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一章 第七通 届かない思い

昼食を終えた僕は、机の中に手を伸ばした。

指先に触れたのは、いつもと同じ白い封筒。

雨の日にだけ届く、死者からの手紙。

封筒の表には、二つの名前が記されていた。


『藤野千夏へ』


『遠野悠真』


「藤野千夏……?」

凛が僕の手元を覗き込む。

「知ってるのか?」

「いえ、聞いたこともありません」

「私も知らないな」

柚子も首を横に振った。


「同じ学校の人かもしれないな」

僕は封筒を裏返した。

差出人の名前をもう一度確認する。


遠野悠真。

「読んでみましょうか」

凛が静かに言った。

「ま、そだな。」


僕は封を切り、中から一枚の便箋を取り出した。

そこには、丁寧な字で文章が綴られていた。


『千夏へ。


突然こんな手紙を書いてごめん。

直接話せればよかったんだけど、どうしても言葉にできなかった。


あの日のこと、まだ覚えているかな。

僕は今でも、君と過ごした時間を思い出すことがあります。


君が勧めてくれた本のこと。

図書室でくだらない話をしたこと。

意見が合わなくて、少しだけ言い合いになったこと。


どれも、僕にとって大切な思い出です。


だから、もし許してもらえるなら、もう一度だけ君と話がしたかった。

どうしても伝えたいことがあったから。


遠野悠真』


「……」

読み終えた僕は、便箋を見つめた。

「どうかしましたか?」

凛が尋ねる。

「いや、少し気になることがあって」

「気になること?」

「肝心の伝えたいことが書かれてない。」


凛は便箋に目を落とした。

「あ……本当ですね」

「もう話すことができないって、わかってるはずなのに」

柚子が呟く。

「そういうことだ」


僕は便箋を丁寧に折り畳んだ。

この手紙を書いた人間は、もういない。

だからこそ、僕の机に届いた。

「差出人の遠野悠真さんも、亡くなっているんですよね」

凛が確認するように尋ねた。

「ああ」

「それなら、藤野さんもそれを知っているんでしょうか」

「たぶんな」


死んだ人間の名前を見て、何も感じない人間はいない。

ましてや、手紙の内容から察するに、二人は親しい関係だったのだろう。

「まずは藤野さんを探そう」

僕は手紙を封筒に戻した。

「うん。私も行く」

柚子が頷く。

「私もお手伝いします」

凛も続いた。

「頼む」

こうして、僕たちは藤野千夏という人物を探すことになった。



「藤野千夏? 二年A組の生徒だな」

担任の先生は、出席簿を確認しながら答えた。


「ありがとうございます」

「何か用事か?」

「少し聞きたいことがあって」

「そうか。あまり迷惑をかけるなよ」

「分かっています」


僕たちは礼を言い、教室を出た。

「二年生ですか、、」

凛が廊下を歩きながら呟いた。

「何だよ」

「いえ、先輩なんだなと、、、」

「一つしか違わないだろ」

「それでも先輩は先輩です」

「まぁ、そういうもんか。」

「二人とも、そんなことより早く行こうよ」

柚子が少し先を歩いている。

「そうだな」


僕たちは二年A組へと向かった。

廊下には、昼休みを過ごす生徒たちの姿があった。


「藤野さんって、どんな人なんでしょうね」

凛が言う。

「手紙の内容からすると、差出人とは親しい関係だったんじゃないかな」

「そうだな。少なくとも、もう一度話したいと思うくらいには」

「だったら、きっと喜んでくれますよね」

凛はそう言って微笑んだ。


僕は返事をしなかった。

手紙を受け取る人間が、必ずしもそれを望んでいるとは限らない。

今まで何度も、それを思い知らされてきたからだ。



二年A組に着くと、僕たちは近くにいた女子生徒に声をかけた。

「あの、すみません。藤野千夏さんはいらっしゃいますか?」

「ああ、千夏ならあそこだよ」

女子生徒が窓際を指差す。


そこには、一人の女子生徒が座っていた。

机の上には一冊の文庫本。

周りの生徒たちが楽しそうに話している中、彼女だけは静かにページをめくっていた。


「あの人かな」

柚子が小声で言う。

「たぶんな」


僕たちは彼女の席へ向かった。

「あの、藤野千夏さんですか?」

声をかけると、彼女は本から顔を上げた。

「……はい?」

肩まで伸びた黒髪に、落ち着いた雰囲気。

少し眠たそうな目をしているが、こちらを警戒しているようにも見える。

「突然すみません。僕たち、藤野さんに渡したいものがあって」

「私に?」


僕は鞄から手紙を取り出した。

「遠野悠真さんという人からの手紙です」

その瞬間だった。

彼女の表情が、わずかに変わった。

目が大きく開かれ、手元の本を握る指に力が入る。

けれど、それも一瞬のことだった。


「……いりません」

「え?」

「その手紙、いりません。持って帰ってください」

「でも、これは遠野さんが――」

「いらないって言ってるでしょ」

少し強い口調だった。


周囲にいた生徒たちが、何事かとこちらを見る。

「そんな人知りません。帰ってください。」

そう言って、彼女は再び本を開いた。

僕たちは、それ以上何も言えなかった。



「どうする?」

教室から少し離れた階段の踊り場。

僕は手紙を眺めながら、二人に尋ねた。

「どうするって……」

凛は困ったように眉を下げる。

「藤野さん、すごく嫌そうでしたね」

「そうだな」

「でも、遠野さんのことを知っているみたいだった」

柚子が言う。

「ああ。名前を聞いた瞬間、表情が変わった」

「もしかして、嫌いな人からの手紙だったんでしょうか、、」

凛がぽつりと呟いた。


「でも、手紙の内容を見る限り、遠野さんは藤野さんともう一度話したがっていた」

「……どうして、そこまで拒むんでしょうか、、、」

凛は窓の外を見た。

雨はまだ降っている。


僕は少し考えた後、封筒を鞄にしまった。

「調べてみよう」

「何を?」

「遠野悠真についてだ」

「でも、どうやって?」

「まずは先生に聞いてみる。あとは、藤野さんとの関係だな」

「分かった。私も手伝う」

柚子が頷いた。

「私もです。何か分かるかもしれません」

「頼む」

こうして、僕たちは遠野悠真という人物について調べ始めた。



放課後。

僕たちは図書室を訪れていた。

理由は単純。

手紙の内容に、図書室で過ごした思い出が書かれていたからだ。


「あの、すみません」

僕はカウンターにいた先生に声をかけた。

「少しお尋ねしたいことがあるんですが」

「はい。どうしましたか?」

「遠野悠真という人について、何かご存じありませんか?」

先生はその名前を聞くと、少しだけ目を細めた。


「遠野くん……」

「ご存じなんですか?」

「ええ。一年前、この学校にいた生徒ですよ」

先生は少し懐かしそうに笑った。


「陸上部に所属していた子でね。短距離走が得意だった。大会でも何度か入賞していたはずだよ」

「陸上部……」

凛が呟く。

「でも、怪我をしてしまってね。それからはあまり走れなくなった。部活にも顔を出さなくなって、しばらくしてから図書室に来るようになったの」

「本が好きだったんですか?」

柚子が尋ねる。


「最初はそうでもなかったと思うよ。怪我をして、今までの生活が変わってしまったからね。何か新しい居場所を探していたんじゃないかな」

先生は少し考えるようにしてから続けた。

「でも、ある生徒と仲良くなってからは、毎日のように本を借りるようになったんだ」

「その生徒って……」

「藤野千夏さんだよ」


やはり。

僕たちは顔を見合わせた。

「二人はよく一緒に本を読んでいたね。遠野くんが読んだ本を藤野さんに勧めたり、反対に藤野さんが遠野くんに本を紹介したり」


先生は窓際の席を見た。

「二人で感想を話している姿を何度も見たよ」

「仲が良かったんですね」

凛が言った。

「そうだね。少なくとも、私にはそう見えたよ」

「……どうして、二人は話さなくなったんですか?」

僕が尋ねると、先生は少し困ったような顔をした。


「詳しいことは分からないんだ。ある時期から、遠野くんが一人で来るようになってね。藤野さんの姿も見なくなった」

「喧嘩でもしたんでしょうか」

柚子が尋ねる。

「さあね。ただ、一つ覚えていることがある」

先生はカウンターの下から、一冊の古い貸出記録を取り出した。

「遠野くんは、亡くなる少し前まで同じ本を何度も借りていたんだ」

「同じ本?」

「ええ。返しては借りて、また返しては借りて。そんなことを繰り返していた」

「それって、何か理由があったんでしょうか」

「分からない。でも、最後に借りた時は、ずいぶん長い間その本を読んでいたようだったね」

先生は貸出記録を閉じた。

「その本は、今も図書室にあると思うよ」

「見せてもらうことはできますか?」

「もちろん」

僕たちは先生に案内され、図書室の奥へと向かった。



本棚の一番下。

そこに、一冊の文庫本が置かれていた。

表紙は少し色褪せている。

「これが遠野くんの最後に借りた本だよ」

先生が本を手渡してくれた。


僕は表紙を確認する。

タイトルは、僕も聞いたことがあるものだった。

「結構有名な小説だね。」

柚子が言う。

「そうですね。遠野さんが借りてた時期は今よりもっとポピュラーだったはずです。」

凛が本を覗き込む。

「どんなお話なんでしょう?」

「さあ。僕も読んだことはない」


僕はページを開いた。

すると、ページの端に小さな付箋が貼られていることに気づいた。

「……ん?」

そこには、手書きの文字が残されていた。

『千夏へ。次はここまで読んでみて』

「藤野さんへのメモか」

「他にもあるよ」


柚子がページをめくる。

『千夏が好きそうな言葉』

『ここ、少し難しいけど面白かった』

『この登場人物、千夏に似てると思う』


どれも、遠野が藤野に向けて書いたものなのだろう。

「なんだか、楽しそうですね」

凛が微笑む。

「本を通して、こんなに仲良くなれるんですね」

「そうだな」


僕は付箋を見つめた。

そこには、確かに二人の時間が残っていた。

遠野は、藤野と本を読むことが好きだったのだろう。

そして藤野も、きっと。

「……あれ?」

ふと、最後の方のページに挟まれた紙が目に入った。

他の付箋とは違う。

少し大きめの紙で、丁寧に折り畳まれていた。

開いてみると、そこには短い文章が書かれていた。


『千夏へ。

この本を最後まで読んだら、感想を聞かせて。

今度は、僕が最後まで聞く番だから。

遠野』


「最後まで聞く番……?」

凛が首を傾げる。

「どういう意味だろう」

「分からない。でも、これが二人の約束だったのかもしれない」


僕は紙を折り畳んだ。

遠野さんは藤野さんに何かを伝えたかった。

そして藤野も、何かを伝えられなかった。

そんな気がした。

「先生、この本は少しの間お借りできますか?」

僕は尋ねた。

「構わないよ。ただ、大切に扱ってね」

「ありがとうございます」

本を受け取った僕たちは、図書室を後にした。



翌日。

昼休みになると、僕たちは再び二年A組へ向かった。

藤野は昨日と同じように、窓際の席で本を読んでいた。

「あの、藤野さん」

声をかけると、彼女は顔を上げた。

「……またあなたたち?」

「何度もすみません」

「もう話すことはないって言ったはずだけど」

「今日は手紙の話じゃありません」

「じゃあ、何?」


僕は昨日見つけたメモを取り出した。

「これを見てほしいんです」

藤野の視線が、紙に吸い寄せられる。

「……それ」

「図書室にあった本に挟まっていました。遠野さんが書いたものだと思います」

「……どこにあったの」

「遠野さんが最後に借りた本です」


藤野は少しだけ目を伏せ、小さく呟く。

「……まだ残ってたんだ」

「遠野さんと一緒に読んでいた本なんですか?」

「知らない。そんなの。たまたま名前が同じだけでしょ。」

藤野はメモをくしゃくしゃにする。

「ちょ、、、なにして、、、!」


僕がそう言いかけると凛が一歩前に出て藤野の頬を叩く。

「ふざけないでください。遠野さんはあなたのことを思ってメモを残したり手紙を書いたんです。受け取らないのはあなたの自由ですが、気持ちをないがしろにするのは度がすぎています。」

凛が珍しく怒っている。

「ちょ、、凛、、、」

「行きましょう手紙くん。柚子さん。もうこの人と話すことなんてありません。」

そう言って凛は僕たちの手を引いて歩き出す。


「ほんっっとうにすみません、、、、」

凛が申し訳なさそうにしている。自分でもなんであそこまでムキになったかわからないようだ。

無理もない。

こいつはお父さんからの手紙を何より大事に受け取った。

他人の気持ちを何より大事にするそんなやつだ。


ただ、今回はそれが少し悪さをしただけ。

そう、それだけだ。


「お前には珍しく感情的だったな。」

「私が手紙を受け取らなかったときもあんな感じじゃなかったもんねぇ。相当カチンと来ちゃったんだ。」

「すみません、、、気持ちのこもった物を壊すような行為、、、見逃せませんでした、、、」

僕は凛の方に手をおく。

「すぎたこと考えても仕方ないだろ。これからのこと考えよう。」

「はい、、、」



そして、放課後。

僕たちは校門へ向かって歩いていた。

雨はすっかり止んでいた。

濡れた地面に、夕方の光が反射している。


僕は鞄の中の封筒に触れた。

まだ分からないことがある。

遠野は、手紙で何を伝えたかったんだろう。


なぜ、もう一度話したいと思ったのだろう。

そして、あのメモに書かれていた『今度は、僕が最後まで聞く番だから』という言葉。

あれは一体、何を意味しているのか。


「手紙くん」

凛が僕を呼んだ。

「何だ?」

「私、また藤野さんのところへ行きたいです。ちゃんと遠野さんの手紙を届けたい。でもその、、、不安なのでついてきてくれますか、、、?」

「もちろん」

柚子も頷いた。

「今度は、もう少し話してくれるかもしれないし」

「そうだな」

僕たちは校門を出た。


その時、僕はふと図書室の方を振り返った。

窓際の席。

そこに、一人の女子生徒が座っているのが見えた。

藤野千夏だった。

彼女は本を開いていた。

それは、遠野悠真が最後に借りた本だった。

けれど、彼女の指はページの途中で止まっていた。

まるで、その先へ進むことをためらっているように。



その日の夜。

僕は自室の机に、遠野悠真の手紙を置いていた。

もう一度、封筒の表を確認する。

『藤野千夏へ』

『遠野悠真より』


手紙の期限は、あと数日。

それまでに届けなければ、この手紙は消えてしまう。

これまでにも、何度かあった。


届けるかどうか迷っているうちに、手紙が消えてしまったことが。

今まではそれを待ち望んでいた。


けれど、今回は違う。

僕はもう、届けると決めている。

ただ、藤野が受け取ってくれるかどうかは分からない。

「……遠野悠真、か」


僕は便箋を取り出した。

そこに書かれていたのは、短い文章だった。

たった一通の手紙。

それなのに、二人の間には、僕たちの知らない時間がたくさんある。


その時間を、僕はまだ知らない。

遠野が亡くなる前、藤野と最後に会ったのはいつだったのだろう。

そして、遠野はなんのことを謝りたかったのだろうか。


僕は便箋を封筒に戻した。

その時、机の端に置いていた図書室の本が目に入った。

昨日、先生から借りたものだ。

僕は何気なくページをめくった。

付箋の貼られた箇所を一つずつ確認していく。


『千夏へ。次はここまで読んでみて』

『千夏が好きそうな言葉』

『ここ、少し難しいけど面白かった』


そして、最後のページに挟まれていたメモ。


『千夏へ。

この本を最後まで読んだら、感想を聞かせて。

今度は、僕が最後まで聞く番だから。

遠野』


僕はその文章を、しばらく見つめていた。

その時だった。

メモの裏側に、薄い鉛筆の跡があることに気づいた。

最初は、文字の裏写りかと思った。

けれど、よく見ると違う。

何かを書いて、消した跡だった。

僕は机のライトを近づけ、目を凝らした。

完全には読めない。

それでも、かすかに残った文字を追っていく。


『あの日、千夏が言ったことは――』

そこから先は、消えてしまっていた。

「……あの日?」

僕は顔を上げた。

遠野は、何を書こうとしていたのだろう。

そして、なぜそれを消したのだろう。

藤野はなぜあそこまで遠野を忘れたがっているんだろう。


遠野は、どんな思いだったんだろう。


彼女に謝りたかったのか。

それとも…


僕はもう一度、メモを裏返した。

消された文字の下に、さらに小さな文字が残っている。

そこには、こう書かれていた。

『本当は、あの日からずっと伝えたかったことがある』


僕は息を飲んだ。

遠野が藤野に伝えたかったこと。


僕は手紙を見つめる。

藤野千夏は、まだこの手紙を受け取っていない。


そして、遠野悠真が最後まで伝えられなかった言葉も、まだ僕たちには分からない。

「……もう少し、調べる必要がありそうだな」


一通の手紙を届けるまでに、僕たちはまだ知らなければならないことがある。

その夜、僕は初めて、手紙の本文よりも、書かれなかった言葉の方が気になっていた。

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