第26話 聞こえなかったもの
雨は、降らなかった。
それが、まずおかしかった。
あれだけ溜めて、
あれだけ空が重くなって、
それでも——落ちてこない。
街は安堵していた。
装置は成功した。
私たちは正しかった。
そんな声が、昼の光の中を歩いている。
私は、その声を**聞いていない**。
聞かないと決めたまま、
市場を歩いた。
水溜まりは、ない。
濡れた靴底の跡も、ない。
なのに。
空気が、乾いていない。
「……変だね」
マレナが言う。
「雨が降ってないのに、
終わった感じがしない」
私は、頷いた。
耳を澄まさなくても、分かる。
——これは、止まってない。
ただ、**遮られているだけ**。
谷へ向かう途中、
道の脇に、小さな羽根が落ちていた。
白くて、細い。
濡れていないのに、
指先が、ひやりとする。
拾い上げた瞬間、
胸の奥が、かすかに鳴った。
でも、音は聞こえない。
代わりに、**景色がズレた**。
谷の向こう。
雲の溜まり方。
川の流れ。
全部が、
「本来そこにあるべき位置」から、
ほんの少しだけ外れて見える。
「……マレナ」
「なに?」
「雨って、
“どこかに落ちるもの”だと思ってた」
自分でも、何を言っているのか分からない。
でも、言葉は止まらなかった。
「でも、
今は違う」
マレナは、黙って聞いている。
「落ちない雨は、
消えない」
「……溜まる?」
「ううん」
首を振る。
「**迷う**」
その瞬間、理解した。
聞いていた頃の私は、
雨の“声”だけを追っていた。
行き先。
量。
危険。
でも、今は違う。
聞こえないからこそ、
**残った痕跡**が見える。
谷の土が、
必要以上に乾いている。
街の空が、
必要以上に低い。
どちらも、
「雨が来る前提」で
成り立っていた形だ。
——止めたことで、
世界の前提が壊れ始めている。
「……これ」
私の手の中で、
羽根が、わずかに震えた。
音はない。
でも、確信がある。
**雨は、選択を嫌う**。
止められることも、
救われることも。
ただ、流れることを望んでいる。
「ユイ」
マレナが、静かに言った。
「聞いてないのに、
分かっちゃった顔してる」
私は、苦く笑った。
「……うん」
「たぶん」
「聞いてた時より、
悪いことに気づいた」
その夜。
空は、やっぱり鳴らなかった。
でも、街の外れで、
建物の壁に——
**二つ並んだ足跡**が残っていた。
猫のもの。
片方は、街へ。
もう片方は、谷へ。
どちらにも、進んでいない。
ただ、そこにある。
私は、それを見て、初めて理解した。
猫は、
選択の“結果”を見ているんじゃない。
**選ばなかった可能性**を、
記録している。
聞かなかったからこそ、
それが、はっきり見えた。
雨は、まだ終わっていない。
ただ——
もう、私の耳には頼ってこないだけだ。
私は、羽根を握りしめた。
聞く力を失って、
代わりに手に入れたものが、
重すぎる真実でないことを、
祈りながら。




