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第十七話 別れの報告

スカラは、窓辺に置いたガラスの気圧計を覗き込んでいた。


浜に流れ着いた旧文明の道具。

透明な管の中では、色のついた液体が小さな目盛りの間で静かに止まっている。


昨日。一昨日。そして今日。紙に記した数字を見比べた。


「……安定している」


窓の外へ目を向けた。


雲は高く、海は穏やか。ヤシの葉は、一定の方向へなびいている。


気圧。風向き。雲の動き。

数日分の記録と照らし合わせても、条件は悪くない。


もちろん、海の天気がこのまま続く保証はない。それでも、これほど出港に適した日が次にいつ来るかは分からなかった。


北へ向かうなら、今だ。


答えは出ている。


なのに。


スカラは、しばらく窓辺から動けなかった。


船は完成した。

試験航海も終えた。

不足しているものは、もうないはずだった。


「……?」


自分でも理由が分からないまま、気圧計をもう一度見た。


液面は、変わらず静かだった。


***


階段を下りると、食卓から聞き慣れた声がしていた。


「だから、こことここが同じ数になるんだよ」


「でも、どうしてですか?」


「うーん……ちょっと待って。スカラに聞こう」


テーブルには本と紙が広げられていた。

向かい合って座っているのは、アルスとヤナ。


「何をしている?」


「あ、スカラさん!」


ヤナが顔を上げた。


「この前教えてもらった化学式を復習してたんです!」


紙には、記号と線で描かれた小さな図が並んでいる。


「こんな図で、目には見えない物質のことまで分かるなんて、不思議ですね」


「原子の種類や数、結びつき方を表しているんだ」


「やっぱり面白いなぁ……」


ヤナは嬉しそうに紙へ目を落とした。


あの日以来、彼女は勉強のために山とコタを行き来するようになっていた。


もっと丈夫で、もっと使いやすいゴムを作る。

それが、ヤナの新しい夢になっていた。


「そういえば」


アルスが尋ねる。


「山で採れるあの実って、干したらどれくらい持つの?」


「上手に乾かせば、半年くらいです」


「そんなに!?」


「海の魚はどうなんですか?」


「塩漬けなら結構持つよ。でも魚によって違うかな」


「へぇ……!」


今度はアルスが教える。次には、ヤナが教える。


海のことはアルスが知っている。山のことはヤナが知っている。


スカラは少し離れたところから、その光景を眺めていた。


三年前。

自分は、世界中のことを知っているつもりだった。


だが、書院の外には、知らないことがいくらでもあった。


そして今、二人は自分がいなくても、新しいことを学び始めている。


「おーい! 帰ったぞ!」


玄関の扉が勢いよく開いた。


アグレオが、大きな魚を抱えて入ってくる。


「今日はでけぇのが獲れたぞ!見ろよ、この――」


「皆、ちょうどよかった」


スカラが言った。


「一つ、報告がある」


三人が顔を上げた。


「明日、出港する」


「……」


一瞬、誰も反応しなかった。


窓の向こうから、波の音だけが聞こえてくる。


「……出港?」


アルスが聞き返す。


「大陸へ?」


「そうだ。明日の朝、北へ向かう」


アグレオが魚を下ろした。


「おいおい。いくらなんでも急すぎるだろ!」


「必要な準備は終わっている」


「でも、もう少し様子を見てからでも……」


ヤナも心配そうに言う。


三年かけて造った船。


コタの木材に、漁師たちの技術。そして、山から運ばれたゴム。

何度も試験を繰り返し、ようやく完成した船だった。


スカラは窓の外を見た。


「気圧は安定している。風向きもいい。次にこれだけ条件が揃うのがいつになるかは分からない」


アグレオは口を閉じた。漁師である彼にも、それは分かる。


海は、人間の都合を待ってくれない。


「……そうか」


アグレオは椅子へ腰を下ろした。


「じゃあ、積み荷の準備をしねぇとな」


「ありがとう」


スカラが微笑む。


その時だった。


「……俺も」


アルスが呟いた。


「ん?」


アグレオが顔を上げる。


「何だ?」


アルスは、ゆっくりと立ち上がった。


「俺も行く」


「……は?」


「スカラと一緒に、海の向こうへ行く」


部屋が静まり返った。


ヤナが目を見開く。


スカラも、驚いたようにアルスを見る。


アグレオだけは、しばらく動かなかった。


「……何言ってんだ、お前」


「ずっと考えてたんだ」


アルスは父を見た。


「三年前、俺はこの島のことすら、全然知らなかった」


「……」


「オオカミ岩だって、ただ怖い場所だと思ってた。でも、実際に行ったら違った」


少し笑う。


「山の向こうもそうだよ。呪われた土地だと思ってたら、俺たちの村を育ててくれてた」


ヤナを見る。


「知らないことを知るたびに、世界が広くなったんだ」


そして、窓の外へ目を向けた。


水平線の、その先。


「だったらさ」


アルスの目が輝いた。


「海の向こうには、どれだけ知らないことがあるんだろうって」


アグレオは黙ったままだった。


「俺、見てみたいんだ」


「……」


「もっと、知らないことを知りたい。それで、見つけたことを使って……また誰かの役に立てたらいい」


アルスはスカラを見た。


「スカラの旅についていくだけじゃない。俺も、自分の目で世界を見たいんだ」


その瞬間。


ガンッ!


アグレオの杯が、テーブルへ叩きつけられた。


「ダメだ」


アルスの笑顔が消えた。


「……なんで?」


「ダメなもんはダメだ!」


「理由になってないよ!」


「大陸を目指して、生きて帰ってきたやつはいねぇ!」


「でも、船は完成した!」


「船がありゃ死なねぇのか!?」


部屋が静まり返った。


アグレオが立ち上がる。


「吠える海域を越えたって、その先に何があるか分からねぇんだぞ!」


「だから行きたいんだよ!」


「お前はまだ若い!」


「関係ない!」


「ある!」


アグレオが怒鳴った。


握りしめた拳が震えている。


だが、アルスは引かなかった。


「父さんだって、知らない海へ漁に出るじゃん!」


「漁と冒険を一緒にするな!」


「俺にとっては一緒だよ!」


「……何?」


「知らない海で、知らない魚を見つける。父さんがいつも教えてくれたことじゃん!」


アグレオの口が止まった。


「俺は、それをもっと遠くでやってみたいんだ!」


「……」


「それの何がいけないの!?」


アグレオは歯を食いしばった。


「……じゃあ、漁はどうする」


「え?」


「誰が俺のあとを継ぐんだ!」


アルスの顔が強張った。


「……それが理由?」


「何?」


「俺が父さんの息子だから、漁師にならなきゃいけないの?」


「そういう意味じゃ――」


「じゃあ、何だよ!」


アグレオは答えなかった。


アルスの声が震える。


「俺、父さんみたいな漁師になるのが嫌なわけじゃないんだ」


「……」


「父さんのこと、誰よりも尊敬してる」


アルスはまっすぐ父を見た。


「でも……俺、自分で見つけたいんだよ」


「……何を」


「自分が、何になるのか」


アグレオの口が動いた。


だが、言葉は出なかった。


「……もういい!」


アルスは唇を噛み、勢いよく家を飛び出した。


「アルス!」


ヤナが慌てて後を追う。


バタン!


扉が閉まった。


***


残ったのは、スカラとアグレオだけだった。


窓の向こうから、波の音が聞こえる。


アグレオは立ったまま、テーブルを見つめていた。


やがて、力なく椅子へ腰を下ろした。


「……なぁ、スカラ」


「何?」


「俺は、どうしたらいい?」


スカラは答えなかった。


アグレオは小さく笑った。


「いつか、こうなる気はしてたんだ」


「……」


「あいつ、嬢ちゃんが来てから変わったからな」


窓の外を見る。


「海の向こうがあるって、知っちまった」


アグレオは自分の手を見た。


魚を捕まえ、舟を漕ぎ、息子を育ててきた手。


「本当は分かってる」


「何が?」


「漁師を継げってのも、まだ若いってのも……」


アグレオは俯いた。


「全部、後付けだ」


「……」


「ただ、怖ぇんだよ」


ぽつりと呟いた。


「嵐の海だぞ。どんな船を造ったって、絶対に安全なんてことはねぇ」


「……」


「あいつに何かあったらって思うと……」


言葉が途切れた。


スカラは、その横顔を見つめていた。


三年前。

オオカミ岩で、恐怖に震えるアルスを、自分は気絶させた。それが最も安全だと判断したから。


あの時、アグレオは激しく怒った。なぜ怒るのか、理解できなかった。


今なら、少しだけ分かる気がする。


「……アルスだけじゃねぇ」


アグレオが呟いた。


スカラを見る。


「嬢ちゃんのことだって、そうだ」


「……私?」


「三年も一緒に暮らしたんだぞ」


無理に笑った。


「何かあったらって思うに決まってんだろ」


スカラは黙った。


今朝、気圧計を見た時のことを思い出す。


出港に必要な条件は、すべて揃っていた。


なのに、すぐには窓辺から動けなかった。


「……私も」


スカラが呟いた。


アグレオが顔を上げる。


「ん?」


「今朝、出港を決めた時、少し迷った」


「……嬢ちゃんが?」


「ああ」


スカラは窓の外を見た。


夕暮れの港。三年間歩いた道。市場。工房。


いつも聞こえていた漁師たちの笑い声。


「……ここを離れるのが、寂しいんだ」


しばらくの沈黙。


やがて、アグレオが笑った。


「……やっと分かったか」


「……?」


「三年もかかりやがって」


スカラは首を傾げた。


「そんなに遅い?」


「遅ぇよ」


アグレオは目元をこすった。


「ほんっと、鈍すぎるぞ……」


言葉の続きは、出てこなかった。


スカラも、何も言わなかった。


窓の外では、夕日が海を赤く染めている。


やがてアグレオが立ち上がった。


「……なぁ、スカラ」


「何?」


「一つ、頼みがある」


スカラが振り返る。


アグレオは、しばらく言葉を探していた。


そして。


「明日の朝まで、俺に考えさせてくれ」


「……アルスのこと?」


「ああ」


アグレオは窓の外を見た。


「息子を失う覚悟なんざ、一晩じゃできねぇかもしれねぇ」


「……」


「でも、あいつの夢を奪う覚悟も……俺にはねぇんだよ」


スカラは、静かに頷いた。


階段の上では、気圧計の液面が変わらず静かに止まっていた。


明日の海は、出港に適している。

だが、アグレオがどんな答えを出すのかは、スカラにも分からなかった。

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