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第十八話 出港

ヤナが港まで走ると、アルスは小舟の縁に腰掛けていた。


北の水平線を、じっと見つめている。


「アルス!」


振り返る。


「……ヤナ」


「探したよ」


「……ごめん」


ヤナは隣へ腰を下ろした。


「お父さんと、喧嘩したんだって?」


「……うん」


「あんなに怒るお父さん、初めて見た」


「俺もだよ」


アルスは苦笑いした。


二人は並んで海を見た。しばらく、何も話さなかった。


やがて、ヤナが口を開いた。


「……ちょっとだけ、ショックだった」


「え?」


「私ね、なんとなく、この先もずっとこうなんだと思ってた」


「こう?」


「山からコタへ来て、アルスと一緒に勉強して。知らないことを教え合って……」


海風が、二人の髪を揺らす。


「それが、ずっと続くのかなって」


アルスは口を開きかけた。だが、言葉が出なかった。


ヤナは、そんなアルスを見て笑った。


「でも、違ったんだね」


北の水平線へ目を向ける。


「アルスは、もっと遠くを見てたんだ」


「……」


「なんか、かっこいいな」


「え?」


ヤナが笑った。


「私、応援する」


アルスは驚いたようにヤナを見た。


「……寂しくないの?」


「寂しいよ」


ヤナは、少しだけ俯いた。


「すごく」


そして、顔を上げる。


「でも、行ってほしい」


「……」


「私も、やりたいことができたから」


ヤナは小さく笑った。


「もっと勉強して、山のゴムを、もっと役に立つものにしたい」


「……そっか」


アルスも笑った。


「じゃあ、負けられないね」


「うん!」


二人は顔を見合わせた。


「今度会う時、どっちがいっぱい発見してるか勝負だな!」


「絶対、負けません!」


アルスが笑った。


ヤナも笑う。


けれど、笑っているうちに、ヤナの目が少し潤んだ。


「……ねえ、アルス」


「ん?」


「ちゃんと、帰ってきてね」


アルスは、しばらくヤナを見つめていた。


そして、頷いた。


「……うん」


ヤナは立ち上がり、手を差し出した。


「約束です」


アルスは、その手を握った。


「約束!」


二人はもう一度笑った。


***


翌朝。

コタの港には、一艘の大きな木造帆船が浮かんでいた。


高く伸びる帆柱。波を受け止める大きな船体。幾重にも張り巡らされた縄。コタで伐り出された木材に、漁師たちの船造りの技術。そして、山の村から運ばれたゴム。


三年間の知恵と工夫が、その一艘に詰まっていた。


港は、祭りのような騒ぎだった。


「おーい! こっちの水も積んどけ!」


「食料は足りてるか!?」


「縄の確認、もう一回だ!」


漁師たちが忙しく甲板と岸を行き来している。


ヤナも、山から運んできた食料の包みを抱えていた。


「これ、持っていってください!」


「ありがとう、ヤナ」


スカラが受け取る。


「道中で役立つといいのですが……」


「きっと役に立つよ」


ヤナは嬉しそうに笑った。


その近くで、アルスは人混みを見渡していた。


「……父さん」


いない。


アグレオの姿が、どこにもなかった。


今朝のことを思い出す。


まだ薄暗い家の中、父はいつもどおり漁へ出る支度をしていた。


「……父さん」


声をかけると、アグレオの手が止まった。


だが、振り返らない。


「昨日の話」


低い声だった。


「……なしだ」


アルスの胸が沈んだ。


「それって……」


「お前には、漁を継がせねぇ!」


「……え?」


「漁師なめんな!」


アグレオが怒鳴る。


「そんな生半可な覚悟で、俺の跡継ぎが務まるか!」


アルスは呆然と父を見た。


「……父さん?」


アグレオは、また背を向けた。


しばらくの沈黙。


そして。


「だから、スカラと行け」


「……え?」


「行けっつってんだよ!」


アグレオは振り返らない。


「ただし!」


「……」


「半端なところで泣き言言って帰ってくんな!」


声を張り上げた。


「行くからには、世界の果てまで見てこい!」


アルスの目が潤んだ。


「……父さん」


「返事!」


アルスは背筋を伸ばす。


「……うん!」


大きく息を吸った。


「絶対、行ってくる!」


アグレオは片手をひらひらと振った。


「……さっさと行け!」


最後まで、父は振り返らなかった。


それでもアルスには分かった。


その声が、少し震えていたことを。


***


「アルス!」


ヤナの声で我に返った。


「……決まった?」


アルスは頷いた。


「ああ。行くよ!」


ヤナがぱっと笑った。


「よかった!」


「うん」


アルスも笑った。


だが、その目は少し赤かった。


ヤナは何も尋ねなかった。代わりに、アルスの手を握る。


「約束、忘れないでね」


「もちろん」


二人は笑った。


ヤナは今度は、スカラを見た。


「スカラさん」


「何?」


「アルスのこと、お願いします」


深々と頭を下げる。


アルスが吹き出した。


「その言い方、ヤナの方がお姉さんみたいじゃん!」


「えへへ」


ヤナが得意そうに笑う。


スカラは少し考えた。


「……善処しよう」


「そこは任せてって言ってよ!」


「何が起こるか分からないからね」


「ほんっと、最後までそういうところ!」


三人が笑った。


やがて、船から声がした。


「そろそろ出港するぞ!」


アルスは、大きな船を見上げた。


高い甲板。風を待つ帆。

三年間、自分たちで造ってきた船だった。


タラップへ足をかける。


一段。


また一段。


上がるにつれ、港が少しずつ低くなっていく。


スカラが隣へ立った。


「アルス」


「何?」


「本当にいいんだね?」


アルスはもう一度、港を見た。


父の姿は、やはりない。


しばらく見つめたあと、大きく息を吸った。


「……うん!」


顔を上げる。


「覚悟はできてる!」


スカラは頷いた。


「そうか」


そして、水平線へ向き直った。


「では、行こう」


「出港するぞー!」


縄が外される。


帆が風をはらみ、船体がゆっくりと動き始めた。


「行ってらっしゃい!」


「元気でなー!」


「絶対帰ってこいよ!」


港の人々が手を振っている。


ヤナも。

オサも。

漁師たちも。

市場の人たちも。


見慣れた顔が、少しずつ遠ざかっていく。


アルスは、ずっと手を振っていた。


船は沖へ進んだ。


港が小さくなる。


市場の屋根。

家々。

白い浜。

遠くの山。


毎日見ていた景色だった。


朝になれば漁へ出て、夕方になれば帰ってくる。

いつでも見られると思っていた。


でも。


離れて初めて、その一つ一つが急に愛おしく見えた。


「……きれいだな」


アルスが呟いた。


コタ。

自分が生まれ育った場所。


昨日までは、ただ住んでいる場所だった。


けれど、今日からは故郷になる。


「帆を張れ!」


バンッ!


大きな帆が風を捕まえた。


船は、北へ向かって速度を上げていく。


***


それからしばらく、船は島の沿岸を北へ進んだ。


白い浜が途切れ、切り立った崖が現れる。やがて、コタの家々は見えなくなった。


太陽は少しずつ傾き、海が黄金色に輝き始めていた。


アルスは船縁に立ち、遠ざかる島を眺めていた。


その時。


「……アルス」


スカラが声をかけた。


「何?」


「あれを見てごらん」


海の一点を指さす。


アルスは目を凝らした。


小さな舟が一隻。

岸沿いの方から、こちらへ向かってくる。


「……え?」


見覚えのある舟だった。


何度も乗った。何度も漁へ出た。父と一緒に網を投げた舟。


そして。


船尾に立つ、大きな男。


「……父さん!?」


アグレオだった。


懸命に櫂を漕ぎ、大きな船を追いかけてくる。


「アルスーッ!!!」


海の上に、父の声が響いた。


アルスは船縁へ駆け寄った。


「父さん!!!」


「お前ーッ!!!」


アグレオが叫ぶ。


「死ぬんじゃねぇぞーッ!!!」


「……っ!」


「何があっても!!!」


父の声が風に乗る。


「絶対に生きて帰ってこーい!!!」


アルスの胸の奥で、何かが弾けた。


「父さん!!!」


大きく息を吸う。


「絶対に!!!」


声の限り叫んだ。


「絶対に帰ってくるから!!!」


アグレオが、ようやく笑った。


その時。


「あれ……?」


アルスは気づいた。


父の後ろ。

島の方から、小さな舟が次々と現れていた。


一隻。


二隻。


十隻。


数えきれないほどの小舟が、大きな船を追いかけてくる。


コタの漁師たちだった。


「……みんな」


いつも一緒に海へ出ていた大人たち。


網の投げ方を教えてくれた人。

失敗して笑われた人。

魚が獲れた日に、一緒に喜んでくれた人。


皆が、舟の上から大きく手を振っている。


アルスも、思いきり手を振った。


「ありがとうーッ!!!」


声が裏返る。


「みんな、ありがとーッ!!!」


漁師たちから歓声が上がった。


その時だった。


アグレオが突然、舟の縁へ足をかけた。


「……え?」


バシャーン!


「父さん!?」


海へ飛び込んだ。


次の瞬間。


バシャーン!


バシャーン!


バシャーン!


ほかの漁師たちも、次々と海へ飛び込んでいく。


「ちょっと! 何やってんだよ!」


アルスが叫んだ。


だが、アグレオたちは楽しそうに笑い、海の中から手を振っていた。


「行ってこーい!」


「大きくなって帰ってこいよー!」


「世界の果ての魚、見つけてこーい!」


アルスは笑った。


泣きながら、笑った。


まったく。


本当に。


いつものコタの漁師たちだった。


スカラも、隣でその光景を見つめていた。


「……不思議だな」


「何が?」


「皆、なぜ海へ飛び込んだんだろう?」


アルスは思わず吹き出した。


「そんなの、俺にも分かんないよ!」


そして、もう一度笑った。


「でも、最高だ!」


やがて漁師たちは舟へ戻り、船から遠ざかっていった。


夕日が、海を赤く染めている。


アルスは、いつまでも島の方を見ていた。


頬を、一筋の涙が伝っていた。


スカラが隣から覗き込む。


「アルス」


「……何?」


「泣いているのか?」


アルスは頬を拭かなかった。


ただ、西の空を見た。


そして、少しだけ笑った。


「違うよ」


スカラを見る。


「西日が眩しいだけさ」


「……!」


その瞬間、スカラは思い出した。


アルスと出会った日の海。


黄金色の波。


頬を伝う涙。


――西日が眩しいだけさ。


あの日、アグレオが口にした言葉だった。


スカラは、しばらくアルスの横顔を見つめていた。


そして。


「……そうか」


小さく頷いた。


「今日は、眩しいね」


アルスが振り返った。


一瞬、驚いたような顔をする。


それから、笑った。


「……うん」


スカラも微笑んだ。


二人は、しばらく何も言わずに海を見ていた。


やがて、アルスが口を開いた。


「ねぇ、スカラ」


「何?」


「北の果てって、どんなところなの?」


「……知らない」


「えっ?」


アルスが目を丸くする。


「スカラでも知らないの!?」


「ああ」


スカラは頷いた。


「本に書いてあることは知っている。でも、今そこに何があるのかは知らない」


「……そっか」


アルスは水平線を見た。


「じゃあ、行ってみないと分からないね」


「そうだね」


スカラも海を見た。


遥か北。まだ見ぬ世界が広がっている。


「……楽しみだな!」


アルスが笑った。


スカラは、その顔を見た。


そして、少しだけ笑った。


「私もだ」


風が吹いた。


大きな帆が膨らむ。


船は、波を越えて進んでいく。


南の島を離れ、まだ見ぬ世界へ。


北方の大陸にある、かつての巨大都市――シェンクゥへ。

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