第二十四話 ヤナの手紙
「アルス!」
工房へ行くと、フォンが待っていた。
「フォン!」
少年は自分を指さした。
「フォン」
次に、腰の金槌を指す。
「チュイズ」
「チュイジュ?」
違うらしい。
今度はフォンがアルスを指す。
「ゴム!」
「それは違う!」
工房に笑い声が響いた。
ご飯を食べながら。仕事を手伝いながら。街を歩きながら。二人は、そんなことを何度も繰り返した。
最初は一つの言葉を覚えるだけで、何度も間違えた。
「腹減った」
「危ない!」
「ありがとう」
そして。
「また明日」
その言葉だけは、なぜかすぐに覚えた。
一つが二つになり、二つが十になり、やがて身振りを使わなくても冗談を言い合えるようになった。
それでもフォンは、アルスの名前だけは正しく呼ぼうとしなかった。
***
シェンクゥへ来て半年が経ったある日。
「……来た!」
アルスは港へ駆け出した。
海の向こうから、コタの帆船が近づいてくる。
かつて、大陸へ渡ることは命懸けだった。
今も安全になったわけではないが、季節や風を選び、航路を確かめ、船乗りたちは交易を始めていた。
シェンクゥからは、鉄の道具。
コタからは、ゴムや南の島の産物。
遠く離れていた二つの土地が、海を通じてつながる。
船が岸壁へ着くと、船員の一人が手を振った。
「アルス!お前に手紙だ!」
封筒を見た瞬間、差出人が分かった。
「……ヤナ!」
「ほらよ」
船員がニヤニヤする。
「そんな嬉しそうな顔して。待ちきれねぇって顔に書いてあるぞ」
「そんなんじゃないよ!」
アルスは封筒を受け取ると、少し離れた荷箱へ腰を下ろす。一度、上着で手の汗を拭うと、そっと封を開けた。
『アルスへ。お元気ですか――』
見慣れた字。だが、以前より少しだけ整っている。
『今頃、新しい世界でたくさんの知識を学んでいるのでしょうか』
アルスは笑った。
『私もあなたに負けないよう、勉強と研究に励んでいます』
「ヤナらしいな……」
『先日は、アグレオさんに火山島へ連れて行ってもらいました』
「父さん、元気そうだな」
思わず頬が緩んだ。
その時。
「よぉ、ゴム」
背後から声。
アルスは反射的に手紙を背中へ隠した。
「だから、ゴムじゃないって!」
フォンはいつも通り、短い黒髪に、汚れた作業着。腰には、ゴムを巻いた金槌。
隣へ腰を下ろすと、すっかり上達したコタの言葉で尋ねた。
「何読んでるんだ?」
アルスもシェンクゥの言葉で返す。
「何でもない」
「恋人からの手紙?」
「違う!」
フォンは笑った。
「顔に書いてるぞ。相変わらず嘘が下手だな」
「本当に違うんだって!」
「で?何て書いてある?」
「絶対教えない!」
「いいじゃん。俺、手紙なんてもらったことないし」
アルスは、少しだけ口を閉じた。
フォンは港を見た。
コタから来た船から、荷物が次々と降ろされている。
「……羨ましいよ」
フォンは膝を抱えた。
「いろんな国へ行けてさ。遠くから手紙を送ってくれる人もいる」
「……」
「恋人もいるし」
「だから恋人じゃないって!」
「そこはどうでもいい」
「いいのかよ!」
笑いが収まると、フォンは静かに言った。
「俺、シェンクゥの外へ出たことないんだ」
「……そうなの?」
「ああ」
「でも、確か……ダルカで生まれたんだよね?」
フォンは頷いた。
「小さかったから、ほとんど覚えてないけど」
「……」
「干ばつで、食べ物がなくなったんだ。それで父さんと母さんと一緒に、ここへ来た」
フォンは海を見つめた。
「でも、二人ともすぐに死んじまった」
フォンは、首から下げた小さな袋を取り出した。
中には、石のビーズを古びた糸で繋いだ飾りが入っていた。
「……それは?」
「ダルカのものだと思う」
フォンは指で石を撫でた。
「変だよな。父さんと母さんの顔も、ほとんど覚えてないのにさ」
フォンは、古びた糸を指先でなぞった。
「これだけは、ずっと持ってる」
「……うん」
「なくしたら、何か大事なことまで忘れちまう気がするんだ」
少し笑う。
「だから、捨てられない」
アルスは飾りを見た。
どこにでもありそうな、小さな石。だけど、フォンにはそれしか残っていないのかもしれない。
「……行ってみたい?ダルカ」
フォンは、すぐには答えずしばらく海を見た。
「……まあな」
肩をすくめる。
「故郷だし。一回くらい、どんなところなのか見てみたい」
「じゃあさ」
アルスは何気なく言った。
「いつか、一緒に行こうよ」
フォンが振り返る。
「……ダルカに?」
「うん」
「遠いぞ」
「船で海越えてここまで来たんだから、それより近いだろ?」
「お前、簡単に言うなぁ」
フォンは笑った。
けれど、少しして。
「……行こう」
拳を差し出した。
「約束だ」
アルスも拳を合わせる。
コツン。
二人の間で、小さな音がした。
その時、工房の方から大きな声が飛んできた。
「フォン!」
「やば。親方だ」
フォンが立ち上がった。
「じゃあな、ゴム!」
「アルスだって!」
フォンは笑いながら走っていった。
だが、親方のもとへ着くと、その足が止まった。
二人は何やら険しい顔で話している。
アルスは少し気になったが、もう一度手紙を開いた。
『――また会いたいです』
「……」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
その時。
ころん。
封筒から、黒いものが落ちた。
「……ん?」
拾い上げるとゴム。
だが、指で押すといつものものとは違う。少し硬いのに、曲げればしなり、力を抜くと元に戻る。
「……何だこれ?」
手紙の最後を見る。
小さく『追伸』と書かれていた。
『火山島で見つけた黄色い粉を使って、ゴムを加工してみました』
「黄色い粉……?」
『何度も失敗しましたが、前より丈夫になった気がします。スカラさんにも見てもらいたいです』
「……加硫ゴムに近いね」
「うわぁっ!」
アルスは飛び上がった。
真横に、いつの間にかスカラが立っていた。口には、またあの臭い食べ物を入れている。
「いつからいたの!?」
「フォンと入れ替わりに」
「なんで入れ替わるんだよ!ていうか、勝手に手紙読まないでくれる?」
「なぜ?」
「なぜって……手紙は、自分に届いたものなんだから!」
「知識は広めたい」
スカラは首を傾げた。
「手紙は広めたくない!」
「……人間は難しいな」
「君だって人間だろ!」
アルスは黒い塊を持ち上げた。
「それより、これ知ってるの?」
「ああ」
スカラは受け取った。
曲げる。
引っ張る。
指で表面を確かめる。
「……なるほど」
「何?」
「硫黄を使って加工したゴムだろう。旧文明では、加硫と呼ばれた技術だ」
「かりゅう?」
「ゴムに硫黄を加え、熱をかけると性質が変わる。熱でべたつきにくくなり、弾力や耐久性が改善する場合がある」
スカラは、もう一度塊を曲げた。
「詳しい条件は調べる必要がある。でも、かなりいい出来だ」
「……すごい?」
「ああ」
スカラは迷わず答えた。
「私は、ヤナに加硫の方法を教えていない」
「じゃあ、これって……」
「ヤナが、自分で見つけたんだ」
アルスの顔が明るくなる。
「……すごいな!」
「そうだね」
スカラも、少しだけ笑った。
ちょうどその時。
ガタガタガタガタ!
目の前を荷馬車が通り過ぎる。石畳の凹凸を拾い、車輪が激しく跳ねた。
「うわっ、危ない!」
積まれた木箱が一つ傾いたのを、御者が慌てて荷を押さえる。
アルスは車輪を見た。
そして、手の中の黒いゴムを見る。
「これ、車輪に使えないかな?」
スカラの目が変わった。
「……どう使う?」
「金槌みたいに周りに巻くんだよ。そしたら、あんなに跳ねなくなるかも」
スカラはゴムを曲げた。
「なるほど。直接地面に当たる部分を柔らかくするのか」
「うん!」
「強度や摩耗は試してみないとだが、面白い発想だ」
アルスは嬉しそうに笑った。
「ヤナの新しいゴムと、シェンクゥの鉄が組み合わさったら、また何か作れそうだね!」
「ああ」
スカラが頷いた。
「採掘現場で使う荷車にも応用できるかもしれない」
「採掘現場?」
「ああ。重い鉄材を運ぶとき、車輪への衝撃を減らせれば――」
ゴゴゴゴゴ――。
遠くから、低い音が響いた。
「……何?」
アルスが顔を上げる。
通りの向こうに、黒い煙のようなものが立ち上る。
やがて。
ドォン!
遅れて、鈍い衝撃が伝わってきた。
港の鳥たちが、一斉に飛び立つ。
「……またか」
スカラが呟く。
すると、工房の方からフォンと親方が走ってきた。
「アルス!」
「フォン!どうしたの!?」
「また廃墟が落ちた!」
親方が何かを叫ぶ。
スカラが聞き取った。
「採掘現場で建物の一部が崩れたらしい」
アルスは空を見上げた。
シェンクゥの空には、何百という高層建築が突き出している。来たばかりの頃は、その大きさに驚いてばかりだった。
だが今は違う。
どの建物も亀裂があり、壁が剥がれ、骨のような鉄骨が露出している。
「最近、多いの?こういう事故」
フォンが頷いた。
「鉄が足りなくなってきてるんだ。みんな、前より奥まで掘りに行く」
親方が何かを付け加える。
「柱まで抜いている者もいるそうだ」
スカラが訳した。
「柱?」
「建物を支える大事な部分だよ。一本抜けば、その分の重さを、ほかの柱が受けなければならなくなる」
「……危ないじゃん!」
「ああ」
フォンは顔を曇らせた。
「でも、どの建物が危ないか分からないんだ」
スカラは街を見上げた。
「上から観察すれば、建物の傾きや、崩落が集中している場所を調べられるかもしれない」
「……上から?」
「まずは、街全体の状態を知りたい」
その視線が、シェンクゥで最も高い建物に止まった。
街の中央、周囲の廃墟から頭一つ抜けた巨大な塔。その外壁はほとんど失われているが、なぜか最上階だけはガラス窓が残っている。
「……あそこへ行こう」
アルスは嫌な予感がした。
「……ちょっと待って」
「何だ?」
「あそこって、何階あるの?」
「少なくとも七十階」
「七十!?」
フォンも見上げた。
「あの塔の上の方って、変な噂もあるぞ」
「変な噂?」
「誰もいないはずなのに、窓が光るとか。高いところから人が落ちたとか」
アルスは顔を引きつらせた。
「……やめようよ」
「私は行く」
スカラは平然と答えた。
「アルスは好きにしろ」
フォンが笑った。
「ゴム、もしかして高いところ怖いの?」
スカラが首を傾げる。
「怖いなら無理について来なくても――」
「行く!絶対行く!!」
フォンが肩を叩いた。
「よし、決まり!明日の朝な!」
「……もう!」
二人が歩き出そうとした時だった。
キラッ。
「……?」
アルスは最上階で何かが光るのを見つけた。
「今、見た? 光ってた!」
だが、もう何も見えない。
「……あれ? 気のせいかな」
その時だった。
チリッ。
スカラの腕に、微かな刺激が走った。
袖をまくる。淡い光の輪が、一本。
「……ホットスポット」
「え?」
「この塔も、旧文明の通信領域に入っている」
スカラは最上階を見つめた。
その瞬間。
なぜか、奇妙な感覚がした。
あの場所を、知っている。
そんなはずはない。シェンクゥへ来たのは、わずか半年前。あの塔へ登ったことなど、一度もない。
なのに。
「……?」
スカラは額に手を当てた。
何かを思い出しかけたような気がした。だが、その正体は分からない。
最上階の窓が、もう一度だけ光った。




