第三十三話 緑の国ダルカ
月明かりだけが、細い道を照らしていた。
響くのは虫と蛙の声。そして、二人分の足音だけ。
スカラとアルスは、真っ暗なダルカの道を歩き続けていた。
シェンクゥの国境を強行突破してから、何時間経ったのかも分からない。
目的は一つ。
ダルカはなぜ、シェンクゥへの食糧輸出を減らしたのか。
その理由を突き止めること。
答えを持ち帰れなければ――次にこの国境を越えるのは、二人ではない。
軍隊だ。
「今ごろ、シェンクゥは大騒ぎかな」
アルスが暗闇の向こうを振り返った。
「俺たちのせいで、コタのみんなに迷惑がかかってないといいけど」
「問題ない」
スカラは前を向いたまま答えた。
「シェンクゥもコタのゴムや商品を必要としている。あの王は現実主義者だ。感情だけで貿易を止めるようなことはしない」
「そっか。よかった……ところでさ」
「何?」
「俺たち、何時間歩いた?」
「知らない」
「知らないの?」
「測っていないからな」
「スカラでも知らないことあるんだ」
「当たり前だろ」
アルスは辺りを見回した。
「……ここまで一軒も家なくない?」
答えるものは虫と蛙だけ。
喉も渇いてきた。だが、水場も人家も見つからない。
「本当にこっちで合ってる?」
「たぶん」
「たぶん!?」
その時だった。
「うわっ!」
アルスが畦道を踏み外した。
咄嗟にスカラの袖を掴む。
「私の袖につかまるな!」
「だって落ちる!」
「私まで道連れにする気か!」
「助けてよ!」
「離せ!」
そんなやり取りをしているうちに、遠くから鶏の声が聞こえた。
東の空が、ゆっくりと白んでいく。
「……夜が明ける」
朝もやの向こうから一筋の光が差し、世界を覆っていた闇が少しずつ剥がれていく。
そして、二人は立ち止まった。
目の前に、果てしない大平原が広がっていた。
緑の田畑。
その間を縫う水路。
のんびりと草を食む牛。
はるか遠くには、朝日を浴びて銀色に輝く巨大な川まで見える。
「……すごい」
アルスの目が輝いた。
「これ、全部田んぼ?」
鉄と煙の国シェンクゥとは、まるで違う。
どこまでも土と水と緑が続く、巨大な農業国家ダルカ。
朝風が吹くたび、稲の葉が波のように揺れていた。
アルスは思わず笑った。
「なんだよ」
辺りを見渡す。
「食べ物、いっぱいあるじゃん!」
だが、スカラは答えなかった。
「……おかしい」
「え?」
「これほどの耕作地があるのに、なぜ食糧輸出が減る?」
アルスの笑顔が消えた。
昨夜まで闇に隠されていたダルカ。
朝日が昇って現れたのは、答えではなく、もっと大きな謎だった。
***
「……これ、どっちに進む?」
スカラが足を止めた。
畦道の先には赤い小さな石像。そこから左右へ道が分かれていた。
「右じゃない?」
「根拠は?」
「なんとなく」
「最悪だな」
「じゃあ聞くなよ!」
右へ進む。
するとまた分かれ道。
さらに分かれ道。
その先にも分かれ道。
そして――。
「ねえ」
アルスが立ち止まった。
「この石像、さっきも見なかった?」
「見た」
「……俺たち、迷子になってない?」
「なってない。右の可能性を潰したから、次は左へ行けばいい」
「ほんっと負けず嫌いだな……」
アルスは呆れたあと、ふと思い出した。
「そうだ。地図は?」
「地図?」
「ほら、いつもみたいに魔法で出すやつ」
「魔法ではない」
スカラは即座に訂正した。
「地図の表示、位置の測定、暗視、放電。旧文明では珍しくなかった技術だ」
「だったら、それで道を――」
「無理だ」
「なんで?」
「近くにホットスポットがない」
「……前から気になってたんだけどさ」
アルスが首を傾げる。
「そのホットなんとかって、結局何なの?」
「ホットスポット」
スカラは少し考えた。
「旧文明には、世界中を見えない糸でつなぐ巨大な情報網があった」
「蜘蛛の巣みたいな?」
「ああ。文明の崩壊でほとんどは失われたが、一部には今も動いている設備がある。そこへ近づくと、私の端末も機能する」
「じゃあ、オオカミ岩とか、ヤナの村の祭壇も?」
「そうだ」
アルスの表情が曇った。
オオカミ岩で、恐怖を感じる人間を追い続けた機械。
ヤナの村で、何百年も呪いの言葉を聞かせ続けた声。
「どっちも……人を苦しめてたね」
「ああ」
旧文明から与えられた役割を、何百年経っても繰り返している。
本来の目的すら、とうに失われているのに。
スカラは袖の下へ目を落とした。
シェンクゥの夜、突然現れた光の地図。何も操作していないのに、腕輪が勝手に反応した。あれは一体、何だったのか。
自分が旧文明の機械を動かしているのか。
それとも、機械の方が自分に何かを求めているのか。
アルスが、その腕を見る。
「それって、スカラも……?」
スカラの足が止まった。
「……」
自分の身体に埋め込まれた、旧文明の何か。
ホットスポットへ近づくと現れる光。
勝手に流れ込んでくる情報。
自分でも仕組みの分からない力。
あの機械たちも、自分が何をしているのか知らなかった。
――では、自分は?
スカラは腕を握った。
「……私は、何なんだろう」
「え?」
「いや」
顔を上げる。
「何でもない」
袖を下ろした。
北の果てへ行けば、分かるのだろうか。
それとも――。
その時。
「あ!」
アルスが声を上げた。
畦道の向こうに、一人の少女が立っていた。
ダルカの民族衣装。年齢はアルスたちと、それほど変わらない。腕には、古びた糸で編まれた小さな飾り。
「地元の子かな」
アルスが近づく。
「ねえ! ちょっと道を聞きたいんだけど――」
少女がこちらを見た。
目が合った瞬間、血相を変えて走り出す。
「えっ?」
「逃げたな」
「なんで!?」
アルスも追いかけた。
「待って!変な者じゃないんだ!道を聞きたいだけで――」
ガサガサガサ!
突然、目の前の草むらが揺れた。
「うわっ!」
ぬうっ。
長い何かが伸びてくる。
太い。灰色。
先端には、穴が二つ。
「……何これ?」
空中で、ぶらぶらと揺れている。
「アルス」
追いついたスカラが袖を引いた。
「下がれ」
「え?」
「危険だ」
視線を上げる。
そこにいたのは、牛ほどの大きさの見たこともない動物だった。
大きな耳。
太い脚。
そして、長い鼻。
黒い瞳をくりくりと動かしながら、こちらを見つめている。
「な、なんだこいつ……」
「象」
「ぞう?」
「陸上最大の動物だ」
「これが?」
どう見ても牛くらいしかない。
「かわいいじゃん」
「危険なのはそいつではなく――」
アルスは象の頭を撫でた。
「ほら、平気――」
ドシン。
地面が揺れた。
「……え?」
ドシン。ドシン。
草むらの向こう。朝空を背にして、巨大な影が立ち上がった。
長い鼻。
大きく広がった耳。
牛どころではない、見上げるほど巨大な象が、こちらを睨んでいる。
アルスの顔から血の気が引いた。
「……母親だ」
さらに草むらが揺れた。
二頭。
三頭。
群れだ。
「スカラ!」
「何?」
「こういう時の知識は!?」
「ある」
「何!?」
「子どもへ近づくな」
「もう近づいちゃったよ!」
「それと、象は人間より足が速い」
「役に立たない!!」
親象が大きく耳を広げ、突進してきた。
「逃げろ!」
二人は走り出した。
少し離れた物陰で、先ほどの少女がその様子を見ていた。
逃げようとして、一歩進む。
だが、足が止まった。
象に追われている二人。
「……もう!」
少女は舌打ちした。
「こんな時に!」
そして叫んだ。
「こっち!」
アルスが振り向く。
「え?」
「こっち、来い!」
「シェンクゥ語!?」
「驚いてる場合じゃない!」
少女が指さしたのは、道の分かれ目にある赤い石像。
その裏には、人間一人がようやく通れるほどの狭い隙間があった。
三人は滑り込んだ。
直後。
ドシン!
親象が石像の前で立ち止まる。
長い鼻を伸ばしてきたが、身体が大きすぎて入れない。
しばらく警戒するように鼻を鳴らしたあと、群れはゆっくり去っていった。
「……助かった」
アルスは、その場にへたり込んだ。
「ありがとう!」
少女は何も言わない。
「君、シェンクゥ語が話せるんだね」
「……少しだけ」
それだけ言って、立ち去ろうとした。
その時だった。
「何の騒ぎだ!」
遠くから男たちの声。
「象だ!」
「そんなことより、また水泥棒だ!」
少女の身体が固まった。
「……水泥棒?」
村人たちが水路へ集まっている。
大きな仕切り板が外され、水が本来とは違う田へ流れ込んでいた。
アルスは少女を見た。
「……まさか」
少女は俯いた。
目に涙が浮かぶ。
「盗みたくて……盗んだんじゃない」
「じゃあ、どうして?」
少女は答えず、ただ水路の先を見つめていた。
水は幾つもの田を通り過ぎ、遠くの広い農地へ向かっている。その周囲では、乾いた土に亀裂が走っていた。
朝日に輝く緑の平原。
その足元で、土は乾き始めていたのだ。
「……え?」
アルスが目を凝らした。
その時。
「ミラ!」
男の怒声が響いた。
少女の身体がびくりと震える。
「そんなところに隠れて、何してる!」
男たちが走ってくる。
少女――ミラは、ひび割れた田を見た。
そして、小さく呟いた。
「……水がないと」
拳を握る。
「みんな、死んじゃうから」




