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第三十話 飢える町、怒れる町

市場を歩く。


だが、そこはアルスの知っている市場ではなかった。


以前は、赤い果物、黄色い香辛料、山積みの魚、湯気を上げる肉。様々な国から届いた食べ物が、通りいっぱいに並んでいた。


今は、空っぽの籠と木箱ばかりが目につく。


「……本当に何もない」


少し先では、一袋の米を囲んで人々が言い争っていた。


「昨日の倍じゃないか!」


「文句があるなら買うな!」


「子どもがいるんだ!」


「こっちだって仕入れられないんだよ!」


その足元で、痩せた子どもが落ちた米粒を拾った。


「こら!」


店主に追い払われ、転ぶ。


それでも子どもは、一粒だけ口へ運んだ。


アルスは立ち止まった。


振り返れば、二人を監視する兵士がいる。


自由に歩ける。誰とでも話せる。買い物も仕事もできる。


ただし、国境は越えられない。


「……鳥かごだな。檻が見えないだけで」


スカラは答えなかった。


「でも、王様の気持ちも少し分かる気がする」


「何が?」


「こんな状態なら、国民を置いて、約束だからって簡単には言えないのかもしれない」


スカラは首を振った。


「だからといって、私たちの自由を奪っていい理由にはならない」


「……うん」


その時。


「アルス!」


振り返ると、買い物籠を抱えたフォンが立っていた。


「フォン! 買い物?」


「ああ」


笑ったフォンの籠には、小さな芋が二つだけ。


「……それだけ?」


「今日はな」


アルスは市場を見渡した。


「大変だよね」


フォンの笑みが消えた。


昨日、工房では仲間が空腹で倒れた。二日もろくに食べていなかったという。


親方はアルスたちに相談してみろと言った。金もあるし、王とも話せるから、と。


だが、フォンには頼めなかった。


アルスなら、きっと助けてくれる。


だからこそ、嫌だった。


大切な友達に、同情されるのは。


「……お前たち、いつまでシェンクゥにいるんだ?」


「本当はもう出るはずだったんだけど、王様が駄目だって。ダルカに行きたいのに」


フォンの眉が動いた。


「……こんな時にダルカ?」


「うん」


「あいつらが食料を止めたせいで、こっちはこんなことになってるんだぞ」


アルスは少し迷った。


「でも、わざと止めてるかは分からないだろ? 向こうにも事情があるかもしれないし」


「……事情?」


フォンの声が低くなる。


「こっちは飯がないんだぞ」


「……フォン?」


「昨日、工房の仲間が倒れた。二日も食ってなかった」


フォンは籠を見せた。


「これが今日の俺の飯だよ」


アルスは黙った。


「なのに、ダルカにも事情があるかもしれないって?」


「……ごめん。そんなつもりじゃ」


「いいよな、アルスは」


フォンが笑った。


いつもの笑い方ではなかった。


「金はあるし、飯にも困らない。この国から出られなくたって暮らしていけるんだろ?」


「そんなこと……!」


「俺たちは違う!」


フォンは足元を指さした。


「ここで生きるしかないんだ!」


アルスの胸に言葉が刺さった。


「でも、フォンだってダルカで生まれたんだろ?」


フォンの顔が強張る。


「……だから何?」


「前に、故郷へ行ってみたいって……」


「俺の国はここだ。シェンクゥだよ」


アルスは口を閉じた。


――いつか一緒に行こう。


そう笑った少年が、目の前にいる。


なのに、こんなにも遠かった。


「フォン」


黙っていたスカラが口を開く。


「必要なら、食料を買うための金を――」


「やめろよ」


「……?」


「そういうところが嫌いなんだよ。何でも分かった顔して、金を出せば解決すると思ってる」


スカラは黙った。


「俺たちにだって、守りたいものがあるんだ」


フォンは籠を抱え直す。


「……馬鹿にするな」


背を向けた。


「フォン!」


振り返らなかった。


腰には、黒いゴムを巻いた金槌。


あの日と同じものが揺れていた。


「……スカラ」


アルスが呟く。


「どうして、あんなことになっちゃったんだろう」


スカラも、その背中を見ていた。


「……分からない」


そして、小さく付け加えた。


「お金だけでは、解決できないこともあるんだな」


***


それから何日経っても、食料は戻らなかった。


米が消え、麦が消え、芋も値上がりした。


人々は港へ来る船を待ち続けたが、ダルカからの船はますます減っていく。


やがて、街の壁に文字が書かれ始めた。


『ダルカを許すな』


『食料を返せ』


『奪われるなら、奪い返せ』


そして、ある朝。


「打倒ダルカ!」


怒号でアルスは目を覚ました。


窓を開けると、何百人もの人々が通りを埋め尽くしていた。


「食料を返せ!」


「打倒ダルカ!」


知っている顔が、いくつもあった。


工房の職人。


ゴムを買った商人。


会社の従業員。


「……何だよ、これ」


「戦争を求めているんだ」


スカラが答えた。


「……戦争?」


「ダルカへ攻め込んで、食料を手に入れようとしている」


「そんな! ずっと交易してきた相手だろ!? ちゃんと話し合えば――」


ドン!


乾いた音が響いた。


工場の一角で、兵士が奇妙な鉄の筒を構えている。


先端から白い煙。


離れた木板には、小さな穴が開いていた。


「……何、あれ?」


もう一度。


ドン!


板が跳ねた。


スカラの顔が強張った。


「……銃だ」


「じゅう?」


「火薬の力で金属の弾を飛ばす武器だ。人間の身体も貫く」


アルスは、木板の穴を見た。


脳裏に蘇る、フォンが閉じ込められていた崩落現場。


泣く母親。


壁を叩く音。


黒い粉。


「……火薬?」


「ああ」


「俺たちが、教えた……?」


「火薬を教えたのは私だ。武器にしたのはシェンクゥの人間だけどね」


アルスは首を振った。


「……でも」


ドォォン!!


さらに大きな轟音。


広場では、兵士たちが巨大な鉄の筒を囲んでいた。


「大砲だ」


スカラが呟いた。


「遠くの建物まで破壊できる」


シェンクゥには、もともと高い金属加工の技術があった。


軍も以前から様々な兵器を研究していた。


そこへ火薬が加わり、銃や大砲が形になり始めたのだ。


「……こんなつもりじゃなかった」


スカラは何も言わなかった。


***


工場は以前より忙しくなっていた。


ガタン。ガタン。ガタン。


ゴムの帯が回る。


部品が次々と運ばれていく。


だが、流れているものは違った。


鉄の筒。


銃の部品。


また、銃の部品。


「……あの機械」


アルスは立ち尽くした。


金槌や荷車の部品を作っていた機械が、今は武器を生み出している。


「止めさせよう!」


「どうやって?」


スカラが尋ねた。


「王様に言う!」


「王が命じている」


「じゃあ、会社の権利で――」


「もう私たちだけの会社じゃない」


「だったら、知識を返してもらおうよ!」


スカラはアルスを見た。


「覚えたことを忘れろとは言えないよ」


「……じゃあ、どうすればいいんだよ!」


答えはなかった。


その時、窓の向こうに巨大な影が現れた。


「……船?」


港には、木造の船体を鉄板で覆い、大砲を備えた船が浮かんでいた。


アルスは駆け寄った。


船首。帆柱。波を切る船底。


「……俺たちの船?」


吠える海域を越えるため、コタの人々が力を合わせて作った船。


スカラも頷いた。


「構造を参考にしたんだろう。港に長く停泊していたからね」


嵐を越えるための船。


ゴムで水を防いだ船。


知らない世界へ旅立つための船。


その知恵が今、人を傷つけるために使われている。


アルスは、船を見つめた。


「……スカラ」


「何?」


「俺たち、何を持ってきたんだろう」


答えは、返ってこなかった。

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