
「……無理!」
その瞬間。
「スカラ!?」
アルスが叫んだ。
スカラが、崖を下りる。
「何してるんだよ!」
返事はない。
スカラはミラの下へ回り込むと、その背中を両手で支えた。
「上がれ!」
「えっ、スカラ!?」
「早く!」
「でも、あんたが――」
「いいから上がれ!!」
スカラが力いっぱい押し上げた。
「う……っ!」
ミラの身体が浮く。
アルスが手を伸ばした。
今度は届いた。
がしっ!
「掴んだ!!」
「引っ張れ!」
アルスは歯を食いしばり、全身の力でミラを引き上げた。
ずるっ。
ごろり。
ミラの身体が岩棚の上へ転がった。
「はあっ……はあっ……!」
だが、休んでいる暇はなかった。
「スカラ!!」
アルスがすぐさま振り返る。
スカラはまだ下にいた。
崖に手をかけ、登ろうとしている。
その背後には。
黒い濁流。
もう、谷の曲がり角まで迫っていた。
「手を伸ばして!!」
アルスが叫ぶ。
スカラが腕を伸ばす。
だが、届かない。
「もっと!」
アルスは腹ばいになり、限界まで身を乗り出した。
ミラが慌てて、その腰を掴む。
「アルス!」
「離すなよ!」
「分かってる!」
スカラが岩を蹴った。
身体が少し持ち上がる。
「あと少し!」
アルスが腕を伸ばす。
スカラも伸ばす。
指先が近づく。
あと、ほんの少し。
ドドドドドドドドド――!!
谷全体が震えた。
スカラが振り返る。
濁流が、目の前にあった。
泥水の中を、岩が転がっている。
木が折れながら流れてくる。
その速さ。
水の高さ。
崖までの距離。
スカラの頭の中で、無数の数字が走った。
逃げ切れる確率。
アルスが落下する危険。
ミラまで巻き込まれる可能性。
そして。
導き出された答えは、一つだった。
――間に合わない。
スカラの手が止まった。
「スカラ!!」
アルスが叫ぶ。
「早く!!」
それでも、スカラは動けなかった。
ここで自分が手を伸ばせば、アルスまで巻き込んでしまうかもしれない。
計算すれば、答えは決まっている。
このまま手を離せば、アルスたちは助かる。
自分が諦めれば。
「……違う」
スカラは呟いた。
アルスが目を見開く。
「スカラ?」
「そんなものは、もう知っている」
スカラは、もう一度手を伸ばした。
「だから、信じる」
「何を……?」
「お前を」
その言葉に、アルスの顔が強張った。
オオカミ岩。
暗い海。
恐怖で動けなくなった自分に、アルスが差し出してくれた手。
――何があっても、絶対にこの手は離さない。
あのとき、アルスは計算などしなかった。
助かる確率も。
落ちる危険も。
ただ、スカラの手を掴み、離さなかった。
その手が、今も目の前にある。
「スカラ!!」
アルスが叫ぶ。
「絶対に離さない!!」
スカラは顔を上げた。
崖の上。
アルスが必死に手を伸ばしている。
あのときと同じ顔で。
けれど、今度は違う。
手を伸ばしているのは、アルスだけではなかった。
スカラもまた、計算の外へ踏み出していた。
「アルス!!」
スカラは、もう一度岩を蹴った。
「掴め!!」
手を伸ばす。
アルスも、身を乗り出す。
「スカラァ!!」
指先が。
触れた。
あと少しで。
掴める。
その瞬間。
轟音が、すべてを呑み込んだ。
ドオオオオオオオオ――ッ!!
黒い水の壁が、崖に激突した。
「――っ!!」
アルスの手が空を掴む。
ついさっきまで。
そこにあったはずの手が。
消えていた。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目の前を、濁流が駆け抜けていく。
泥。
岩。
流木。
黒い水。
その中に、スカラの姿はない。
「……スカラ?」
アルスが呟いた。
返事はない。
「スカラ!!」
身を乗り出そうとするアルスを、ミラが必死に引き戻す。
「ダメ!アルス!」
「離せ!」
「アルス!!」
「スカラが!!」
アルスはミラの腕を振りほどこうとした。
「まだ下にいるんだ!!」
「アルス!!」
「助けないと!!」
だが、目の前には黒い濁流しかなかった。
「スカラ!!」
アルスが叫ぶ。
「スカラァァァ!!」
何度も。
何度も。
喉が裂けるほど叫んだ。
けれど。
その声に、応える者はいなかった。
ただ、谷を埋め尽くす轟音だけが、いつまでも響いていた。




