第三十八話 太陽と雨と
牛の群れを抜けると、小さな町へ出た。
石畳の広場。その周りには、いくつもの茶店が並んでいる。
「休憩!」
アルスは椅子へ倒れ込んだ。
ミラが店主を呼ぶ。
「それ、三杯!」
そして、指を一本立てた。
「あ。よそ者だからってぼったくったら、首長様に言いつけるからね」
店主の顔が引きつった。
アルスが小声で言う。
「彼女、敵に回したくないね」
「何か言った?」
「何でもないです」
やがて、素焼きの器で白っぽい飲み物が三つ運ばれてきた。
アルスは恐る恐る口をつけた。
「……!」
爽やかな香りが鼻へ抜ける。
そのあとに、牛乳のまろやかさと、たっぷりの甘さ。
「おいしい!」
「チャイよ」
ミラも飲む。
「牛乳で茶を煮出して、砂糖を入れるの」
スカラも一口。
「この国では旧文明の頃から茶の栽培が盛んだったらしい」
「へえ」
「茶は気候と標高によって――」
アルスが止まった。
「ちょっと待って」
「何?」
スカラの手を見る。
赤い串。
「それ!」
「?」
「市場で食べたやつじゃん!」
「そうだ。ちょうど売っていた」
もぐもぐ。
「また食べてるの!?」
「別に問題ない」
「辛くないの?」
「全然」
数秒後。
「……ごほっ」
顔が赤い。
「無理してるじゃん!」
「むせただけだ」
「真っ赤だよ!」
「カプサイシンには中毒性があるな」
「話そらした!」
ミラがため息をつき、自分のチャイを差し出した。
「ほら、飲んでみなよ」
スカラが受け取る。
ごくり。
目が少し開いた。
「……本当だ」
「でしょ?」
ミラが得意げに笑った。
「これも本にない知識?」
「……知ってはいた」
「負けず嫌い」
その時。
ぽつん。
アルスの鼻に、何かが当たった。
「……雨?」
ぽつん。
ぽつん。
ミラが空を見上げた。
「……本当だ!」
その顔が、ぱっと明るくなる。
「雨!」
乾いた石畳に、小さな黒い染みができた。
一滴。
二滴。
やがて。
ざあああああ――!!
空が、一気にほどけた。
「すごい!」
アルスは屋根の外へ飛び出した。
雨が道を濡らし、家々の屋根から水が流れ落ちる。
町中から人々が出てきた。
器を持ち出す者。
空へ手を伸ばす者。
子どもたちは裸足で駆け回っている。
干ばつに苦しむダルカに、久しぶりの雨が降ったのだ。
「ねえ!」
ミラがアルスを見る。
「水浴びしよう!」
「いいね!」
二人は雨の中へ駆け出した。
「スカラも!」
「私はいい」
「なんで?」
「濡れるだろ」
「水浴びなんだから当たり前だよ!」
スカラは軒下へ下がった。
「私はここで――」
右腕をミラ。
左腕をアルス。
「……え?」
「せーの!」
「やめろ!」
ざああああ!
全身に雨が叩きつけた。
「……!」
「アハハハ!」
ミラが笑う。
「スカラ、びしょびしょ!」
「ハハハ!本当だ!」
「お前たちが引っ張ったんだろ!」
スカラは睨んだ。
だが、雨粒が頬を伝う。
ミラが水を蹴った。
ばしゃっ!
泥水がアルスにかかる。
「やったな!」
アルスも蹴り返す。
ばしゃっ!
今度は、スカラに直撃した。
「……」
二人が止まった。
「ス、スカラ?」
スカラは足元を見た。
そして。
ばしゃぁっ!!
思いきり水を蹴り上げた。
「うわっ!」
「スカラ!」
「倍返しだ」
「やっぱ負けず嫌い!」
三人は笑った。
水不足は解決していない。戦争も近づいている。それでも、この瞬間だけは空から降ってきた雨が、ただ嬉しかった。
「これだけ降れば、田んぼも元気になるね!」
アルスが笑う。
「うん!」
ミラも顔を輝かせた。
「きっと、そうよ!」
スカラは空を見上げた。
激しい雨。濁った水が、石畳を流れていく。
その流れはどんどん速くなり、広場の隅にある排水溝へ吸い込まれていった。
スカラは、その水を目で追った。
***
雨は、驚くほど早く止んだ。
雲が流れると、強烈な太陽が戻ってくる。
「あっつ……」
アルスは濡れた服を引っ張った。
町外れの城壁へ移動し、三人は日なたで服を乾かした。
スカラが金色の髪を絞っていると、後ろからミラが手を伸ばした。
「じっとして」
「何?」
「髪」
ミラが指を通す。
「自分でできる」
「知ってる」
指が器用に動き、金色の髪が一本ずつ編み込まれていく。
「なら、なぜやる?」
「やってあげたいから」
「……?」
「意味なんてないよ」
ミラが笑った。
「スカラの髪、きれいだね」
スカラの目が、少しだけ動いた。
遠い記憶。誰かの指が、同じように髪へ触れている。
――きれいな髪。
声は覚えている。
だが、顔はぼんやりしていた。
いつ。
どこで。
誰に。
それでも、髪を梳かれる感触だけは覚えている。
心地よかった。
「できた!」
ミラが肩を叩いた。
スカラは我に返る。
アルスが覗き込んだ。
「おお!」
「……変?」
「いや、似合ってるよ」
「……そう」
スカラは髪へ触れた。
「悪くない」
「素直じゃないなぁ」
「気に入ったなら、そう言えばいいのに」
「二人とも、うるさい」
城壁の端へ腰掛けると、眼下の大河を眺めた。
さっきまで雨が降っていたのに、少し離れた畑では、早くも土の表面が乾き始めている。
「あれ?」
アルスが立ち上がった。
「……おかしくない?さっき、あんなに雨が降ったのに、もう乾いてる」
ミラも畑を見た。
土はところどころ濡れているが、表面には細い亀裂が残っている。
アルスが川を指さす。
「しかも、あんなに水がある!」
目の前には、岸が霞むほどの大河。
そして、雨が降ったばかりの畑。
「じゃあ、ダルカの水って、どこに消えてるの?」
スカラは、広場へ続く坂道を見た。
雨水が流れた跡が、細い泥の筋になっている。
「さっき、雨が降った時」
「うん」
「水が道を流れていただろう」
「そうだけど……」
「雨が降っても、その場に残るとは限らない。土へ染み込む前に川へ流れたり、暑さで蒸発したりする」
アルスは畑を見た。
「……じゃあ、降るだけじゃ駄目なの?」
「必要な時まで、水を残す仕組みがいる」
ミラが顔を上げた。
「あるよ」
「何が?」
「ダルカにも、そういう場所」
そして立ち上がった。
「ついてきて!」
***
町の中を少し歩く。
そこにあったのは、大地へ開いた巨大な穴だった。
「……何これ」
アルスは縁から覗き込んだ。
地下深くまで続く階段。
ただの階段ではない。
左右から幾何学模様のように無数の段が折り重なり、まるで巨大な織物を、大地へ沈めたようだった。
壁には神々や動物、花の彫刻。
何世代もの人々が、この場所を大切に使ってきたことが分かる。
三人は階段を降りていく。
一段。
また一段。
下へ行くほど、空気が変わった。
「……涼しい」
アルスが呟く。
「階段井戸だ」
スカラが壁を見た。
「本で読んだことがある」
「井戸なの?」
「そう」
ミラが頷く。
「地下水を汲むための場所よ。雨季には水位が上がることもあるし、昔は水を貯める仕組みも一緒に使っていたんだって」
アルスは階段を降りながら壁を見上げた。
「すごい……。こんなの、どうやって作ったんだろう」
「何世代もかけて、改修を重ねたのかもしれないね」
スカラが答える。
「夏はみんな、ここで休むの」
ミラが笑った。
「外より涼しいから」
最下部へ近づくと、暗い井戸の底に水面が見えた。
だが。
「……遠いな」
アルスが呟いた。
まだ何段も下にある。
ミラも覗き込む。
「今は、どこもこんな感じ」
「昔は?」
「もっと上まで水があったって聞いた」
スカラは壁を見上げた。
古い水位の跡が、今の水面よりずっと高い場所に残っている。
「……地下水位が下がっている」
アルスが振り返る。
「でも、さっき雨が降ったよ?」
「一度の雨で、すぐに戻るものではない。地下へ染み込み、ここまで届くには時間もかかる」
「じゃあ、どうするの?」
ミラは簡単に言った。
「水が足りなくなったら、もっと深く掘るの」
「……掘る?」
「うん。井戸を深くすれば、また水が出ることもあるから」
スカラは黙った。
川には、大量の水が流れている。雨も降る。
それでも、地下の水は減り続けている。
使う水の量。田の広がり。地面へ染み込む水。すべてが関係しているのかもしれない。
だが、まだ全体が見えない。
「……何かが足りない」
スカラが呟いた。
「何が?」
アルスが尋ねる。
「情報だよ」
スカラは水面を見た。
「今ここでどれだけ水を使っているのか。それに、昔はどれだけ水があったのか」
その時。
「スカラ様!アルス様!」
地上から声がした。
三人が見上げると、眩しい日差しの中に一人の役人が立っていた。
腕には、伝書鳩。
「……また?」
アルスが顔をしかめる。
「シェンクゥでもダルカでも、ずっと見張られてるな」
「皆さんの安全のためです」
役人は苦笑した。
そして、鳩の足から外した小さな紙を差し出す。
スカラが開いた。
短い文章。
『シェンクゥ軍、国境へ集結。越境は確認されず』
「……」
ミラの顔が強張った。
「戦争が始まるの?」
「まだだよ」
アルスが答えた。
「国境は越えてないんだろ?」
「今は、な」
スカラは紙を畳んだ。
目の前には、古い階段井戸。
かつては豊かな水が溜まっていた場所。
今は、水面まで長い階段が続いている。
「……行こう」
スカラが歩き出した。
「侵攻が始まれば、時間はもっと少なくなる」
アルスとミラも、その背中を追いかけた。
三人は再び、大河の上流を目指した。




