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第一話 スカラの旅立ち

最後の一冊。スカラは、その最後の一行を読み終えた。


――これで、全部。


静かに本を閉じると、石造りの書院に小さな音が響いた。


――ようやく、約束を果たせる。


スカラは顔を上げた。丸窓の向こうには南国の入道雲。その隙間から差し込む陽光が、金色の髪を照らしている。


天井まで届く本棚には、医学、工学、天文学。歴史、宗教、民話、伝承。かつてこの世界に存在した文明が残した知識が、まるで地層のように積み重なっていた。


かつて人間は空を飛び、海を越え、遠く離れた人々と瞬時に言葉を交わしていた。


だが、その文明は失われた。今では、その多くが本の中にしか残っていない。


そして、そのすべてを、彼女は今、読み終えた。


世界は、失われた知識がまだ残っていることさえ知らない。それが今、一人の少女の頭の中にある。


もし、その知識をもう一度、世界へ持ち出したら、何が起きるのだろう。


「お嬢様。とうとう読み終えたんですね」


声に振り返ると、書院の庭から世話人のアンヌがひょこりと顔を覗かせていた。


「あまりの没頭ぶりに、声をかけるのも気が引けまして。こうして一週間ほど、お待ちしておりました」


「一週間?」


スカラは瞬きをした。


「全然気づかなかった。気を遣わせて悪かったね」


テーブルの本を両手で抱える。


「うんしょ」


知識の量と、本の重さは別問題らしい。なんとか持ち上げ、本棚に残された最後の隙間へ押し込んだ。


「これで全部ですか?」


「ああ。思ったより時間がかかった」


「三千もの言語を読み終えたんですもの。お疲れでしょう。ちょうど庭でハーブが採れましたの。今、お茶にして――」


「いや」


スカラは首を振った。


「これから旅に出ようと思う。準備を手伝ってくれないか」


アンヌの動きが止まった。


「旅に……今すぐ、ですか?」


「今日を逃すと、しばらく島を出る機会はなさそうだから」


スカラが袖をまくると、白い腕に淡く輝く輪が浮かび上がった。指先をひと振りすると、何もなかった空間に光の額縁が現れた。


その向こうに広がる青い海には、小さな帆掛け船が一艘浮かんでいた。甲板には、二つの人影。


アンヌが目を細めた。


「この島で漁なんて珍しい。コタ村の漁民でしょうか。……ということは、旅先は北?」


「ああ」


スカラは光の向こうの海を見つめた。


「世界の北の果てへ」


アンヌは静かに頷いた。


「いよいよ、あの方との約束を果たしに行くのですね」


「ああ」


「……本当に、まだ待っていると思いますか?」


スカラは少し考えた。


「分からない」


どれほどの時が流れたのかさえ、自分にはよく分からない。


それでも。


――本を全部読み終えたら、北の果てで会おうね。


遠い昔、顔も思い出せない誰かがくれた約束。


「……不思議だな」


「何がですか?」


「顔も覚えていない人に、会いたいと思うことはあるのか?」


アンヌは、すぐには答えなかった。


「あると思いますよ」


「そうか」


スカラはもう一度、光の向こうの海を見つめた。


「約束したから」


そう答えて、光の額縁を消した。


「少し長い旅になると思う」


アンヌはしばらく黙っていたが、やがていつもの穏やかな笑みを浮かべる。


「お帰りになったら、旅のお話を聞かせてくださいね」


「ああ」


「……寂しいです」


スカラが振り返る。


アンヌはいつもの顔で立っていた。


「いいえ。言ってみただけです」


一瞬の沈黙のあと、ふふふ、と笑った。その手には、二人分の茶器が用意されていた。


スカラには、その言葉の意味がよく分からなかった。


***


やがて、シダと苔に覆われた岩肌に一本の切れ目が走った。


書院の扉が、岩にへばりついたトカゲさえ気づかないほど静かに開いていく。


外には、濃い緑の密林が広がっていた。


「見送りはここまでで大丈夫」


スカラは振り返った。


「アンヌ、今まで世話になった」


「書院はお任せください」


小さな体には似つかわしくない大きなトランクを手に、スカラは森へ踏み出した。


一歩。


また一歩。


湿った空気が肌にまとわりつく。


青々とした草木の匂い。


頭上では見知らぬ鳥が鳴き、足元の落ち葉の下では、小さな生き物が忙しなく動いている。


本で読んだことはある。


どの鳥が鳴いているのかも、地面に潜む虫の名前も分かる。


けれど、葉を踏むたびに変わる音や、雨を含んだ土の匂いは、文字で知っていたものとは少し違っていた。


スカラは立ち止まり、森を見渡した。


「……なるほど」


再び歩き始める。


そのとき、虫と鳥の声に混じって、ふと、もの悲しげな琴の音が聞こえた。


アンヌが弾く、別れの曲だった。


「さようなら」


小さく呟いた声は、森の音に溶けて消えた。


――次に会うのは、ずっと先になるだろう。


悲しいのかと問われても、スカラには分からない。


ただ、琴の音が聞こえなくなってからも、しばらく耳の奥に残っていた。


歩くにつれ、湿った土に砂が混じり始めた。


木々の隙間から潮の匂いが流れ込むと、やがて森が途切れた。


そこには、視界いっぱいのコバルトブルーの海が広がっていた。


波打ち際を白い泡が縁取り、沖には先ほど光の額縁で見た帆掛け船が浮かんでいる。


スカラはしばらく、その景色を眺めていた。


世界は、思っていたよりも広いらしい。


さて。


あの船に乗らなければ。


「……」


そこで、ふと考えた。


本には書いていなかった。


知らない人間に、どうやって船に乗せてもらえばいいのか。


船の構造は知っている。風を受けて進む仕組みも、海図の読み方も、星から方角を知る方法も。


けれど、乗せてもらうために何を言えばいいのかは、分からなかった。


スカラは小さく息を吐いた。


「……まあ、行けば分かるか」


トランクを持ち直し、砂浜へ一歩踏み出す。


そのときだった。


沖の船で、一人の男が倒れた。


「……?」


スカラは目を細めた。


男のそばで、少年が何かを叫んでいる。


その声は、波の音にかき消されて届かない。


スカラはトランクを砂浜に置き、ためらうことなく海へ向かって走り出した。

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