第二十三話 商売の秘訣
王の許可を得た、その日の午後。アルスとスカラは早速、シェンクゥの職人街へ向かった。
「これはゴムといって――」
一軒目。
「いらない」
「伸び縮みして、水も通さなくて――」
二軒目。
「樹脂で足りてる」
「隙間に詰めれば、水も空気も――」
三軒目。
「次」
そして、三十軒目。
「ダメだぁぁぁ……」
アルスは道端にへたり込んだ。
頭上では崩れかけた巨大な建物。その下を鉄屑を積んだ荷車がガラガラと通り過ぎていく。
「一個も売れない……。一枚三千シェンカじゃ高すぎるのかな?」
腕の中には、朝から少しも減っていないゴムの束。
「値段以前の問題だろうね」
スカラは隣で帳面を眺めていた。片手には、港で食べた妙に臭い発酵食品を持っている。
もぐもぐ。
「ちょっと!ゴムを売ろうって言い出したの、スカラだよね!?」
「そうだが」
「なんでそんなに落ち着いてるの!」
「旧文明でも、ゴムが発見されてから実用品として広く使われるまでには何百年もかかっている」
「それ先に言ってよ!」
「言ったところで何か変わるのか?」
「気持ちが変わるよ!」
「気持ち?」
アルスは大きくため息をついた。
その時、スカラの帳面が目に入った。
「……ねえ、さっきから何書いてるの?」
「記録だ」
覗き込むと、一軒目から三十軒目までびっしりと×が並んでいた。
その横には小さな文字。
『用途不明』
『樹脂で十分』
『価格』
『説明不足』
「……めちゃくちゃ気にしてるじゃん」
「分析しているだけだ」
「でも、字がいつもより濃いよ」
スカラは帳面を閉じた。
「気のせいだ」
「悔しいんだ?」
「違う」
アルスは、腕の中のゴムを見た。
コタでは船の防水に使えた。吠える海域を越えられたのも、ゴムがあったからだ。
だが、シェンクゥには鉄も樹脂もある。
水を防げます。そう言われても、知らない素材を買う理由にはならない。
「……あとさ」
アルスが顔を上げた。
「スカラ、その顔もよくないと思う」
「顔?」
「売る時は、もうちょっと笑った方がいいよ」
「なぜ?」
「その方が、この人から買ってみようかなって思うじゃん」
スカラは少し考えた。
「なるほど」
そして、口の両端を持ち上げた。
ニィィィ。
「……」
「どうだ?」
アルスは一歩後ろへ下がった。
「やっぱり元のままでいこう」
「なぜ?」
「笑顔が怖いから」
「難しいな」
その時だった。
「ゴム!」
聞き覚えのある声に、アルスが振り返る。
「フォン!」
通りの向こうから、黒髪の少年が手を振っていた。港で出会った、あの少年。今日も腰には鉄の金槌をぶら下げている。
「こんなところで何してるの?」
当然、フォンには通じない。
アルスは周囲を指さし、それからフォンの金槌を指さした。
「仕事?」
フォンは自分を指さすと、地面を指し、金槌を振る仕草をした。
「……ここ?」
フォンが大きく頷く。
「ここが職場なんだ!」
スカラが何か尋ねた。
短いやり取りの後、アルスへ向き直る。
「廃墟から採れた鉄を加工する職人だそうだ」
「職人!?」
アルスはフォンを見た。自分と同じくらいの年なのに。
「……すごいな」
褒められていることが伝わったのか、フォンは得意げに鼻をこすった。
そして、二人を手招きした。
***
ガン! ガン! ガン!
工房には金属を叩く音が響き続けていた。
炉の熱気。焼けた鉄の匂い。額に汗を浮かべ、作業台へ向かう何十人もの職人たち。その一角に、フォンの仕事場があった。
フォンは椅子に腰を下ろすと、平らな鉄板を台の上へ置いた。
金槌を握る。
ガンッ!
アルスが思わず肩をすくめた。
ガン!ガン!
一見すると、力任せに叩いているだけに見える。
だが。
「……あれ?」
アルスは気づいた。
金槌が落ちる場所が、毎回ほんの少しずつ違う。場所を変えながら叩くたび、平らな鉄板がゆっくりと丸みを帯びていった。
スカラも覗き込む。
「打ち出しだね」
「うちだし?」
「金属を叩いて、少しずつ形を整える技術だよ」
ガン!ガン!
フォンの手は止まらない。
「理屈は本で学べる。でも、これほど正確に叩くには経験が必要だ」
スカラは少年の手元を見つめた。
「鉄の硬さ。音。金槌を通して伝わる感触。そういうものを身体で覚えているんだろうね」
「へぇ……」
鉄板は鍋になった。
「フォン!」
アルスは親指を立てた。
「すごい!」
フォンは顔を上げて笑った。
その時、アルスの目が、金槌を握る手に止まった。
「……あ」
掌の硬くなった豆が潰れ、赤い血が滲んでいる。
「フォン、手!」
アルスが慌てて近づく。
だが、慣れているらしい。平気だと手を振ると、脇に置いてあった布を掌へ巻きつけた。
そして、また金槌を握る。
ガン!ガン!
「……痛くないのかな」
「痛いだろうね」
スカラが答えた。
「金槌を振るたびに、衝撃が伝わるから」
フォンの金槌は、柄まで鉄でできている。
ガンッ!
叩くたび、手へ衝撃が返ってくる。
アルスは港で初めて金槌を握った時を思い出した。
たった二回叩いただけで、掌が痺れた。
フォンは、それを毎日繰り返している。
「……」
アルスはフォンの手を見た。
金槌を見る。
そして、自分が抱えているゴムの束へ目を落とした。
柔らかい。
滑りにくい。
押せば形が変わり、力を抜くと戻る。
船では、水を防ぐために使った。
でも、今困っているのは水じゃない。
「……あ!」
アルスは立ち上がった。
「フォン!」
ゴムを取り出す。
「ちょっと貸して!」
「?」
金槌を受け取ると、柄へ薄いゴムを巻きつけた。端をしっかり固定する。
「……よし!」
フォンへ返した。
「これでやってみて!」
フォンは不思議そうに柄を握った。
ぎゅっ。
指が止まる。
握り直す。
先ほどまでの鉄とは違い、手の中で滑りにくい。
フォンは金槌を振り上げた。
ガンッ!
「……!」
もう一度。
ガン! ガン!
フォンが掌を開いた。
それから金槌の柄を確かめ、もう一度握る。
ガンッ!
手に当たる感触が柔らかい。強く握り込まなくても、柄が逃げにくい。
フォンの顔が輝いた。
「ゴム!」
「そう!」
ガンッ!
「ゴム!」
「だから俺の名前じゃないからね!」
フォンは構わず金槌を振った。
ガン!ガン!ガン!
「ゴム!」
「気に入った!?」
フォンが満面の笑みで頷いた。
その様子を見て、周りの職人たちが集まってきた。
「何だ?」
「その柄は?」
一人が金槌を借りて振る。
「……おっ?」
別の職人も試す。
「握りやすいぞ」
「これなら手が滑りにくい」
「どこで手に入れた?」
アルスには言葉が分からない。
「……何て言ってるの?」
スカラが答えた。
「売ってくれ、と」
「……え?」
「私にも一本」
「俺にも」
「その黒いものだけでもいい。五千シェンカでどうだ?」
声が重なった。
アルスは、しばらく呆然としていた。
「……売れた」
スカラを見る。
「スカラ!」
「聞こえている」
「売れたよ!」
「ああ」
「一個も売れなかったゴムが!」
アルスは勢いよくフォンを抱きしめた。
「フォン!ありがとう!」
「ゴム!」
「アルス!」
工房に笑い声が広がった。
スカラは、ゴムを巻いた金槌を手に取った。
「……なるほど」
「何?」
「私はゴムの性質ばかり説明していた」
スカラは柄を押してみた。
「でも、アルスはフォンの手を見た」
「俺はただ、痛そうだなって思っただけだけど」
アルスは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「でも、物を売るって、誰かの困ってることを見つけるところから始まるのかもね」
スカラは、アルスのその言葉を噛みしめるようにもう一度金槌を握った。
***
数日後。
「工場を作る!?」
アルスの声が部屋中に響いた。
「ああ」
スカラは机いっぱいに広げた注文書を眺めていた。
五十本。百本。ゴム付きの金槌が評判になって以来、注文は増え続けていた。
すでに二人だけで作れる量ではない。
「でもさ」
アルスは財布を逆さにした。
チャリン。
小さな硬貨が二枚、机へ落ちた。
「……二十シェンカ。これしかないよ?」
「足りないね。五百万シェンカほど欲しい」
「でしょ!?」
「なら、集めよう」
「……え?」
「大勢の人から、少しずつ出してもらえばいい」
アルスは眉間にしわを寄せた。
「知らない人が、工場作ってくださいってお金くれるの?」
「ただではくれないよ」
スカラは紙を一枚置いた。
「出してくれた金額に応じて、工場の持ち分を渡す。商売が成功して利益が出たら、その一部を分けるんだ」
「……つまり?」
「例えば、アルスがお金を出す」
「うん」
「そのお金で工場を建てる」
「うん」
「工場が儲かって利益を分配することになれば、アルスにも持ち分に応じてお金が入る」
「……じゃあ、働かなくても?」
「そういう場合もある。ただし、失敗したら出したお金を失うこともある」
「……怖っ!」
スカラは紙に文字を書いた。
「旧文明では、こうした仕組みを持つ『株式会社』が広く利用されていた」
「かぶ……?」
アルスは文字を覗き込んだ。
「難しそう」
「考え方は単純だよ。一人ではできないことを、大勢の力を集めて実現する」
アルスは少し考えた。
「……船を作った時みたいなもの?」
スカラの手が止まった。
「……かなり近い」
コタで船を造った時も、一人ではできなかった。
木を切る人。帆を作る人。魚を獲る人。ゴムを採る人。村中の力が集まったから、海を越えられた。
今度は、人の手だけでなく、お金も集める。
「よし!」
アルスが立ち上がった。
「じゃあ、やってみよう!」
最初に訪れたのは、シェンクゥでも有名な大商人だった。
スカラが計画書を広げる。
「この工場ができれば、もっとたくさん作れます」
商人は紙を眺めた。
「つまり、俺が金を出して、お前たちが使うのか?」
「そうです」
「断る」
「……え?」
「持ち逃げされたら終わりだからだ」
「……持ち逃げ?」
商人は呆れたように笑った。
「昨日来たばかりのよそ者に、五十万シェンカも渡す馬鹿がどこにいる?」
「……」
「商売はな、品物が良ければそれでいいってもんじゃない。お前たち自身を信用できるかどうかだ」
男は計画書を突き返した。二人は、何も言い返せなかった。
店を出ると、スカラは帳面を開いていた。
「信用不足、と」
「それも記録するの?」
アルスは少し笑った。
「スカラって、本当に諦めないね」
「記録が増えただけだよ」
その日の夕方。
工房へ戻った二人に、一人の職人が声をかけた。
「……君たち、工場を造るんだって?」
アルスが振り返る。
「そうだけど……」
男はゴムを巻いた金槌を持っていた。
「うちの連中、これのおかげで仕事がずいぶん楽になった」
そして、硬貨の入った袋を差し出した。
「五万シェンカでよければ、出そう」
「……え?」
アルスが固まった。
別の職人も近づいてくる。
「俺も少し出せるぞ」
「将来の利益を分けてくれるんだろ?」
「ああ。でも、失敗したら戻ってこないかもしれない」
「分かってるよ」
職人は金槌を持ち上げた。
「これを毎日使ってるのは、俺たちだからな」
一人。
また一人。
少しずつ、お金が集まり始めた。
注文が増えるたび、二人は工房へ通い、職人たちと試作品を作った。
失敗もした。使っているうちに剥がれるものもあれば、思ったほど役に立たないものもあった。
それでも、注文は少しずつ増えていった。
その様子を見た商人たちも、出資を申し出るようになった。
やがて、必要な資金が揃った。
そして数か月後。
工場が建った。
最初に作ったのは、もちろんゴム付きの金槌だった。
だが、そこで終わらなかった。
ある職人は、つるはしの柄に巻いた。別の職人は、荷車の取っ手へ。誰かは、靴の裏へ貼りつけた。
工具。手袋。荷車。雨具。アルスたちが考えもしなかった使い方が、次々と生まれていった。
「……すごいな」
アルスは工場の前に立っていた。
「俺たち、こんな使い方、考えてなかったよ」
「当然だよ」
スカラが答えた。
「毎日その道具を使う人間の方が、何に困っているかよく知っているからね」
やがて、コタから持ってきたゴムは、すっかりなくなった。
そこで、新しい注文に応えるため、次の船がコタへ向かう。山の村でも採液と加工が進み、海を越えるゴムの量が増えていった。
遠い南の島で採れた白い液体が、今では大陸の職人たちの手に渡っている。
街角に立つアルスの目の前を、荷車が通る。その取っ手には、ゴム。建物を解体する男のつるはしにも。屋根で働く職人の靴底にも。
「あれ……」
アルスが笑った。
「あっちにも!」
また一つ。
「あそこにも!」
自分たちが持ってきたものが、知らない人の暮らしの中に入っている。
「……不思議だね」
「何が?」
「ヤナの村で見つけた、あの木から採れたゴムだよ」
アルスは行き交う人々を見た。
「海を渡って、俺たちが知らなかった使い方を、知らない人たちがどんどん見つけてる」
スカラも街を見た。そして、静かに言った。
「知識は、一度人に渡したら、もう自分だけのものではないんだね」
「……うん!」
アルスは嬉しそうに頷いた。
「やっぱりすごいな。知識って!」
スカラは、すぐには答えなかった。
――知識は、一度人に渡したら、もう自分だけのものではない。
ならば。
それが、自分の望まない使われ方をした時は?
「……スカラ?」
「いや」
スカラは小さく首を振った。
「何でもない」
街のあちこちでは、今日も鉄を叩く音が響いていた。




