第三十九話 兄妹の祭り
ダルカ河を遡り始めて、三日目。
景色が変わった。緑が少なくなり、土は赤茶け、風は乾いている。
中部の乾燥地帯に入ったようだ。
三人は、その地方にある小さな村で宿を取ることにした。
「ようこそ!」
村長は、驚くほど丁寧に三人を迎えた。
「長旅でお疲れでしょう。どうぞ、ゆっくりお休みください」
案内された家には、清潔な寝台が三つ。
「ベッドだ!」
アルスが飛び込んだ。
ぼふっ。
「柔らかい……!」
「ここから動きたくない」
ミラも隣へ倒れ込んだ。
スカラは荷物を置く。
「ダルカへ来てから、こんなに歓迎されたの初めてだね」
「それだけ期待されているんだろう」
「期待?」
「乾燥地帯にとって、干ばつはより深刻な問題だ。ここの首長は、私たちの調査に賛成した三人の一人だったのかもしれない」
スカラは窓の外を見た。
痩せた畑。
干上がった水路。
家の軒先には、わずかな保存食しか吊るされていない。
その時だった。
シャン。シャン。シャン。
遠くから、不思議な音が聞こえた。
「……何?」
アルスが起き上がる。
太鼓。笛。そして、歌声。
三人が窓へ駆け寄ると、村の広場には色が溢れていた。
赤、黄色、緑、青。
鮮やかな衣装をまとった人々が、大きな輪を作っている。
歌う人。
踊る人。
太鼓を叩く人。
子どもも老人も、みんな笑っていた。
「……祭り?」
アルスは驚いた。
道中、干上がった水路をいくつも見てきた。
この村だって、食料に困っているはずだ。
「こんな時に祭りするんだ」
「こんな時だからするんだよ」
ミラが答えた。
「来年は雨が降りますように。作物が育ちますように。家族が元気でいられますようにって」
広場を見つめる。
「そういう願いを歌って、踊って、神様に届けるの」
スカラも人々を見た。
踊ったところで、食料は増えない。
歌ったところで、水は湧かない。
それでも。
子どもが笑う。
老人が手を叩く。
隣の人間と、手を取り合う。
誰もが、明日を信じようとしていた。
スカラは、ふとミラを見る。
「……ミラは祈らないのか?」
「祈るよ」
意外にも、即答だった。
「じゃあ、今は何を願う?」
ミラは少し考えた。
「……明日も、ご飯が食べられますように」
そして笑う。
「それだけ」
スカラは答えなかった。
ミラは広場を見ながら、小さく歌い始めた。
「まだ夜明けは来ないけど、私は光を見る。そして神様に歌う。朝の鳥のように」
「……何それ?」
アルスが尋ねる。
「昔、教えてもらった詩」
ミラは少し恥ずかしそうに笑った。
「ほとんど忘れちゃったけど」
「大切な言葉なんだね」
アルスが言うと、ミラの笑みが少しだけ消えた。
「……まあね」
その時だった。
「ああ!いたいた!」
村の女性が駆け寄ってきた。
「金髪の旅人さん!」
「……私?」
「ちょっと来て!」
「なぜ?」
腕を掴まれ、そのまま家の中へ連れていかれる。
「スカラ?」
アルスとミラが顔を見合わせた。
数分後。
「……」
出てきたスカラを見て、アルスは目を丸くした。
「おお……!」
色鮮やかな布に、細かな刺繍。腕にはいくつもの飾り。
いつもの服とはまるで違う、ダルカの民族衣装だった。
「ほら!」
女性たちは満足そうだ。
「やっぱり似合う!」
「お人形さんみたい!」
スカラは自分の服を見下ろした。
「……着慣れない」
「かわいいじゃん!」
ミラが笑った。
「本当か?」
ほんの一瞬、スカラの声が弾んだ。
アルスがにやつく。
「へえ」
「……何だ」
「いや、別に」
そこへ村娘たちが集まってきた。
「わあ!お姫様みたい!」
「一緒に踊ろう!」
「待て」
あっという間に輪の中へ引っ張り込まれた。
音楽が始まる。
右手。
左足。
腰。
「……」
全然合わない。
「アハハハ!」
アルスが腹を抱えた。
スカラが睨む。
「何がおかしい」
「だって!すごい変!」
「どこが変なんだ」
もう一度。
腕。
脚。
腰。
なぜか、全部が違う方向へ動いた。
「アハハハ!」
ミラも笑いながら、横で踊ってみせる。
「考えすぎなのよ!」
「何を?」
「踊りを!」
「正確に再現しようとしている」
「そういうのが駄目なの!」
ミラは両腕を広げた。
「心で踊るの!」
「……心で?」
「そう!」
「具体的には?」
「だから考えないの!」
「矛盾している」
「もう!」
それでも、スカラは何度か踊ってみた。
まだぎこちない。
だが、少しずつ周囲の動きに合ってきた。
昼間、ミラが編んだ金色の髪が、ぴょんぴょん跳ねる。
アルスには、それがおかしくて仕方なかった。
「アハハハ!」
「アルス」
「何?」
スカラが手を伸ばした。
「見ているだけなのは不公平だ」
「……え?」
腕を掴む。
「来い」
「ちょっと待って!」
輪の中へ引きずり込まれた。
「俺も!?」
ミラが笑う。
「心で踊るの!」
「俺も分かんないよ!」
「アルスの方が私より下手だな」
「今まで変な踊りしてた人に言われたくない!」
三人の声が、祭りの音に溶ける。
曲が終わった。その時。
カァン――。
ひときわ大きな鐘が鳴った。
音楽が静かになり、人々が広場の中央へ集まっていく。
そこでは、一人の青年が少女の手首へ細い糸を結んでいた。
少女も、青年の腕へ糸を結ぶ。
「……何してるの?」
アルスが尋ねた。
ミラはその光景をじっと見つめた。
「兄妹とか、姉弟とか」
「うん」
「お互いが無事でいられますようにって、糸を結ぶの」
「へえ」
「ダルカの昔からの風習」
その声が、急に小さくなった。
アルスはミラを見る。
さっきまで笑っていた顔から、表情が消えている。
そして、気づいた。
ミラの袖から覗く古びた糸飾り。青年と少女が結んでいるものに、よく似ていた。
「……ミラ」
「何?」
「その糸……」
ミラの身体が固まる。
「今、結んでるやつと似てない?」
ミラはすぐに袖を引いた。
「古いだけ」
「でも――」
「関係ない」
立ち上がると、一人で広場を出ていった。
「ミラ……」
アルスが追いかけようとする。
だが、スカラが止めた。
「放っておいた方がいい」
「でも」
「本人が話したくなった時に聞けばいい」
アルスは少し驚いて、スカラを見た。
「……何?」
「いや、なんでもない」
祭りは、再び始まった。
――まだ夜明けは来ないけど、私は光を見る。
スカラは、ミラが歌っていた詩を心の中で繰り返した。
***
夜が更けても、祭りの音は消えなかった。
遠くで鳴る太鼓。時折混じる、鐘と歌声。
アルスはなかなか眠れず、宿の屋根へ上がった。
「あ」
先客がいた。
スカラが膝を抱えて座り、星を見上げている。
昼間、ミラが編んだ髪はまだそのままだった。
「珍しいね」
「何が?」
「スカラが、ぼーっとしてる」
「考えている」
「いつもじゃん」
アルスは隣へ座った。
二人で月を見る。
コタの月。シェンクゥの月。ダルカの月。
場所は違っても、同じ月だった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「ねえ、スカラ」
「何?」
「帰りたい場所ってある?」
「……帰りたい場所?」
「俺だったら、コタ」
アルスは膝を抱えた。
「ミラにも、たぶんあの村がある」
少し考える。
「フォンは……シェンクゥなのかな」
スカラは答えなかった。
「スカラは?」
「……」
「北の果て?」
「たぶん、違う」
「じゃあ、どこ?」
すぐには答えが返ってこなかった。
やがて。
「……分からない」
「またそれ?」
「仕方ないだろう」
スカラは少しむっとした。
「本当に分からないんだから」
袖をまくり、白い腕を見せる。
今は何も光っていない。
「自分が生まれた場所も」
アルスは黙って聞いていた。
「あの人が、本当は誰なのかも」
そして。
「この身体に、何が入っているのかも」
星明かりの下、スカラは自分の腕を見つめていた。
世界中のことを知っている少女。
海。病気。天気。機械。言葉。歴史。何を聞いても、答えを持っている。
なのに、自分のことだけは分からない。
アルスには、スカラが少しだけ小さく見えた。
「だったらさ」
「……?」
「帰りたい場所も、探せばいいじゃん」
スカラが振り向いた。
「場所は探すものなのか?」
「知らない」
アルスは笑った。
「でも、生まれた場所と帰りたい場所って、別かもしれないだろ」
空を見る。
「だから探そう。世界のこと調べる、ついでにさ」
「……ついでなのか」
「だって。大げさに言うと、スカラ嫌がるだろ」
少しの沈黙。
それから、スカラの口元がほんの少し緩んだ。
「合理的だな」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかぁ」
二人はまた空を見た。星は、数えきれないほどあった。
遠くで鐘が鳴る。祭りの歌は、まだ終わらなかった。
翌朝。
クックックッ。
鳩の声で、スカラは目を覚ました。
窓を開けると、昨日まで祭りで賑わっていた広場が、不気味なほど静かだった。
家の下に、一人の役人が立っている。
腕には伝書鳩。
「おはようございます」
スカラはすぐに外へ出た。
「朝早くから知らせ?」
役人が差し出した紙を開く。
目が止まった。
『国境付近で小規模な衝突。双方に死者。』
「……」
「スカラ?」
後ろからアルスが出てきた。
ミラもいる。
「どうしたの?」
紙を見せる。
アルスの顔が変わった。
「……本当に、始まったの?」
ミラも言葉を失った。
昨夜まで、誰かの無事を願う歌が響いていた。その同じ国で今、人間が人間へ武器を向けている。
スカラは紙を畳んだ。
「……急ごう」
村を出る頃には、人々の姿が変わっていた。
家財を荷車へ積む者。
子どもの手を引く母親。
家畜を連れて村を離れる老人。
昨日、色鮮やかな衣装で踊っていた男たちも、今は武器を手にしている。
「あ……」
アルスの足が止まった。
昨日、祭りの真ん中で、互いの手首へ糸を結んでいた兄妹。
だが今、兄の肩には一本の槍が。
妹は、その腕へしがみついている。
「絶対に無事で帰ってきて」
兄は何も言わず、ただ妹の頭を撫でた。
「……もちろん。心配するな」
その手首には、昨夜結ばれた糸が残っていた。
――お互いが無事でいられますように。
昨日は、祈りだった。
今日、その言葉は約束になっていた。
ミラが、無意識に自分の腕を押さえる。
古びた糸飾り。
それを見たスカラは、昨夜の詩を思い出した。
――まだ夜明けは来ないけど、私は光を見る。
夜は明けた。
なのに、昨日より世界が暗くなったように見えた。
「……行こう」
三人は北へ向かって歩き出した。




