第四話 オオカミ岩の正体
ゴオオオオン……。
雨と波しぶきの向こうから、腹の底を震わせるような音が響いた。
「……遠吠え!?」
アルスが顔を上げる。
暗闇の奥に、巨大な影があった。
ゴオオオオン――!
再び轟音。
その瞬間、稲妻が空を切り裂いた。
「……っ!」
光に照らされたのは、百メートルはあろうかという異形の岩だった。
巨大な胴体。
そこから海へ伸びる、四本の太い柱。
まるで、四つ脚で海に立つ巨大な獣。
波が柱の間へ打ち寄せるたび、その腹の奥から不気味な音が響いた。それはまるで暗い海の真ん中で、巨大なオオカミが吠えているよう。
「……これが、オオカミ岩」
アルスが息を呑んだ。
「何度見ても不気味なもんだな……」
アグレオも顔を強張らせている。
だが、スカラだけは熱心に岩の細部を観察している。
波に削られた白い表面の下に、規則正しく並ぶ金属の骨組みが覗いているのを見つけた。
「あれは……」
かすかに、文字のようなものが見えた。
だが、雨と暗闇に遮られ、読み取れない。
「スカラさん?」
「ん?」
「……怖くない?」
スカラは本気で分からない顔をした。
「なぜ?」
「……いや、だったらいいんだけど」
アグレオは波の動きを見計らい、岩場へ飛び移った。荒縄を岩に回し、舟をしっかり固定する。
「さあ、急いで上がれ!もっと波が高くなるぞ!」
アルスも岩場へ移ると、スカラへ手を伸ばした。
「スカラさん、こっち!」
返事がない。
スカラは舟の上に立ったまま、黒い水面を見つめていた。
「どうしたの?」
アルスは少し考え、はっと気づいた。
「……もしかして、水が怖いの?」
「いや」
スカラは真剣な顔で答えた。
「落水した場合の生存確率を計算している」
「泳げないの?」
「一通りの泳法は知っている」
「うん」
「ただし、実際に泳いだ経験はない」
「それ、泳げるって言わないよ!」
スカラは少し考えた。
「……そうなのか?」
アグレオが吹き出した。
「なんだ嬢ちゃん、かわいいところあるじゃねぇか!」
「何がおかしい?」
「いいから、早くこっちへ!」
アグレオが舟と岩場の間に足をかけ、揺れる船体を押さえた。
アルスがもう一度、手を伸ばす。
「大丈夫。絶対に離さないから」
スカラがアルスを見る。
「……絶対だな?」
「うん!」
アルスは力強く頷いた。
「海じゃなくて、俺を見て」
スカラの視線が、水面からアルスへ移る。
「いくよ。三、二、一――飛べ!」
波で舟が持ち上がった瞬間、スカラは船縁を蹴った。
アグレオが背中を押す。
伸ばされた手をアルスが掴んだ。
「うわっ!」
勢いよく飛び込んできたスカラを、アルスは両腕で受け止めた。二人はよろめきながらも、なんとか岩場に踏みとどまる。
「やったね!」
「……恩に着る」
「さあ、上へ行こう!」
アグレオが先を急かす。
スカラは立ち上がり、そっとアルスの手を離した。
その時だった。
袖の下で、腕に浮かぶ光の輪が淡く脈打った。
一本だった輪が、二本に増えている。
「……?」
一瞬、妙な感覚がした。
初めて訪れたはずの場所なのに、どこか懐かしい。
いや、違う。見たことがある。
そんなはずはない。スカラは顔を上げた。
流れる黒雲に隠された、オオカミ岩の頂。
そこには確かに、ホットスポットの反応がある。
そして、ここで何人もの漁師が姿を消している。
「……オオカミが生きられる環境ではない」
スカラの目が、わずかに細くなった。
「なら、彼らが見たものは何だ?」
***
三人は、オオカミ岩を登り始めた。
ほぼ垂直の岩壁には、誰かが登り降りするためなのか、一定の間隔で小さな足場が刻まれている。
「二人とも、急がなくていい!慎重に行くぞ!」
先頭のアグレオが叫ぶ。
「はぁ……はぁ……」
アルスは顔を上げた。目の前で金色の髪が揺れている。
「スカラさん、登れる?」
「問題ない。両手両足のうち三点を固定し、重心を移動させれば――」
「それ以上は大丈夫!」
「そっちこそ大丈夫か?」
「え?」
「高い所が怖いんだろう?」
図星だった。
真下には荒れ狂う海。見下ろせば、さっきまで乗っていた小舟が豆粒のように小さく見える。
落ちたらどうなるか。想像するだけで足がすくんだ。
「そ、そんなわけないっしょ!」
男としての意地が、口を勝手に動かした。
「なぜ隠す?高所を怖がるのは人間が進化の過程で獲得した――」
「本当に怖くないんだってば!」
アルスは慌てて話題を変えた。
「そ、そういうスカラだって、水怖がってたじゃん?」
「怖くはない。泳法は知っている」
「でも泳いだことないんだよね?」
「知識はある」
「じゃあ今度、俺とどっちが速いか競争する?」
「いいだろう。負ける理由がない」
アルスは思わず笑った。
「スカラさんって、意外と負けず嫌い?」
「違う。事実を言っているだけだ」
その真剣な顔がおかしくて、アルスはまた笑った。
不思議な子だ。
何でも知っているくせに、時々、子どもでも分かるようなことを知らない。
「ねぇ、スカラさん」
「なんだ?」
「なんで父さんを助けに来てくれたの?」
スカラが振り返った。
「……?」
「浜から舟まで、結構距離があったよ。溺れてもおかしくないのに、どうして見ず知らずの俺たちを助けようと思ったの?」
スカラは少し考えた。
「私が溺れる可能性と、アグレオが死ぬ可能性を比較した」
そして、ごく当たり前のことのように続けた。
「その結果、助けるべきだと判断した。それだけだ」
「……そっか」
アルスは目を瞬いた。
「スカラさんって、勇気があるんだね」
「勇気?」
スカラがその言葉を繰り返す。
「そうだよ。怖くても、誰かのために行動できるってこと」
「……怖くても?」
「うん。俺なんか、さっきヤシの木に登るだけで死ぬほど怖かったもん」
「でも登っただろう?」
「父さんを助けたかったからね」
スカラは黙った。
恐怖を感じているのに、なぜ危険な行動を選ぶのか。
その説明は、まだうまく理解できなかった。
その時。
「うおおおおっ!」
頭上から悲鳴が響いた。
「父さん!?」
アグレオが足をかけたツルが、ずるりと岩から剥がれた。
巨体が傾く。
「うわああっ!」
寸前で岩の突起を掴み、なんとか踏みとどまった。
足元では白波が砕け、遥か下の小舟が枯れ葉のように揺れている。
「ちょっと父さん!集中してくれよ!」
「すまんすまん!」
「全然すまなそうじゃない!」
アグレオが豪快に笑う。
その様子を見て、スカラはまた首を傾げた。
怖いと言いながら、笑っている。
人間とは、本当によく分からない。
それから三十分ほど登り続け、三人はようやく岩棚へたどり着いた。
「はぁ……やっと着いた……」
アルスは息を切らしながら立ち上がり、目の前の光景に息を呑んだ。
「……なんだ、これ!」
そこには、広大な平地が広がっていた。
白い地面は不自然なほど平らで、ところどころに錆びた鉄の柱が突き出している。
「おいおい……この岩棚、真っ平らじゃねぇか!」
アグレオも目を丸くした。
「まるで、人間が造ったみたい……」
アルスが呟く。
「そうだ」
スカラが静かに頷いた。
「これは自然の岩礁じゃない」
「え?」
「旧文明人が海底から資源を採取するために造った、海洋プラントだ」
「これを……人間が造ったの!?」
アルスの目が輝く。
「内部は巨大な鉄骨で支えられている。表面の白い層は、長い年月をかけて海鳥の糞が堆積し、変質したものだ」
「すごい……!」
「旧文明人ってのは、一体どんな連中だったんだよ……」
アグレオが呆然と見回す。
スカラは崖の縁へ歩き、遠くに霞む火山島と光の地図を見比べた。
「海岸線は多少変化しているが……位置関係はおおよそ一致するな」
その時だった。
袖の下で、腕の輪が淡く脈打った。
一本、二本。そして、三本目の光が浮かび上がる。
「……?」
一瞬、頭の奥に奇妙な感覚が走った。
目の前に広がる白い地面。
錆びついた鉄骨。
初めて訪れた場所のはずなのに、どこか懐かしい。
いや、違う。ここを、知っている。
そんなはずは――。
ドンッ!
閃光が走った。
白い世界が、一瞬だけ昼のように明るくなる。
バチバチッ!
むき出しの鉄骨から火花が散った。
遅れて、耳をつんざく雷鳴。
「うわっ!」
アルスが身をすくめる。
スカラは我に返ったように顔を上げた。
「そういえば、ここで何人か行方不明になったと言っていたね」
「あ、ああ……」
アグレオが声を潜める。
「一人だけ運よく帰ってきたヤツがいてな。そいつの話じゃ、不気味な光がいくつも浮かんだ後、黒いオオカミの群れに襲われたらしい」
「不気味な光?」
スカラが周囲を見る。
「例えば――」
暗闇の中。
ぼうっ。
青白い光が浮かび上がった。
一つ。
また一つ。
まるで、誰かが松明を持って歩いているように、光がゆっくりと動いている。
「……こんな感じか?」




