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第二十一話 港の少年

「何だよ、あいつ!」


港へ着くなり、アルスの声が響いた。


「あの船、頼んでもないのに案内したから金よこせって!」


「シェンクゥの通貨を持っていないと言ったら、すぐに引き下がったけどな」


「もう!スカラも簡単に人を信じすぎだよ!」


「別に彼は嘘をついていない」


「え?」


「親切が無料ではなかったというだけだ」


「……なんか言いくるめられてる気がする」


スカラは気にせず船を降りた。


「行くぞ。入港の手続きをしないと」


「待ってよ!」


アルスも慌てて後を追う。桟橋へ足を踏み出した、その瞬間だった。


「――!」


耳が爆発したのかと思った。


四方八方から、聞いたことのない言葉が飛んでくる。


「な、何!?」


人。


人。


人。


どこを見ても、人だらけだった。


二人を見つけた商人たちが、一斉に集まってくる。


肌の色も、目の色も、髪の色も違う。


長い布を頭に巻いた男。色鮮やかな衣装を着た女。見たこともない帽子をかぶった老人。


鼻をくすぐる強烈な香辛料。魚を焼く煙。汗、潮、鉄錆。


コタの市場とは、何もかも違った。


アルスは圧倒されながら笑った。


「すごい歓迎ぶりだね!」


「違う」


スカラが周囲の声を聞き分ける。


「右の男は一泊三千シェンカでいいから自分の宿へ泊まれ。左は一万シェンカで布を買え。その後ろは食事なら自分の店が一番だと言っている」


「全員商売!?」


「交易都市だからね」


「怖いよ、この街!」


すると、今度は一人の商人がスカラへ小さな食べ物を差し出した。


「なんと!試食させてくれるらしいぞ」


漂ってきた刺激臭に、アルスは思わず鼻をつまんだ。


「うわっ!俺は遠慮しとく……」


「発酵した食品だ。問題ない」


スカラは平然と口へ運んだ。


もぐもぐ。


「……どう?」


「くさい」


「やっぱり!」


「でも、味は悪くない」


そう言いながら、もう一つ摘まんだ。


「絶対クセになってるでしょ!」


スカラは答えず、さらにもう一つ手を伸ばした。


すると、商人が笑顔で手のひらを差し出した。


「……?」


スカラが動きを止める。


アルスは嫌な予感がした。


「……まさか」


「試食は最初の一つだけだったらしい」


「ほらぁ!」


商人が何かを早口でまくし立てる。


スカラは少し考えて、残っていた食べ物を元へ戻す。


「……なるほど。これが商売か」


「違うと思う!」


二人は人混みをかき分けて進んだ。


その時だった。


「あれ?」


アルスは足を止めた。


一人の少年と目が合う。


自分と同じくらいの年だろうか。

短い黒髪。日に焼けた顔。汚れた作業着。


周囲の商人たちとは違い、少年は何も売りつけてこなかった。


ただ、こちらを見て笑っている。


「……?」


アルスも笑い返した。


すると、少年の腰で何かが光った。


「それ……」


鉄の金槌だった。


アルスは思わず近づいた。


「すごい!鉄のトンカチだ!」


少年は言葉の意味が分からないようだった。


だが、アルスの視線に気づくと、腰から金槌を抜いた。


「え?」


そのまま、アルスへ差し出す。


「……触っていいの?」


少年は笑って頷いた。


アルスは両手で受け取った。


ずしり。


想像以上に重い。コタで使っていた木槌とは、まるで違う。


「……すごいな」


アルスは金槌を持ち上げた。

柄まで金属でできている。


少年は近くにあった端材の鉄板を指さし、叩いてみろと身振りで伝えた。


「いいの?」


アルスは念のため懐を指さした。


「俺、お金ないよ?」


少年は腹を抱えて笑った。


それから、いらないと手を振る。


「……本当に?」


大きく頷く。


「じゃあ……」


アルスは金槌を振り上げた。


ガンッ!


鉄板が大きな音を立てた。


「おおっ!」


アルスの目が輝く。


「すごい威力!」


もう一度振り上げる。


ガンッ!


「……痛っ!」


アルスは思わず金槌を下ろした。


掌がじんじんと痺れている。


「何これ……手にすごい響く!」


少年が笑った。


アルスは金槌を返す。


少年は慣れた手つきで柄を握り、もう一度鉄板を叩いてみせた。


ガンッ!


大きな音。


だが、少年は平然としている。


「……痛くないの?」


当然、言葉は通じない。


少年は不思議そうに首を傾げた。


アルスは自分の掌をさすってみせると、少年は笑いながら自分の手を広げた。そこには、硬くなった豆がいくつもあった。


「……うわ」


アルスは思わず声を漏らした。


少年は気にするなと言うように手を振り、金槌を腰へ戻した。


その時。


今度は少年が、アルスの着ているカッパを引っ張った。


「……これ?」


少年が生地を摘んだ。


指先でこする。


裏返す。


不思議そうに首を傾げた。


アルスは笑った。


「これ、水を弾くんだよ!」


近くの水桶から少しだけ水をすくい、袖へ垂らす。


ころん。


水滴が丸くなり、生地の表面を転がり落ちた。


「ほら!」


少年が目を丸くした。


今度は、自分でも水を垂らしてみる。


ころころ。


「……!」


アルスは得意げに胸を張った。


「ゴムっていうんだ!」


袖の端についた黒っぽい膜を指で押す。ぷにっと凹んで、元へ戻った。


「ゴム!」


少年が真似した。


「そう!ゴム!」


少年は笑った。


そして、アルスを指さす。


「ゴム!」


「違う違う!」


アルスは自分の胸を指さした。


「アルス!」


「ゴム!」


「アルス!」


「ゴム!」


「絶対わざとだろ!」


意味は分からないはずなのに、少年は腹を抱えて笑った。アルスも、つられて笑う。


言葉は一つも通じない。

名前さえ、ちゃんと伝わっていない。


それなのに、なぜかこの少年とは話せているような気がした。


アルスは少年を指さした。


「じゃあ、君は?」


少年も自分の胸を指さす。


「フォン」


「フォン?」


「フォン!」


「そっか。フォンっていうんだ」


アルスは、もう一度自分を指さした。


「アルス」


フォンが満面の笑みを浮かべる。


「ゴム!」


「だからアルスだって!」


二人はまた笑った。


その様子を、スカラが少し離れたところから眺めていた。


アルスは、この街の言葉を一つも知らない。

フォンも、コタの言葉を知らない。


それでも、二人は笑い合っている。


スカラは少し考えた。


自分なら、五十の言語を使って相手と話すことができる。


だが、言葉を知らなくても、相手の考えていることが伝わる場合もあるらしい。


「……不思議だな」


「何が?」


アルスが振り返る。


「いや、何でもない」


スカラが答えた、その時。


カッ、カッ、カッ!


馬の蹄が石畳を叩く音が響いた。


人混みが左右へ割れると、一台の馬車が止まった。


中から数人の兵士が降り、最後に立派な服を着た男が姿を現す。


周囲の商人たちが、慌てて頭を下げた。


アルスもつられて頭を下げる。


「……誰?」


「役人だろうね」


スカラが言った。


「ちょうどいい」


「……何が?」


スカラは男へ向かって歩き出した。


「ちょっと、スカラ!」


アルスが慌てて追いかける。


スカラは役人の前へ進むと、シェンクゥ式に頭を下げた。


役人も、同じように返す。


二人が話し始めた。


アルスには、一言も分からない。


やがて役人が、驚いたように顔を上げた。


そして、二人の船を見る。


「……何、話してるの?」


アルスが小声で尋ねる。


「コタから来たのなら、あの木造船で“吠える海域”を越えたのか、と」


アルスは胸を張った。


「そうだよ!」


スカラが伝えると、役人の目が大きくなった。


南方の島々は、大陸から遠く離れた辺境の地。何十年もの間、危険な海が交易を阻んできた。


そこから、木造船がやって来た。


役人は再び船を見た。


そして、何かを早口で尋ねる。


「どうやって嵐を越えたのか、詳しく聞きたいそうだ」


「教えてあげれば?」


「……いや」


スカラは役人へ向き直った。


そして、人差し指を唇の前に立てた。


にやり。


アルスは、その顔を見た瞬間に嫌な予感がした。


「……スカラ?」


彼女が何かを告げる。


役人の表情が変わった。


「……え?」


もう一度、船を見る。


そして、慌てて部下を呼び寄せた。


「ちょっと!何言ったの!?」


アルスが尋ねる。


スカラは平然と答えた。


「この船が海を越えられた理由を知りたいなら、条件があると伝えた」


「……条件?」


「ああ」


スカラは笑った。


「この国の王に、会わせてくれ」


「……」


アルスは口を開いたまま固まった。


「……王様?」


「そうだ」


「なんで!?」


スカラは港を見渡した。


積み上げられた鉄。行き交う商人。

巨大な廃墟の下で動く、数えきれないほどの人々。


「この街で、少しやりたいことができたからね」


「……何を?」


スカラは答えなかった。


ただ、もう一度にやりと笑った。


アルスは頭を抱えた。


「絶対、ろくなこと考えてない……!」


その横で、フォンだけが楽しそうに笑っていた。


「ゴム!」


「だからアルスだって!」

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