第四十話 救世主
下流では海のようだったダルカ河も、今は緑深い峡谷を縫うように流れている。
両側から山が迫り、川の音が岩壁に反響する細い山道を進む。
「わぁ……」
アルスが頭上を見上げた。
何十メートルもある木々。
枝と枝が重なり、空は小さく切り取られている。
鳥の声。
虫の羽音。
川の音。
湿った土の匂い。
それまでの乾燥地帯とは、まるで別の国だった。
「すごい森だな……!」
「昔は、もっとすごかったらしいけど」
ミラが言った。
「昔?」
スカラが足を止めた。
「……焦げ臭い」
アルスも鼻を動かす。
確かに、湿った森の匂いに混じって煙が漂っていた。
「山火事?」
木々の隙間から、黒い煙が立ち上っている。
「違う」
スカラは煙の方角を見る。
「煙が一か所から上がっている。何かを燃やしているんだろう」
近くの橋を渡り、煙の元へ向かうと森が途切れた。
目の前に、斜面を削って作られた段々畑が広がる。その一角では、切り倒した木や枝が燃やされていた。
黒い灰が、風に舞う。
畑では一人の老人が雑穀を刈っていた。
「おや?」
三人に気づくと、額の汗を拭う。
「もしかして、首長様が遣わせた方たちか?」
ミラが通訳した。
「そうだって」
老人の顔が明るくなる。
「やっぱり!」
手を合わせた。
「この辺じゃ噂になってるよ!干ばつを何とかしてくれる救世主が来てるって!」
「……救世主?」
アルスが困った顔をした。
スカラは、話もそっちのけで畑へしゃがみ込み、土を指でつまんでいる。
「黒い灰が混じっている。この畑は、森を焼いて作ったのか?」
老人が頷いた。
「ああ。森を切って、焼いて、そこへ作物を植えるんだ」
「いつから?」
「ずっと昔からさ」
老人は鎌を置いた。
「何年かすると土地が痩せる。そうしたら、また別の森を焼く」
ミラが頷く。
「昔からある農業のやり方だよ」
「……そうか」
スカラは畑の向こうを見た。
山肌には、同じような段々畑がいくつも続いている。
その上にも、さらに上にも。
木を失った斜面が、所々で赤茶けた地肌をさらしていた。
「昔から、この規模だったのか?」
ミラは首を振った。
「ううん。こんなにたくさん焼くようになったのは最近だって」
「なぜ?」
老人は遠い村の方角を指した。その言葉をミラが訳す。
「シェンクゥへ売るために米を増やせと言われたから。谷底のいい土地は水田に回して、自分たちの分はここで作るんだと」
老人は続ける。
「昔より、塩も薬も買えるようになったし、鉄の農具も手に入って、暮らしは楽になったそうよ」
「……でも」
ミラは、切り株だらけの斜面を見た。
「もっと作れって言われるようにもなったと」
アルスが辺りを見回した。
残された森。
黒い畑。
その下を流れる川。
「……待って」
スカラとミラが振り向く。
「森がなくなったから」
アルスは足元を指した。
「雨が降っても、すぐ川へ流れちゃうんじゃない?」
スカラはアルスを見た。
「……試してみよう」
スカラは水筒を取り出した。
まず、森の中へ入る。
足元には、何年も積もった落ち葉の柔らかい土。小さな草や木の根が、びっしりと地面を覆っている。
スカラは水筒から、ゆっくりと水を注いだ。
水は落ち葉の間へ広がり、少しずつ姿を消していく。
「……染み込んだ」
アルスが呟いた。
スカラは落ち葉をよけ、指で土を掘った。中まで湿っている。
次に、焼かれたばかりの畑へ移動した。
急な斜面。むき出しの土。所々に黒い灰が積もっている。
同じ量の水を注ぐ。
すると。
「あっ!」
アルスが声を上げた。
水は一部しか染み込まず、灰を巻き込みながら斜面を走り始めた。
細い茶色の筋になり、下へ流れていく。
「土まで一緒に流れてる!」
アルスが追いかけた。
ミラもしゃがみ込む。
「……同じ水なのに」
スカラは畑の土を掘った。表面は濡れているが、少し下はまだ乾いていた。
「木の根や落ち葉がなくなると、雨を受け止めにくくなる場所がある。焼いた後の地表は、特に水が流れやすくなることもある」
スカラは森へ目を向けた。
「あの森は、雨が一気に流れ出すのを抑える役割を果たしていたのかもしれない」
「……どういうこと?」
アルスが尋ねる。
「雨が降れば、森の土にも水が染み込む。そこから少しずつ地下へ移動したり、川へ流れ出したりする」
森の地面を指した。
「だが、斜面を切り開けば、水が一気に流れ、土まで失うことがある」
ミラは、黒い筋が流れていった先を見る。その向こうには川があった。
「……だから、水が残らない?」
「原因の一つかもしれない」
スカラが答えた。
「森そのものが、水の流れを調節する大きな仕組みだったんだ」
アルスは遠くの森を見た。
「コタでは海を守って、ダルカでは水を守ってた……」
スカラは頷いた。
「森は、思っている以上に多くのものとつながっている」
アルスの顔が明るくなった。
「じゃあ、分かったじゃん!」
「何が?」
「森を焼くのをやめればいいんだ!」
だが、スカラは頷かなかった。
「簡単じゃない」
「なんで?」
「森が元に戻るには長い時間がかかる。それに、木を増やすだけで水不足が解決するとも限らない」
「でも、少しずつでも――」
「ねえ」
ミラだった。
「その少しずつって」
二人を見る。
「いつ?」
「……?」
ミラは老人を指さした。
老人は話が分からず、相変わらずにこにこ笑っていた。
「このおじいさん、今も畑で食べ物作ってる」
ミラは痩せた雑穀を見る。決して豊かな収穫ではない。
「森を焼くのやめろって言ったら、明日から何を食べるの?」
アルスは黙った。
「森を戻せば、何十年後には土地が良くなるかもしれない。それは分かるよ」
ミラは老人を見た。
「でも、その何十年後が来るまで、この人は何を食べて生きるの?」
風が吹いた。
灰が舞う。
「未来のために今を我慢しろって、今日食べるものがある人の言葉だと思う」
静かな声だった。
――正しいことって、お腹いっぱいの人が言うことじゃないの?
スカラは、以前ミラに言われた言葉を思い出した。
老人を見る。
日に焼けた顔。曲がった腰。固くなった手。この人は、今ここで生きている。
「……たしかに」
スカラは手の中の土を見た。
「正解を知ることと、その正解を選べることは違う」
黒い灰が、指の間から落ちていく。
「森を守れ、だけでは解決策にならない」
アルスが尋ねた。
「じゃあ、どうする?」
スカラは、畑と、その向こうに残る森を見る。
「二つ必要だ」
「二つ?」
「森を回復させる方法と」
少し間を置いた。
「森が戻るまで、この人たちが生きられる方法」
ミラが顔を上げた。
「……両方?」
スカラは頷いた。
「どちらか一つでは、たぶん駄目だ」
アルスも老人を見た。
「そっか……」
スカラは、遠くの峡谷を見上げる。
木々の隙間から、白い山々が覗いていた。太陽を浴びた雪の稜線が、空の中に浮かんでいる。
あの山に近づけば、水の流れをもっと広く調べられるかもしれない。
「……行こう」
スカラは荷物を持った。
老人へ別れを告げる。
「頼んだよ、救世主さん!」
老人は笑って手を振った。
ミラが訳すと、スカラは歩きながら呟いた。
「……だから、救世主ではない」
「いいじゃん」
アルスが笑った。
「期待されてるんだから」
「重い」
「そういうこと言うなよ!」
三人は再び、峡谷の奥へ歩き始めた。
だが、しばらくしてスカラが足を止めた。
「……?」
「どうしたの?」
返事はない。
スカラは、川を見つめていた。
さっきまで透き通っていた水。
その中に、細い枝が一本流れてきた。
続いて、もう一本。
さらに、緑の葉をつけたままの枝。
アルスも川を見る。
「……何か流れてきたね」
スカラは目を細めた。
上流を見ると、水の色がほんの少し濁っている。
「……おかしい」
「何が?」
「この辺りでは、雨は降っていない」
ミラが空を見上げる。
頭上には青空。雲は、ところどころに浮かんでいるだけだった。
その時。
ドン……。
谷のずっと奥から、低い音がした。
地面の底を叩くような、鈍い音。
アルスが顔を上げた。
「雷?」
スカラも空を見る。
青い空。
だが。
白い山々の向こうだけが、暗かった。
「……いや」
スカラは川へ目を戻した。
また一本。
今度は、人間の腕ほどもある枝が流れてきた。
「……上流で、何か起きている」
三人は顔を見合わせた。
その向こう。
峡谷の奥から、もう一度。
ドン……。
さっきより、近い。
スカラは短く言った。
「急ごう。高い場所へ」
だが、三人の行く手には、さらに深い谷が待っていた。




