文車妖妃
ある日、一人の青年が車に跳ねられた。
その理由はさして特別なことではないので、ここでは語らない。
重要なのは、その後のことである。
意識を取り戻したのは病室であった。
周りを見ると、涙で顔を腫らした父母の姿があった。
家族にはもう一人、妹がいるのだがここにはいないようだ。
意識を取り戻したはいいものの、体がうまく動かない。
それどころか、体の末端からだんだん感覚が抜けていくのを感じる。
――ああ、おれは死ぬのか
彼は自分の死期が目前に迫っていることを悟った。
その消えかかった命の灯火を感じ取った父が声を上げる。
「心残りは! なにかしてほしいことはないのか!?」
――心残り、してほしいこと?
働きの弱くなった頭で考える。
なにかないだろうか、と考えた矢先、
――ああッ! そうだッ! アレをどうにかしないと!
ひとつの重大な問題に思い至る。
あまりの焦りに思わずゴホゴホッとむせてしまう。
突然むせ始めた彼の様子に心配する家族をよそに、あるひとつのものに思いを馳せる。
彼が思いを馳せたものとは、自室にあるPCであった
彼は少し特殊な性癖を持っていた。
『妹萌え』である。
ハマった原因が何だったかは覚えていない。
日々女らしく成長する妹に対しての劣情を発散させるためだったのか、
リアルの妹は決して言わないことを言ってくれる二次元の妹に惚れたのか、
詳細は覚えていないが、いつの間にかハマっていた。
だから彼のPCには、たくさんの妹モノのゲーム、画像、マンガ、小説などがある。
しかも、それだけではない。
彼には絵心があった。そして文章も書けるクチだった。
つまり、自炊していたのである。
モチロン自炊した作品の数々はHDDの中に格納されている。
――恥ずかしい! PCを PCを壊さないと!
必死に懇願するような目で父を見、搾り出すように声を出す。
「ぱ、ぱそこんを……」
壊してくれ、と二の句を言おうとしたところで舌が弛緩し、ろれつが回らなくなる。
「パソコン? お前のパソコンを見ればいいのか!? そうか、そうなんだな!!」
――違うッ! そうじゃないッ!
そう、叫びたいのだが声が出ない。
首を横に振ろうとするもうまく出来ない。
そして事態は最悪の方向に向かう。
「まだ家にいればいいが……」と電話をかける父。
「もしもし、お父さん!?」
受話器から漏れ出た声は妹のものだった。
「お前、今どこにいるんだ?」
「今家を出るところだよ。それより、お兄ちゃんは、お兄ちゃんは無事なの!?」
「ああ、今意識を取り戻した。でも、もうダメかもしれん」
「そんな……嘘だよね……?」
「本当だ、だから、お前に頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと?」
「そうだ、アイツが最後にしてほしいって言ったことだ。アイツの部屋に行き、パソコンの中を見てくれ」
「……パソコン?」
「詳しいことは俺にも分からないが、アイツは俺たちに是非見てほしいって、そう言ったんだ」
――いや、言ってねえし! マジやめて、アレを妹に見られるなんて、拷問じゃねえか!
「……わかった。見てくるから、ちょっと待ってて」
――待て、待ってくれ、いかないでくれ
――『おかえりなさい、お兄ちゃん』という妹ボイスの起動音と、両手を開いて出迎えてくれる自炊の妹絵をリアル妹に見られるなんて、そんなの耐え切れるワケがない!
危機に駆られた彼の心は、ふと奇妙な浮遊感に包まれる。
父母が泣き崩れる声が聞こえるが、そんなことは今やさして重要ではない。
彼の意識は今、ただ一点の場所のことのみを考えていた。
そしてその一点に向かい、一陣の風となって、それは飛翔する。
兄の最後の願いを叶えるため、妹は兄の部屋へと向かっていた。
そして、ドアに手をかけようとしたとき、電話の向こうから泣き崩れる父母の声が聞こえてきた。
――間に合わなかった……
彼女は悟る。
大好きな兄が、亡くなったということを……
――でも、泣いちゃダメだ。私にはお兄ちゃんから託された願いがあるんだから!
少女は気丈に心を奮い立たせ、ドアの取っ手をひねる。
大好きだった兄の最期の願いを叶えるために!
少女が開けたドアの先には、飾り気の無い兄の部屋があった。
窓際に配置された机の上に、目的のPCはあるはずだと、彼女は目線を窓のほうへ向ける。
――え? なにこれ、なにが起こってるの?
彼女が見たものは、到底信じられないものであった。
窓際には確かにPCがあった……のだが、その周りをボウッとした蛍のような光が包み込んでいた。
そして、それは明滅を繰り返しながら、その形を段々と変えていく。
その様子はさながら、蛹から羽化をする蝶のようであった。
収束していく光、そして現れたのは少女であった。
童顔でくりりとした目鼻立ちは、小動物のような印象を受ける。
そんな彼女と目が合った。
彼女は驚いたような顔をした後、自分の体をぺたぺたとさわり、そして現実逃避するように目を泳がせ始めた。
少女のその様子を見て、何か、すとんと落ちたような気がした。
挙動不審な少女の様子がテンパったときの兄の様子に似ているのだ。
そんなことありえないと思いつつも、声に出さずにはいられなかった。
「もしかして、お兄ちゃん?」
それに対し、甘ったるい声で、少女は返す。
「うん、そうだよ。お帰りなさい、お姉ちゃん」
ぽかんとする妹を尻目に慌てたように少女は続ける。
「あ、うえぇ、違、そうじゃなくてだな、えーと、つまり、お姉ちゃん大好き!……じゃなくて!」
文車とは、中世日本の公家社会で用いられた、手紙や書籍と言った文書を持ち運ぶための箱である。
そして、箱の中の文書に篭った執念が具現化し、女の形を成して世に出でたものを『文車妖妃』という。
こと情報化社会において、PCに篭められる執念はいにしえの比にあらず。
それゆえ、文車妖妃となる因子は誰しもが抱えているものである。
自身の執念は果たして具現化してもよいものであろうか?
PCに保存されていた数々の理想の妹像……
それを自ら演じることになってしまった彼のようになりたくなければ、一度確認して見ることをオススメする。




