第十九話 吠える海域
久しぶりに、夢を見た。あの人の夢だった。
ーースカラ。
白い光の中に、懐かしい人が立っている。
顔は見える。声も聞こえる。それなのに、手を伸ばせば伸ばすほど、その姿は遠ざかっていく。
―― 本を全部読み終えたら、北の果てで会おうね。
「待って」
スカラは手を伸ばした。
「北の果てって、どこ?」
あの人は、いつものように微笑んだ。
――大丈夫。
そして、あの日と同じ言葉を口にした。
――きっと“知識”が、あなたを導いてくれるはず。
「待って!」
ドンッ!
突き上げるような衝撃に、スカラは目を開けた。
狭い船室。軋む天井。壁に掛けられたランプが、振り子のように激しく揺れている。
バシャァン!
頭上で巨大な波が砕けた。
天井の継ぎ目から落ちてきた水滴が、スカラの頬を伝う。
「……夢か」
もう一度、船体が大きく傾いた。
テーブルに積んであった本が、雪崩のように床へ落ちていく。
「うわぁぁぁ!」
甲板から、聞き慣れた悲鳴が響いた。
スカラは跳ね起きた。
船室の扉を開けると、途端に横殴りの雨が顔へ叩きつけてきた。
空も、海も、真っ黒だった。
山のような波が次々と押し寄せ、そのたびに船首が空へ持ち上げられる。
そして――落ちる。
ドォン!
船底が海面を叩き、腹の底まで揺さぶられた。
コタと大陸の間に横たわる、嵐の巣窟。
何隻もの船を呑み込み、人々から大陸への道を奪ってきた海。
――“吠える海域”。
その真ん中に、二人はいた。
「スカラ!」
甲板の向こうで、アルスが帆柱にしがみついていた。
顔は真っ青だった。
「話が違うよ! 嵐は来ないって言ってなかったっけ!?」
「言ってない」
スカラは濡れた髪をかき上げた。
「しばらく大気の状態は安定しそうだ、と言った」
バシャァン!
二人の間を巨大な波しぶきが横切った。
アルスは頭から海水をかぶった。
「これのどこが安定!?」
「予測できる範囲には限界がある。もっと正確な予報には、雨量計、風速計、気象レーダー……気象衛星も欲しい」
「そんなものコタにあるわけない!」
「だから予報が外れたんだ。天気予報をなめるな」
「なんでこっちが怒られてんの!?」
その時。
バキンッ!
頭上で嫌な音がした。
「帆を下ろせ!風を受けすぎてる!」
船長の怒声が響く。
船員たちが一斉に動いた。縄を引く者、舵を握る者、帆柱へ駆け寄る者。
だが、激しい風に煽られた帆は、なかなか小さくならない。
「アルス!そっちの縄を頼む!」
「分かった!」
アルスは帆柱へ走った。
目の前に迫る巨大な波に、船が大きく傾く。
その時、父の声が頭に浮かんだ。
――波を怖がるな。いや、怖がれ。怖ぇからこそ、目を離すな。
アルスは波の向きを確かめた。
「船長!次の波、左から来る!」
「分かってる!舵を戻せ!」
船長が叫ぶ。
アルスは歯を食いしばり、縄を引いた。
コタで何百回も繰り返した作業だった。
父と漁へ出た日々。
網の結び方。
風の読み方。
船を守るために必要なこと。
そのすべてが、今、役に立っていた。
「アルス!」
スカラが叫ぶ。
「大きいのが来る!」
目を上げる。
闇の向こうから、巨大な波の壁が迫っていた。
「……っ!」
アルスは縄を引いた。
力いっぱい。
帆が縮まり、風を受ける面積が小さくなる。
「スカラ!もう少し右!」
「これ以上は――」
「お願い!」
スカラが舵を押し込む。
船首が、ゆっくりと向きを変えた。
次の瞬間。
ドォォォン!
船が大きく持ち上げられた。
アルスは甲板へしがみつく。
水が顔を打ち、息ができない。空と海が、ひっくり返ったようだった。
そして。
ザバァン!
船首が、波の向こう側へ落ちた。
「……っ!」
アルスは顔を上げる。
船は、まだ浮いていた。帆柱も折れていない。
「……やった?」
だが、次の波が迫っている。
「アルス!」
スカラの声。
「まだ来る!」
「分かってる!」
アルスは立ち上がった。
「次も同じだ!」
風の向き。
波の高さ。
船の傾き。
一つ一つを目で確かめる。
スカラは舵を握り、アルスの指示に合わせた。
二人は何度も波を越えた。
そのたびに船は軋み、帆は悲鳴を上げた。
けれど。
沈まなかった。
甲板には何度も波が押し寄せている。
窓も、扉も、激しく水を浴びている。
それでも、船内へ入り込む水は驚くほど少なかった。
船体の継ぎ目には、何度も試験を重ねて作った防水材が使われている。
コタの職人たちが組み上げた木材。
ヤナの村で見つけたゴム。
父から教わった操船の技術。
そのすべてが、今、この船を支えていた。
「……すごい」
アルスが呟いた。
「何が?」
「俺たちの船」
アルスは荒れ狂う海を見た。
怖い。
今だって、吐きそうなくらい怖い。
それでも。
「……負けてない」
大きな波を一つ越えた。
「この海に……」
もう一つ。
「負けてないよ!」
アルスが叫んだ。
スカラは、少年を見た。
三年前。
オオカミ岩で恐怖に震えていた少年。
あの時は、危険から遠ざけることしか考えなかった。
だが、今は違う。
アルスは怖がりながら、船を動かしている。
スカラは小さく笑った。
「……そうだね」
その時だった。
「……あれ?」
アルスが顔を上げた。
真っ黒だった空の向こうに、わずかな明るさが見える。雨脚も、少しずつ弱まっていた。
スカラは雲の動きを見た。
「……抜けられるかもしれない」
「本当!?」
「まだ油断出来ないが、雲の切れ間が近づいている」
アルスは舵を握るスカラを見た。
そして、笑った。
「じゃあ、もう少しだ!」
「ああ」
二人は再び、前を向いた。
吠えるような風。山のような波。
その先に、小さな光が見えている。
アルスは帆を支える縄を握り直した。
「……行こう、スカラ!」
スカラも頷いた。
「行こう!」
二人を乗せた船は、最後の大波へ向かっていった。




