第三十七話 大河を遡る
「……これ、本当に川?」
アルスは船着き場で立ち尽くした。
目の前いっぱいに水が広がっている。右を見ても、左を見ても、向こう岸が霞んで見えない。
川の真ん中には、大きな島まで浮かんでいた。
「海みたいだ……」
「ダルカ河の本流だからね」
ミラは、何を今さらという顔をした。
「下流はもっと広いよ」
「これより!?」
アルスは目を丸くした。
コタで育ったアルスにとって、海は見慣れたものだった。だが、海ではない水がこれほど遠くまで広がっているのは不思議だった。
「……こんな大きな川にも、最初があるんだよね」
「当然だろう」
スカラが荷物を抱えて答える。
「どんななんだろ」
「何が?」
「最初の一滴」
アルスは上流を見た。
「こんなでっかい川の、一番最初」
ミラも北を見上げた。
「ずっと先よ。世界の屋根って呼ばれる大山脈」
「世界の屋根……」
「私たちは神々が住む山って呼んでる」
アルスの目が輝いた。
「すごそう!」
「なんで嬉しそうなの?相当過酷よ。首長たちですら地図を持ってないんだから」
アルスは足元の水を見た。
これだけの水があるのに、ダルカでは人々が水を奪い合っている。
「……そこまで行けば、水不足の理由も分かるのかな」
スカラは答えなかった。
やがて小舟の帆が上がり、三人を乗せて岸を離れた。
水面には、眩しいほどの日差しが揺れていた。
熱い風が頬を抜ける。
川岸では水牛が泥に首まで浸かり、その背中に小さな白い鳥が止まっていた。
「あの鳥、何してるの?」
「水牛の身体についた虫を食べてるんだろう」
スカラが答える。
「へえ……」
「ああいう関係を――」
「飛んだ!」
「……聞け」
アルスは次から次へと景色を指さした。
船とすれ違えば手を振り、川に浮かぶ島を見つければ歓声を上げる。
その時だった。
バシャァン!
「うわっ!」
船のすぐ横で、水面が大きく盛り上がった。
巨大な尾が現れ、水中へ消える。
「今の何!?」
「ナマズよ」
ミラが答えた。
「ナマズ!?でかすぎない!?」
「雨季にはもっと大きいのもいるわ」
スカラも川面を見る。
「種類によっては、私の身長ほどまで成長する」
「そんなでかい魚が!?」
「まだまだね」
ミラが得意そうに笑った。
「私、もっと大きいの見たことあるよ」
「どれくらい?」
ミラは頭の上に手を置いた。
「私くらい!」
スカラが振り返る。
「……それなら、私が言った方が大きい」
「何で?」
「私の方が背が高い」
ミラが隣に並んだ。
二人の頭の位置は、ほとんど同じ。
アルスが見比べる。
「一緒じゃん」
「私の方が高い」
「私だって!」
「髪の膨らみを除けば――」
「何の勝負だよ!」
アルスが吹き出した。
二人はまだ睨み合っていた。
船が大きな中州を回り込んだところで、船頭が舵を切った。
「……あれ?」
アルスが前を指さす。
「向こうの方が近くない?」
中州の反対側には、広々とした水面が続いている。だが船頭は、わざわざ狭い水路へ入ろうとしていた。
ミラが尋ねると、船頭は苦笑した。
「昔はあっちが本流だったんだ」
「……昔?」
アルスが聞き返す。
「ああ。船が何十艘も並んで通れた。今じゃ底が浅くて、大きな船は腹を擦っちまう」
アルスは広い水面を見た。
「こんなに水があるのに?」
「上から運ばれてくる土砂も増えたからな」
船頭は上流を指した。
「昔はなかった中州が、この十年でいくつもできた。向こうに見える島だって、昔は水の底だったんだぜ」
アルスは目を凝らした。
確かに島の一部には草が生え、その周囲には浅瀬が広がっている。
「……川って、変わるんだ」
「生き物みたいなもんさ」
船頭は笑った。
「毎年、同じ場所を流れてくれるとは限らん」
スカラは、水の流れを見つめていた。
川幅。
中州。
水の色。
運ばれてくる土砂。
「……上流で何かが変わっているのかもしれない」
「何が?」
アルスが尋ねる。
「まだ分からない」
スカラは北を見た。
「確かめる必要があるね」
しばらくすると、再び川は広くなった。
行き交う船。水際で洗濯をする人々。水牛を連れて歩く子どもたち。遠い岸辺からは、聞いたこともない歌が風に乗ってくる。
アルスは船縁に顎を乗せた。
戦争を止めるための水源を探す旅に、残された時間はたった一か月。
それでも。
川はどこまでも広かった。
知らない生き物。知らない匂い。知らない言葉。
一本の川の先にだって、まだ知らない世界があるんだ。
アルスは、いつまでも水面を眺めていた。
ようやく対岸の船着き場へ着くと、勢いよく岸へ降りる、
「行こう!」
だが、先頭を歩いていたスカラが立ち止まった。
「……足止めだ」
目の前には、牛。
牛。
牛。
牛。
道いっぱいに、数十頭の牛が広がっていた。
寝ている牛。
草を食べている牛。
尻尾を振っている牛。
こちらの都合など、まるで気にしていない。
「……全然進めないね」
「迂回するか」
「そっちだと、かなり遠回りよ」
ミラが言った。
そして、スカラの顔を覗き込む。
「本には書いてなかった?」
「何が?」
「牛のどかし方」
「……うるさい」
ミラは笑うと、道端の長い草を一本引き抜いた。
ピーッ。
口笛を吹き、牛たちの間へ入る。
「ほら。ほら」
草で地面を軽く叩き、ゆっくりと牛を誘導する。
モォォ。
一頭が動く。
また一頭。
少しずつ、道が開いていった。
「すごい!」
アルスが声を上げた。
「牛が言うこと聞いてる!」
「こんなの毎日一緒に暮らしてたら分かるって」
「へえ……」
スカラは黙って歩き出した。
「……悔しいの?」
ミラが尋ねる。
「違う」
「負けず嫌い」
「牛の行動を予測するのは難しいと言っているだけだ」
アルスがすかさず言った。
「人間もでしょ?」
スカラは何も答えなかった。
ミラが吹き出す。
「アハハ!」
「何がおかしい」
「別に?」
「笑っただろ」
「さあ?」
今度はミラが先頭を歩く。
スカラが、その背中を少し不満そうに追いかけていた。
アルスは思った。
この二人、案外気が合うのかもしれない。
その時。
「……あれ?」
道の脇に、一艘の舟があった。
ただし、水の上ではない。
ひび割れた泥の真ん中に、古びた舟が取り残されている。
「……なんであんなところに?」
ミラが答えた。
「昔は、あそこまで川だったから」
「……え?」
アルスは振り返った。
ついさっき渡ってきた大河。向こう岸が霞むほどの水。そこからずいぶん離れた場所に、舟が残されている。
「昔は、ここも?」
「うん。船着き場だったんだって」
近くには、朽ちた木の杭が何本も地面へ突き刺さっていた。
舟を繋ぐための杭だ。
アルスは言葉を失った。
「……川って、こんなに小さくなるものなの?」
スカラは、ひび割れた泥へしゃがみ込んだ。
手で触れると、指先に乾いた土が崩れた。
「川の流れる場所は変わる。だが……」
先ほど船頭が話した、新しい中州。
浅くなった水路。
そして、ここに取り残された舟。
「……何かが起きているのは確かだ」
スカラが立ち上がる。
「行こう」
「何か分かった?」
「いや」
首を振った。
「だから、確かめる」
三人は再び、川を遡り始めた。
遠くには、まだ青い山並みさえ見えない。
大河は広い。
それなのに、土地からは水が消え始めている。
その理由は、まだ誰にも分からなかった。




