第二十二話 王との契約
「この街で商売する!?」
馬車の中に、アルスの声が響いた。
「ああ」
スカラは平然と答えた。
「北へ進むには金と情報が必要だ。どちらも、この街なら手に入る可能性が高い」
「だからって、いきなり王様に会う!?」
「会える機会があるなら、使わない手はないだろう」
スカラは一枚の紙を差し出した。
そこには、数字がびっしりと並んでいた。
交通費 五百万シェンカ
宿泊費 三百五十万シェンカ
食費 二百八十万シェンカ
水・燃料費 百二十万シェンカ
装備・修繕費 三百万シェンカ
通行税・関税 百五十万シェンカ
雑費 百万シェンカ
緊急予備費 二百万シェンカ
合計 二千万シェンカ
「……何これ?」
「今後の旅に必要な資金の概算だよ」
「に、二千万!?」
「職人の日当が一万シェンカ程度だとすると、二千日分の賃金に相当する」
アルスは指を折って数え始めた。
「……何年?」
「五年半ほど。ただし、それは一切使わずに貯めた場合だ」
「無理じゃん!」
「だから商売をする」
「そんな簡単に言われても……」
アルスは頭を抱えた。
すると、スカラが馬車の窓を指さした。
「アルス。一つ問題だ」
「え?」
「この街で、なぜこれほど多くの人が暮らしていけると思う?」
アルスは窓の外を見た。
海から眺めたシェンクゥは、灰色の巨大な廃墟だった。だが、中へ入るとまるで違っていた。
ひび割れた壁に、窓のない建物。崩れた高層建築の足元には、木と布で造られた家々が寄り添うように並んでいる。
その下では、大勢の男たちが働いていた。
つるはしを振るい、瓦礫を砕く。崩れた壁の中から、長い鉄の棒を引きずり出す。
「あの人たち、何してるの?」
「採掘だろうね」
「採掘?山じゃないのに?」
「シェンクゥそのものが、巨大な旧文明の遺跡だからね」
馬車の横を、鉄屑でいっぱいになった荷車が通り過ぎた。
「建物から鉄や銅を取り出す。ガラスや古い機械の部品も、使えるものなら再利用する」
「……街を掘ってるんだ」
「そう」
スカラは窓の向こうを見た。
「この街全体が、一つの巨大な『都市鉱山』なんだよ」
「都市鉱山……」
アルスは、その言葉を口の中で転がした。
やがて馬車は、職人たちの集まる地区へ入った。
カン!カン!カン!
あちこちから金属を叩く音が聞こえてくる。
曲がった鉄を熱して伸ばす者。古い部品を削り直す者。溶かした金属を型へ流し込む者。
「掘り出したものを、そのまま売るだけじゃない。加工して、別の道具に生まれ変わらせる。それがこの街の産業だ」
「すごいな……」
アルスは目を輝かせた。
だが、すぐに何かに気づいた。
「……あれ?」
「何だ?」
「畑は?」
スカラが小さく頷いた。
「いいところに気づいたな」
見渡す限り、建物と道路と瓦礫ばかり。
コタなら少し歩けば森があり、海へ出れば魚を獲れた。
ここには、それがない。
「シェンクゥは、食料の多くを外から買っている」
「だから港に、あんなに米を積んだ船がいたんだ」
「その通り」
スカラは頷いた。
「鉄を掘る。道具を作る。外国へ売る。その金で食料を買う」
「……売れなくなったら?」
「困るだろうね」
アルスは、もう一度窓の外を見た。
働く男たち。行き交う荷車。高く積まれた鉄屑。
街は活気に満ちている。けれど、その活気は、古い建物を少しずつ壊すことで生まれていた。
「……いつか、鉄がなくなったら?」
スカラは答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「だからこそ、新しい商品には価値がある」
馬車が坂を上り始める。
「この仕組みを守っている王なら、商売の話を聞く理由があるはずだ」
「……本当に?」
「おそらく」
「その『おそらく』が怖いんだけど!」
***
宮殿は、廃墟の街を見下ろす丘の上にあった。
高い天井。色鮮やかな織物。彫刻が施された大きな柱。
だが、よく見ると壁の奥には古い鉄骨が剥き出しになっている。ここもまた、旧文明の建物を利用して造られた場所だった。
「コタの者たちよ」
広間の奥で、玉座に座った男が口を開いた。
「歓迎する」
スカラが深々と頭を下げ、アルスも慌てて真似した。
「遠路はるばる、よく来られた」
王は二人を見た。
「そなたたちは、“吠える海域”を越えてきたと聞いた」
「はい。木造船で渡って参った」
王の眉が動いた。
「木の船で……?」
「コタには優れた造船技術と、それを実現できる職人がいるので」
「さすが海の民だ」
王は感心したように頷いた。
「交流が途絶えて久しいが、コタの船乗りの腕については、こちらにも伝わっている」
「それに、もう一つ」
スカラが言った。
「海を越えるための切り札がありました」
「切り札?」
スカラがアルスを肘でつつく。
「え?あ!」
アルスは慌ててポケットを探った。
取り出したのは、小さな黒い塊。
「これです!」
両手で持つ。
びよーん。
思いきり伸ばした。
広間の視線が、一斉に集まる。
「……何だ、それは」
王が身を乗り出した。
「ゴムといいます」
アルスは少し得意げに答えた。
「伸びたり縮んだりするんです。それに、水を弾く膜にもなるし、船の継ぎ目を塞ぐこともできます」
「ほう……」
家臣が受け取り、王へ渡す。
王は指で摘んだ。
伸ばす。
戻る。
潰す。
また戻る。
「……妙なものだな」
「その素材について」
スカラが一歩前へ出た。
「シェンクゥ国内での独占販売を認めていただきたい」
広間がざわついた。
王の目が細くなる。
「独占販売だと?」
「はい」
「ずいぶん大きな要求をする」
「価値のある商品だと考えているので」
王はゴムをもう一度伸ばした。
「しかし、水を防ぐだけなら樹脂もある。鉄もある。わざわざその奇妙なものを使う理由があるのか?」
「あまりないかもしれない」
スカラはあっさり認めた。
アルスが驚いて振り返る。
「……え?」
コタでは散々、ゴムの可能性を語っていたのに。
スカラは続けた。
「必要ないとお考えなら、構わない」
「……何?」
「その場合は、隣国のダルカで販売を試みることにしようかと思う」
王の指が止まった。
「……ダルカ?」
隣にいた大臣が、身を寄せて何かを耳打ちする。
王の表情から、先ほどまでの余裕が消えていた。
「……一つ聞こう。そなたたちは、ダルカへ行って何をするつもりだ?」
「まだ決めていない。私たちは北へ向かうための道と情報を探している旅人なのでね」
「……そうか」
王はしばらく考え込んだ。
やがて、ゴムを家臣へ返した。
「よかろう。まずは一年間、シェンクゥ国内での独占販売を認めよう」
「本当!?」
アルスが思わず叫んだ。
「ただし」
王の声が低くなった。
「その間、そなたたちはこの国に留まることだ。成果が出なければ、そこで契約は終わりとする」
アルスが息を呑んだ。
スカラの目も、わずかに細くなる。
王は、それを見逃さなかった。
「不満か?」
「……いえ」
「北へ急いでいるのであろう?」
王は笑った。
「旅人が金を欲しがる理由など、大抵は次の旅だ」
「……」
「そなたは、この国で商売がしたいのではない」
王はスカラを見つめた。
「この国を、踏み台にしたいのだろう?」
アルスの背筋が冷たくなった。
だが、スカラはしばらく黙った後、静かに答えた。
「……お互い様かと」
王の口元が上がる。
「ほう?」
「王は、新しい素材を他国へ渡したくない。私は、旅の資金を得たい」
「……」
「互いに欲しいものがある。それでは駄目だろうか?」
広間が静まり返った。
王は、やがて声を上げて笑った。
「ははは!面白い!」
そして、玉座の肘掛けを叩いた。
「よかろう。一年だ。その間に、そなたたちの商売が本物かどうか見せてもらおう」
スカラは少し考えた。
一年。
北へ向かうには、確かに長い時間だ。だが、大陸の情報を集め、旅の資金を作るには、これ以上の街はないかもしれない。
「……分かった」
スカラは深く頭を下げた。
「その条件、飲もう」
アルスも慌てて続いた。
「では、交渉成立だ」
王が頷いた。
***
二人が広間を出た後。
王は、もう一度ゴムを手に取った。
びよーん。
伸ばす。
離す。
ぺちん。
指に張りついた。
「……」
王は眉をひそめた。
「それにしても、このぐにょぐにょしたものを、どうやって売るつもりなのだ?」
隣の大臣も首を傾げる。
「水を防ぐだけなら、確かにほかの素材もあります」
「そうだな」
王はゴムを眺めた。
「だが、あの娘はまだ何かを知っている顔をしていた」
大臣が目を上げる。
王は笑った。
「……一年で何をするつもりなのか、見物だな」
その手の中で、黒い塊がぐにゃりと形を変えた。




