第二話 アルスとの出会い
「父さん!」
アルスの叫びが、青い海に響いた。
ついさっきまで元気に網を引いていた父親が、目の前で倒れている。
「父さん!しっかりして!」
肩を揺すっても、返事がない。
どうしよう。
コタ島へ戻る?
無理だ。
見習い漁師のアルスにとって、今日は初めての遠出だった。
昨夜、父のアグレオから「火山島の先まで漁に出るぞ」と聞かされたときは、嬉しくてほとんど眠れなかった。
遠くから眺めるだけだった火山島の山肌も、海鳥の飛び方さえ、今日はいつもと違って見えた。
世界は近づいてみるだけで、こんなにも姿を変えるのか。
――ただし、肝心の漁はさっぱりだった。
何度網を投げても、一匹もかからない。
「……おかしいな。去年までは、この辺りにも魚がいたんだが」
そう言いながら網を片付けようとしたとき。
突然、父が倒れたのだ。
「……父さん」
アルスは父の顔を覗き込んだ。
目の焦点が合っていない。呼びかけても、返事は曖昧だった。
どうする。
自分一人で舟を操って帰る自信なんてない。
でも、このままでは――。
「どうしよう……」
考えようとするほど、頭の中が真っ白になっていく。
心臓の音ばかりが大きくなる。
その時。
父の太い首筋に、白い手がすっと伸びた。
「心拍が乱れている。体温も高い」
「うわっ!?」
アルスは飛び退いた。
いつの間にか、見知らぬ少女が舟の上にいた。
陶器のように白い肌。風に揺れる金色の髪。
服も、髪も、びしょ濡れだった。
「熱中症だろう。この舟を浜へ寄せて」
「き、君……いつからそこに!?」
「聞こえないのか?」
少女は父から目を離さない。
「この舟を浜へ寄せて。急いで」
「わ、分かった!」
アルスは慌ててオールを握り、砂浜へ舟を寄せた。
少女はすぐに指示を出した。
「そこの木陰へ運べる?」
「う、うん!」
父の体は重かった。
アルスは両腕を脇の下に回し、砂浜を必死に引きずった。
少女は大きなトランクから布を取り出すと、海に浸し、父の上着を緩めて首筋や脇の下を冷やし始めた。
「もっと風を送って。体の熱を逃がすんだ」
アルスは言われるがまま、大きなヤシの葉を拾って扇いだ。
少女の動きには、一つの迷いもない。
「水は?」
「……持ってきた分は、もうない」
少女は一瞬だけ眉を動かした。
「……書院へ戻っている時間はないな」
周囲を見渡す。
視線が、頭上で止まった。
大きな葉が風に揺れ、そのさらに上、五メートルほどの高さに緑色の実がぶら下がっていた。
「ココヤシか」
少女は呟いた。
「あの実、取れる?」
「え?あんな高いところの?」
「父親の意識が戻れば、水分を補給できる」
アルスは木を見上げた。
南国育ちの子どもにとって、ヤシの木に登るのは珍しい遊びではない。
だが、アルスは違った。
高いところが、とにかく苦手だった。
幹を少し登っただけで足がすくむ。友達からも、よく臆病者とからかわれていた。
「……無理?」
少女が尋ねた。
アルスは答えられなかった。
「そうか。なら、私が――」
「無茶だよ!そんな細い腕じゃ!」
少女と目が合う。
彼女の顔には、恐れも迷いもなかった。
ただ、あの実を取る必要があるという確信だけがあった。
アルスは父を見た。
大きな体が、木陰に横たわっている。
いつもなら、何だってできる父さん。
その父さんが、今は自分で起き上がることもできない。
「……分かった」
アルスは木の幹に手をかけた。
「俺がやる」
大きく息を吸う。
そして、上を見た。
高い。
怖い。
でも。
「……よし!」
幹に足をかけ、一気に登り始めた。
最初は順調だった。
ざらついた幹を両腕で抱え、足の裏で体を押し上げる。
一メートル。
二メートル。
三メートル。
下を見ない。
絶対に、下を見ない。
やがて目の前に、緑色の実が見えてきた。
あと少し。
幹に足を絡ませ、片手を伸ばす。
その時。
ひゅうっ。
海風が吹いた。
「うわっ!」
幹が大きくしなる。
眼下の白い砂浜が、ぐらりと傾いた。
反射的に両腕で幹へしがみつく。
怖い。
もう、指一本だって離したくない。
降りたい。
今すぐ、地面に戻りたい。
けれど。
遥か下には、父さんがいる。
アルスは唇を噛んだ。
「……父さん」
震える片手を離す。
伸ばす。
あと少し。
指先が、実に触れた。
「……届いた!」
力いっぱい、ねじる。
一回。
二回。
三回。
パキッ!
実が外れた。
「やった!」
その瞬間、しなっていた幹が跳ね返った。
「うわああっ!」
足が滑る。
アルスはとっさに幹へ腕を巻きつけた。
胸がぶつかり、息が詰まる。
それでも、何とか落ちずに済んだ。
しばらく動けなかった。
腕も、足も震えている。
「……取れた!」
アルスは声を張り上げた。
下では少女が、実を受け取ろうと両手を広げていた。
***
少女はココヤシの実を受け取ると、手際よく殻を割った。
「ありがとう。よくやった」
「父さんは!?」
「まだ体を冷やす。君も手伝って」
アルスは大きな葉を手に、懸命に風を送った。
首筋を冷やし、脇の下を冷やす。
少女は何度も父の体に触れ、呼吸と反応を確かめていた。
「飲ませなくていいの?」
「意識がはっきりするまでは危険だ。気道に入ってしまう」
「……分かった」
アルスはただ、必死に扇いだ。
どれくらい時間が過ぎただろう。
波の音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて。
「……うぅ」
父の指が、わずかに動いた。
「父さん!」
アグレオがゆっくりと目を開けた。
「……アルス?」
「父さん! よかった!」
「……なんだ、その顔。泣いてんのか?」
「泣いてないよ!」
声が震えた。
少女は父の受け答えを確かめ、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「意識は戻った。まだ安静が必要だが、少しずつ水分を補給できそうだ」
ココヤシの果汁を少しずつ飲ませる。
アルスは父の隣へへたり込んだ。
腕が痛い。
膝も擦りむいていた。
それでも、父が生きている。
それだけで、胸の奥がいっぱいになった。
「……本当にありがとう」
アルスは少女を見た。
「俺、コタ村のアルス。君は?」
「名はスカラ」
「スカラ……さん」
不思議な名前だった。
「異国の人だよね。どこから来たの?」
「ずっとこの島にいた」
「え? ずっと?」
スカラは首を傾げた。
「もしかして『どこから来たの』という質問は、出発地ではなく誕生地を尋ねる意図だったのか?」
「そ、そのつもりではあったけど……」
「なら、この海を北東へ一万キロ渡った先だ」
「一万キロ!?」
アルスは目を丸くした。
「そんな遠くから、どうやってこの島へ?」
「……」
スカラはしばらく考えた。
「分からない」
「え?」
「覚えていない」
アルスはますます混乱した。
「もしかして、乗ってた船が沈んだとか? それで漂流して、この島に流れ着いて――」
「……?」
スカラは本気で意味が分からないという顔をした。
その時。
「うぅ……」
横になっていたアグレオが再び目を開いた。
「父さん!」
アルスは父に駆け寄った。
「倒れたところを、この子が助けてくれたんだよ!」
アグレオはスカラを見た。
「……異国の子か? あれ、漂流したのか?」
スカラは何も答えず、じっと父親を見つめた。
「目が覚めたところで、一つ頼みがあるんだが」
「……頼み?」
スカラは沖に浮かぶ帆掛け船を指さした。
「その船に乗せてほしい」
アグレオはまだ状況を理解できていない。
「……船?」
「北へ行きたい」
「北って、どこまで?」
「世界の果てまで」
「……」
アグレオがアルスを見る。
アルスも父を見る。
そして二人は、もう一度スカラを見た。
スカラは首を傾げた。
「何か変なことを言った?」




