第三話 北の果てへ
黄昏の海へ、一艘の帆掛け船が漕ぎ出した。
水平線へ沈み始めた太陽が、海を黄金色に染めている。船は噴煙を上げる巨大な火山島を横目に、ゆっくりと北へ進む。
「世界の北の果てねぇ」
すっかり顔色を取り戻したアグレオが、帆を見上げながら言った。
「そこへ何しに行くんだ?」
「ある人との約束がある」
「ある人?」
アルスが身を乗り出す。
「どんな人なの?」
スカラは答えなかった。
夕陽が波間で砕け、黄金色の光が揺れている。
その光を見つめているうちに、遠い記憶が浮かび上がってきた。
――スカラ。
あの人の声がする。
―― ――本を全部読み終えたら、北の果てで会おうね。
「行ってしまうの?」
――ええ。少しのお別れ。
「待って」
あの人は笑った。
――大丈夫。
――きっと“知識”が、あなたを導いてくれるはず。
だから、学んだ。
もう一度、あの人に会うために。
何千年分もの知識を読み、三千の言葉を覚えた。
海の向こうにある国々のことも、夜空を巡る星のことも、人間の体が生きる仕組みも。
知ることのできるものは、すべて知ろうとした。
それなのに。
あの人が残した言葉の意味だけは、どの本にも書いていなかった。
どうしたら私は、あなたの心に触れられるのだろう。
***
「スカラさん?」
気づくと、目の前にアルスの顔があった。
「なんで泣いてるの?」
「私が?」
頬に触れると、指先が濡れていた。
「涙……?」
スカラは指先の雫を見つめた。
目に異物は入っていない。痛みもない。
涙が出る理由が、どこにも見当たらなかった。
「……まさか。ありえない」
西の空へ顔を向けた。
「西日が眩しかっただけだ」
「嘘だー!今、絶対泣いてたって!」
ゴン!
アグレオの拳骨が、アルスの頭に落ちた。
「いてっ!」
「アルス!お前は乙女心が分かってなさすぎる!」
「乙女心?」
「大切な人を思い出して、寂しくなったんだろうよ。人間ってのはな、そういう思い出をギュ~ッと抱きしめて生きてるもんだ」
「そんなの分かんねぇよ!」
「お前も少しは勉強しろ!」
「そういう父さんこそ、母ちゃんに逃げられて――」
「海に落とすぞ?」
アルスは慌てて口をつぐんだ。
親子が騒ぐ横で、スカラだけが首を傾げていた。
「一つ、聞いてもいいか?」
「ん?」
「思い出を抱きしめるとは、どういう意味だ?」
「そこから!?」
アグレオは頭を掻いた。
「そうだなぁ……会いたいと思う人はいねぇか?」
スカラは黙った。
「その人のことを思い出すと、嬉しくなったり、寂しくなったりするだろ?」
「……分からない」
「だろうなぁ」
アグレオは困ったように笑った。
「そういうのは、言葉にするのが難しいからな。まあ、だから余計に忘れられねぇんだろうけど」
スカラは、もう一度あの人を思い浮かべた。
声も、交わした言葉も、覚えている。
何度でも、正確に思い出せる。
なのに。
三千の言葉を知っているのに、頬を伝ったものの理由だけが分からない。
スカラは胸に手を当てた。
あの人の声を、もう一度聞く。
そのために北へ向かう。
理由は、それだけのはずだった。
それなのに、どうして涙が出るのだろう。
その時だった。
ゴロゴロ――。
遠い空に稲光が走った。
スカラが顔を上げる。
黄金色だった海の向こうに、いつの間にか黒い雲が広がっていた。
アグレオの顔から笑みが消えた。
「……まずいな」
「何が?」
アルスが尋ねる。
アグレオは答えず、頭上の帆を見上げた。
風が、止まっていた。
「帆を畳め!」
アグレオが叫んだ。
「アルス、早く!」
「え?」
先ほどまで止まっていた風が、突然逆向きに吹き始めた。しかも、妙に冷たい。
アルスが空を見上げる。
見る間に海面に白波が立ち、小さな舟が大きく揺れ始めた。
「漁師の勘というやつか。本当に当たるんだな」
感心するスカラをよそに、アグレオは険しい顔で空を睨んでいた。
「よりによって、こんな島切れの“荒場”で……」
「荒場?」
「ここから先は、しばらく島がねぇ。風も波も遮るものがない。ひとたび荒れりゃ、一気に持っていかれる」
スカラも空を見上げた。
黄金色だった空は、いつの間にか鈍色に変わっていた。黒い雲が、巨大な鳥の群れのように空を埋め尽くしていく。
バシィィン!
閃光が走った。
ほとんど同時に、目の前の海面が爆発した。
「うわっ!」
大粒の雨が降り始める。
無数の雨粒が海面を叩き、白いもやとなって視界を奪っていった。
「くそっ!舟が流されてやがる!」
アグレオが必死に舵を取る。
「近くに避難できる島は?」
スカラが尋ねた。
「全力で漕いでも一時間はかかる!しかも、この雨じゃ方角も分からねぇ!」
再び稲光が走った。
スカラは袖をまくった。
白い腕に、一本の光る輪が浮かび上がる。
「……こんな海の上にホットスポットが?」
指を動かすと、何もない空間に光の額縁が現れた。その中に、島々の地図と現在地が映し出される。
「スカラさん……それって魔法!?」
アルスが目を丸くした。
「魔法?」
スカラは不思議そうに首を傾げる。
「魔法なんてあるわけないだろう。旧文明では誰もが使っていた技術だよ」
「旧文明って……?」
「説明は後だ」
スカラは地図を拡大した。
現在地を示す光点の西に、小さな岩礁が浮かび上がる。
「西に岩礁がある。ここなら波を避けられるかもしれない」
アグレオが地図を覗き込み、顔色を変えた。
「……おい。それって、オオカミ岩じゃねぇか?」
「オオカミ岩?」
「ダメだ!そこだけは絶対にダメだ!」
「なぜ?」
アルスが青ざめた顔で答えた。
「そこには、人食いオオカミが棲んでるんだよ」
「岩礁にオオカミ?」
スカラは即座に首を振った。
「ありえない。この面積では、群れを維持するだけの食物が確保できない」
「迷信じゃねぇぞ!」
アグレオが怒鳴った。
「この辺の漁師が何人も行方不明になってるんだ! あそこへ近づいたきり、二度と帰ってこなかった!」
「そうだよ!村の人たちも、絶対に近づくなって!」
その間にも、舟は沖へ押し流されていた。
ドン!
巨大な波が船体を横殴りにする。
「うわあっ!」
アルスが船縁にしがみついた。
スカラは地図を見た。
オオカミ岩までの距離。風向き。波の高さ。
そして、目の前で怯える二人。
「……このままでは舟がもたない」
「だからって、あそこは――!」
「他に選択肢はない。今すぐ向かうべきだ」
「ちくしょう……!」
アグレオは歯を食いしばったまま、決めきれない。
その時。
スカラの指先に、小さな電光が走った。
最悪の場合、二人の意識を失わせてでも、舟を岩礁へ向かわせる。
恐怖で判断を誤るくらいなら、行動できなくした方がいい。
二人の意思より、生存確率を最大化することが優先だ。
それが、最適解。
「俺は大丈夫だよ!」
突然、アルスが叫んだ。
「父さん!俺、オオカミなんかに負けないから!」
その声は震えていた。
それでも、アルスはスカラを見た。
「スカラさんも心配しないで。絶対、守るから!」
「アルス……」
アグレオが息子を見た。
やがて、ニッと笑う。
「なんだよ。お前も立派なこと言えるようになったじゃねぇか!」
拳でアルスの肩を小突くと、オールを握り直した。
「よっしゃ! オオカミでも何でもかかってきやがれ! コタで一番の腕力で首の骨へし折ってやる!」
スカラは指先の電気を消した。
計算した結果は変わっていない。だが、二人は自分たちで同じ答えを選んだ。
「では、避難で意見はまとまったな」
「おう!」
「私の指す方向へ漕いで」
小舟は大きく向きを変えた。
黒い波が次々と襲いかかる。
アグレオは巧みに船首を波へ向け、アルスも必死にオールを動かした。
なぜ、そんな小さな岩礁にオオカミがいるのか。
なぜ、近づいた人間は二度と戻らないのか。
食物も、水も、隠れる場所さえほとんどないはずの岩礁。そこに、何があるのだろう。
スカラは光の地図を見つめた。
そして、黒い雨の向こうへ、進むべき方角を指し示した。




