第二十話 廃墟都市シェンクゥ
出港から八日目の朝だった。
「アルス」
甲板に立つスカラが、海の向こうを指さした。
「見えてきた」
「え?」
アルスは船室から飛び出した。
「どこ!?」
「正面」
目を凝らす。
水平線の向こう、朝靄の中に灰色の影がいくつも突き出していた。
最初は岩山だと思った。
だが、船が近づくにつれて、その形がはっきりしてきた。
「……え?」
アルスは目を見開いた。
それは、建物だった。
一本ではない。
十本。
百本。
天を突き刺すような細長い建築物が、入り江を取り囲むようにそそり立っている。
壁は半分以上崩れ、内部の骨組みが剥き出しになっていた。ところどころに残ったガラスが、朝日を受けて無機質に輝いている。
「……何、あれ」
アルスは呆然と呟いた。
コタで一番高い建物でも、せいぜい数階分しかない。
目の前にあるものは、その何十倍もの高さだった。
「旧文明の建物だよ」
スカラが答えた。
「……人間が造ったの?」
「ああ」
「どうやって!?」
「鉄やコンクリートを使って、非常に大きな構造物を造る技術があったんだ」
アルスは、もう一度建物を見た。
「……あんなに高いところで、何してたの?」
「暮らしたり、働いたりしていた」
「ええ!?」
アルスは首が痛くなるほど見上げた。
「なんで、わざわざ?」
「土地が限られていたから、上へ伸ばしたんだ。それと……」
「それと?」
スカラは少し考えた。
「高い方が偉そうに見えるからじゃないか?」
「そっちもあるの!?」
「人間は時々、そういうことにものすごい労力を使う」
「変なの」
「私もそう思う」
船は入り江へ近づいていった。
灰色の建築群が、次第に視界いっぱいに広がっていく。
アルスは、ふと気づいた。
「……色がない」
コタでは、どこを見ても緑があった。
森の緑。
海の青。
家々を覆う植物の葉。
けれど、目の前に広がっているのは、灰色の壁と、赤茶けた鉄ばかり。まるで巨大な生き物の骨が並んでいるようだ。
「……ここに、人が住んでるの?」
「ああ。シェンクゥは大陸有数の交易都市だ」
「この中に?」
「そう」
アルスは信じられなかった。
こんなに壊れた街で、どうやって暮らすのだろう。
その時だった。
「あっ!」
アルスが声を上げる。
建物の足元に、何かが動いていた。
人だった。
一人や二人ではない。何百人もの人間が、灰色の建物の下を行き交っている。
船が近づくにつれ、街の音が聞こえ始めた。
鐘の音。
金属を叩く音。
荷車の車輪が石畳を転がる音。
そして、数えきれないほどの人々の声。
「……すごい」
アルスは船縁へ身を乗り出した。
巨大な建物の足元には、小さな家々がびっしりと並んでいた。
古い壁に木の梁を渡し、布で屋根を作った家。
崩れた建物の中に、店を開いている商人。
鉄骨から縄を吊り、荷物を引き上げている男たち。
壊れた街の中で、新しい街が動いていた。
「……生きてるんだ」
アルスが呟いた。
「何が?」
「この街」
スカラは、その言葉を聞いて少しだけ笑った。
船は港へ近づいた。
そこには、大小さまざまな船がひしめいていた。
大きな帆船。
細長い河船。
船体を金属で覆った頑丈そうな貨物船。
岸壁には、山のような木箱と袋が積まれている。
鉄。布。香辛料。見たこともない色の果物。それらを運ぶ荷車が、次々と通り過ぎていった。
「うわ! 見て!」
巨大な船が真横を通った。
甲板には山のように袋が積まれ、その一つから白い粒がこぼれている。
「米だ!」
「隣国ダルカから来た交易船だろう」
「ダルカ?」
「シェンクゥの北西にある国だ。大きな川が流れ、農業が盛んだと聞いている」
「へぇ……」
アルスは船を見上げた。
そして、あることに気づく。
「……あれ?」
「何だ?」
「あの船、木じゃない!」
船腹が鈍い光を放っている。
「鉄だ!」
「そうだね」
「沈まないの!?」
「船全体で考えれば、十分な水を押しのけられるからね」
「……?」
「押しのけた水の重さに応じて、上向きの力が――」
「あ、やっぱいいや」
スカラがアルスを見る。
「聞いたのはそっちだろ」
だが、アルスはもう別のものを見ていた。
岸壁の奥。
男たちが、巨大な建物の崩れた壁から鉄の棒を引き抜いている。
そこから荷車へ積み、港の反対側へ運んでいった。
「……スカラ」
「何だ?」
「あの人たち、建物を壊してるの?」
スカラも、その方を見た。
剥き出しの鉄骨。崩れた床。そこから次々と運び出される鉄。
「……なるほど」
「何?」
「この街が何で栄えているのか、少し分かってきた」
「え?」
「新しく鉄を造るだけじゃなく、旧文明の建物から大量の鉄を取り出しているんだ」
アルスは目を丸くした。
「……街を壊して、売ってるの?」
「そういうことになるね」
二人は、灰色の建築群を見上げた。
はるか昔に造られた街。その骨を、人々が少しずつ抜き取っている。
「……なくなっちゃわないの?」
アルスが尋ねた。
スカラは答えなかった。
巨大な廃墟から、今日も鉄が運び出されている。
その光景が、少しだけ気になった。
その時、横から一艘の小舟が近づいてきた。
日に焼けた男が、大きく手を振りながら何か叫んでいる。
「……何て言ってるの?」
アルスが首を傾げた。
「どこから来たのか、と聞いている」
「分かるの?」
「ああ」
「シェンクゥの言葉も話せるんだ」
「話せるのは五十言語程度だ」
「五十!?」
「読むだけなら三千ほど」
「三千!?」
アルスの声が裏返った。
スカラは男に向かって話し始めた。聞いたことのない音が、淀みなく口から流れていく。
男も何かを返す。
スカラが頷くと、男は笑った。
アルスは、その横顔を見つめていた。
なんだか、いつものスカラではないみたいだった。
いや。
そもそも、自分はスカラについて何を知っているのだろう。
どこで生まれたのか。
どんな子どもだったのか。
どうして、あんなにたくさんのことを知っているのか。
何歳なのかさえ、知らない。
三年間、同じ家で暮らした。一緒に船を造り、海を渡ってきた。
なのに、まだ知らないことがこんなにある。
「……ねえ、スカラ」
「何だ?」
「北の果てにはここからどうやって行くの?」
スカラが振り返った。
「分からない」
「え?」
アルスは意外そうに目を丸くした。
「私が探している場所については、名前しか知らない」
「名前?」
少しだけ間が空いた。
「方舟」
「……ふね?」
「私もそう思った」
「違うの?」
「……分からない」
アルスは、スカラを見た。
三千もの言語を読める少女。世界中の知識を知っている少女。その彼女が、どこにあるかも分からない場所を探している。
「……なんか」
アルスが笑った。
「ちょっと安心した」
「なぜ?」
「スカラでも、分からないことがあるんだなって」
スカラは首を傾げた。
「最近、増えたよ」
アルスは笑った。
「俺もだよ」
「そうか」
「ああ。でも、だから面白いんだと思う」
スカラは、しばらくアルスを見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……そうだね」
その時。
「アルス」
「何?」
スカラが前を指さした。
「登録されていない船は、港で手続きが必要らしい。あの男が案内してくれるそうだ」
小舟の男が、こちらへ手招きをしている。
「へぇ!」
アルスは笑った。
「親切な人だね!」
「そうだね」
スカラも頷いた。
船は小舟の後を追い、港の奥へ進んでいった。
その頭上には、朽ちた高層建築が何本もそびえている。
そして、その足元では今日も人々が、古い街から鉄を運び出し続けていた。




