一章 第八通 今度は最後まで
翌朝。
目を覚ました僕は、枕元に置いていたスマホを手に取った。
時刻は午前七時。
いつもより少し早い。
昨夜は遠野悠真のことを考えていて、なかなか寝つけなかった。
机の上には、図書室から借りてきた文庫本と、彼から届いた手紙が置いてある。
『千夏へ。
突然こんな手紙を書いてごめん。
直接話せればよかったんだけど、どうしても言葉にできなかった。
あの日のこと、まだ覚えているかな。
僕は今でも、君と過ごした時間を思い出すことがあります。
君が勧めてくれた本のこと。
図書室でくだらない話をしたこと。
意見が合わなくて、少しだけ言い合いになったこと。
どれも、僕にとって大切な思い出です。
だから、もし許してもらえるなら、もう一度だけ君と話がしたかった。
どうしても伝えたいことがあったから。
遠野悠真』
何度読み返しても、最後の一文が引っかかる。
どうしても伝えたいことがあった。
それなのに、肝心の伝えたいことが書かれていない。
そして、あの本に残されていたメモ。
『今度は、僕が最後まで聞く番だから』
遠野は何を聞こうとしていたのだろう。
そもそも、二人の間で何があったのか。
藤野は遠野のことを忘れたがっているように見えた。
けれど、昨日の放課後。
図書室の窓際で、彼女は遠野が最後に借りた本を開いていた。
本当に忘れたいのなら、あんなことをするだろうか。
「……考えても仕方ないか」
僕は布団から起き上がった。
とりあえず、学校へ行こう。
考えるのは、それからでも遅くない。
「おはようございます、手紙くん」
教室に入ると、凛が声をかけてきた。
「おはよう。今日は早いな」
「昨日のことが気になって、あまり眠れなかったんです」
「お前もか」
「やっぱり手紙くんもですか?」
「ああ。遠野さんと藤野さんのことがな」
僕が席に鞄を置くと、柚子が教室を覗く。
「おはよう。二人とも、朝から難しい顔してるね」
「おはよう。昨日の続きだよ」
「そっか。私も気になってた」
柚子は僕の机に手をついた。
「それで、今日はどうするの?」
「まずは遠野さんについて、もう少し調べたい」
「図書室の先生に聞くの?」
「それもある。あとは陸上部の人にも話を聞いてみたい」
「なるほど……」
凛が少し考え込む。
「遠野さんが陸上部にいた頃のことを知っている人なら、藤野さんとの関係も何か知っているかもしれませんね」
「そういうことだ」
「じゃあ、私たちも一緒に行くよ」
柚子が言った。
「頼む」
「でも、その前に一つだけ」
凛が僕を見た。
「昨日のことなんですけど……」
「ああ」
昨日、藤野が遠野のメモをくしゃくしゃにした時のことだろう。
凛は彼女の頬を叩いた。
普段の凛からは想像できない行動だった。
「本当にすみませんでした」
凛は申し訳なさそうに頭を下げる。
「別に何度も謝る必要はないだろ」
「でも、手紙くんたちにも迷惑をかけましたし、藤野さんにも……」
「凛」
僕は彼女の言葉を遮った。
「昨日も言ったけど、すぎたことを考えても仕方ない。これからどうするか考えよう」
「……はい」
「それに、お前がやらなかったら多分僕もやってただろーしな。」
柚子も頷いた。
「私もびっくりしたけど、凛がどうして怒ったのかは分かるよ」
「柚子さん……」
「でも、次はすぐ叩かないようにね。」
「…はい」
「よし。じゃあ、この話は終わり」
僕は机の中に教科書を入れた。
昨日のことをいつまでも引きずっていても、何も進まない。
それに、遠野の手紙には期限がある。
僕たちに残された時間は、そう多くない。
昼休み。
僕たちは図書室へ向かった。
昨日の先生に、もう一度話を聞くためだ。
「あら、昨日の子たちね」
カウンターにいた先生が、僕たちに気づいて声をかけてくれた。
「こんにちは」
「こんにちは。借りている本のことかな?」
「いえ、少し遠野悠真さんについて聞きたいことがあって」
「遠野くん?」
先生は少し考えるように視線を上げた。
「昨日、陸上部にいたと聞きました」
「ええ。確かに陸上部だったわね」
「怪我をしてから、図書室に来るようになったんですよね」
「そうよ」
「その頃の遠野さんについて、何か覚えていることはありませんか?」
先生はしばらく考えていた。
「そうね……。怪我をしてから、最初の頃はあまり話さなかったわね」
「やっぱり、落ち込んでいたんでしょうか」
柚子が尋ねる。
「そうだったと思う。いつも窓際の席に座って、外を眺めていたから」
「外を?」
「ええ。陸上部の練習が見える場所だったの。練習している後輩たちを、ずっと見ていたわ」
その光景を想像する。
走りたくても走れない。
以前なら当たり前だったことが、ある日突然できなくなる。
僕には、その気持ちはよくわからない。
「でも、ある日から変わったのよ」
先生は微笑んだ。
「藤野さんが、遠野くんに本を勧めたの」
「それが二人の出会いですか?」
凛が尋ねる。
「そうね。最初は遠野くんも興味がなさそうだったけれど、藤野さんが何度も話しかけていたわ」
「藤野さんの方からだったんですね」
「ええ。遠野くんが一人でいるのを見て、放っておけなかったんじゃないかしら」
先生は懐かしそうに笑った。
「それから二人は、毎日のように図書室で過ごすようになったの。遠野くんが本を読むようになったのも、その頃からね」
「仲良くなったんですね」
柚子が言う。
「そうね。二人とも、本当に楽しそうだった」
先生は少しだけ表情を曇らせた。
「だから、あの頃の二人を知っていると、最後の方は少し寂しかったわね」
「最後の方?」
「ええ。遠野くんが亡くなる前のことよ」
僕たちは顔を見合わせた。
「何かあったんですか?」
「二人が一緒にいるところを、見かけなくなったの」
「それは、いつ頃からですか?」
「正確には覚えていないけれど……遠野くんが図書室に来るようになって、しばらく経った頃ね」
「その時、遠野さんはどんな様子でしたか?」
「以前と同じように本を読んでいたわ。ただ、誰かを待っているように見えることもあった」
「誰かを?」
「ええ。図書室の入り口を何度も見ていたの。藤野さんが来るのを待っていたのかもしれないわね」
僕は昨日のメモを思い出した。
『今度は、僕が最後まで聞く番だから』
遠野は、藤野と話したがっていた。
それは手紙にも書かれている。
「先生。遠野さんが亡くなる前、藤野さんは図書室に来ていたんでしょうか?」
「……そういえば、一度だけ見かけたわ」
「一度だけ?」
「ええ。遠野くんが亡くなる少し前だったと思う」
先生は記憶を探るように、ゆっくりと言葉を続けた。
「藤野さんは図書室の入り口に立っていたの。でも、中には入ってこなかった」
「どうしてですか?」
「分からないわ。しばらく遠野くんが座っている席を見て、それから帰ってしまったの」
「遠野さんは気づいていたんですか?」
「それは分からない。遠野くんは本を読んでいたから」
僕は考え込んだ。
藤野は遠野と話さなくなった後も、図書室に来ていた。
けれど、中には入らなかった。
もしかすると、仲直りしたい気持ちはあったのかもしれない。
ただ、きっかけを見つけられなかった。
「先生、ありがとうございます」
「いえいえ。何か分かった?」
「少しだけ」
「そう。藤野さんのこと、よろしくね」
先生はそう言って、僕たちを見送った。
図書室を出た僕たちは、次に陸上部の部室へ向かった。
グラウンドでは、数人の生徒が走り込みをしている。
その姿を見ていると、先生が話していた遠野の姿が頭に浮かんだ。
「陸上部って、今も練習してるんだね」
柚子がグラウンドを見ながら言った。
「そりゃ、当たり前だろ」
「いや、そうだけどさ」
「何か気になることでもあるのか?」
「遠野さんも、ここで走っていたんだよね」
「ああ」
「どんな気持ちだったんだろうね」
柚子の言葉に、僕は答えられなかった。
走っている人たちを見ながら、自分は走れない。
それがどれほど苦しいことなのか、僕には分からない。
ただ、遠野がその場所を離れたくなかったことだけは、想像できる気がした。
「こんにちは」
部室の前にいた男子生徒に声をかける。
「ん? どうした?」
「あの、少し聞きたいことがあるんですけど」
「何?」
「一年前に陸上部にいた、遠野悠真さんって知っていますか?」
その名前を出すと、男子生徒の表情が変わった。
「遠野先輩?」
「知ってるんですか?」
「もちろん。俺が入部した時には、もう怪我してたけど」
「そうなんですね」
「すごい人だったって聞いたよ。短距離のエースだったらしい」
男子生徒はグラウンドの方を見た。
「先輩たちからも、よく話を聞いてた。走るのが速いだけじゃなくて、後輩の面倒もよく見てくれる人だったって」
「怪我をしてからは、どうだったんですか?」
僕が尋ねると、男子生徒は少し言葉を選んだ。
「……あんまり、部室には来なくなったかな」
「やっぱり、走れなくなったからですか?」
「そうだと思う。でも、一度だけ練習を見に来たことがあるよ」
「一度だけ?」
「ああ。俺が一年になって少し経った頃かな。先輩がグラウンドの外から練習を見てたんだ」
「その時、何か話しましたか?」
「少しだけ。俺が声をかけたら、笑って『頑張ってるな』って言ってくれた」
男子生徒は懐かしそうに笑った。
「それから、『走るのって、やっぱりいいよな』って」
「……」
「その時は、俺も何て返せばいいか分からなかった。だから、適当に頷いちゃったんだけどさ」
彼は少しだけ目を伏せた。
「今思えば、もっと話せばよかったな」
遠野が亡くなった後になって、もっと話せばよかったと思う。
その後悔は、きっと簡単には消えないんだろうな。
「すみません。もう一つ聞いてもいいですか?」
「何?」
「遠野さんと藤野千夏さんが知り合いだったことは知っていますか?」
「ああ、藤野先輩?」
男子生徒は頷いた。
「遠野先輩が図書室に通うようになった頃、よく一緒にいたって聞いたことがある」
「二人が話さなくなった理由は分かりますか?」
「そこまでは知らないな」
彼は少し考えた後、付け加えた。
「でも、遠野先輩が亡くなる前、藤野先輩が部室の近くに来ていたことはあったよ」
「藤野さんが?」
「うん。部室の前まで来て、何か探しているみたいだった」
「誰かを待っていたんでしょうか」
凛が尋ねる。
「どうだろう。俺が見た時は、すぐ帰っちゃったから」
「それはいつ頃ですか?」
「遠野先輩が亡くなる、少し前だったと思う」
まただ。
藤野は図書室だけでなく、陸上部の近くにも来ていた。
それなのに、遠野とは会っていない。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、別に。遠野先輩のことなら、他にも聞いていいよ」
「ありがとうございます」
僕たちは頭を下げて、その場を離れた。
帰り道。
凛がぽつりと口を開いた。
「藤野さんも、遠野さんに会おうとしていたんでしょうか」
「その可能性はあるな」
「でも、どうして会わなかったんでしょう」
「分からない」
「二人とも、相手のことを気にしていたのに」
柚子が言った。
「結局、話せなかったんだね」
僕は頷いた。
遠野は藤野と話したがっていた。
藤野も、遠野に会おうとしていた。
それなのに、二人は会えなかった。
一体、何が二人の間にあったのだろう。
「ねえ、手紙くん」
凛が僕の方を向く。
「何だ?」
「藤野さんは、どうして手紙を受け取らないんでしょうか。」
僕は少し考える。
「……受け取ってしまったら、もう戻れなくなると思っているのかもしれない」
「戻れなくなる?」
「遠野が亡くなったことを、もう一度はっきりと認めることになるからだ」
凛は何も言わなかった。
「手紙を受け取らなければ、まだ何も終わっていないような気がする。そんなこともあるんじゃないか」
「……そうですね」
「でも、手紙を受け取らないままじゃ、遠野の言葉は届かない」
僕は鞄の中の封筒に触れた。
「それに、藤野が謝りたいと思っているなら、遠野の手紙を読むことは無駄じゃないはずだ」
「そうだね」
柚子が頷く。
「ただ、無理やり読ませるのは違うよね」
「ああ」
僕は昨日の凛の行動を思い出した。
遠野のメモをくしゃくしゃにされた時、凛は怒った。
それは、父親からの手紙を大切にしている凛だからこその反応だったのだろう。
けれど、手紙を大切にすることと、受け取る人にそれを強いることは違う。
「凛」
「はい?」
「昨日のこと、まだ気にしてるんだろ」
「……少しだけ」
「だったら、次に藤野と話す時は、まず相手の話を聞こう」
「相手の話を……」
「遠野が何を伝えたかったのかも大事だけど、藤野が何を思っているのかも大事だ」
凛はゆっくり頷いた。
「分かりました」
翌日。
僕たちは昼休みに、再び図書室を訪れた。
遠野が最後に借りた本について、もう少し調べるためだ。
「先生、昨日はありがとうございました」
「あら、また来たのね」
「少し確認したいことがあって」
僕は借りていた本をカウンターに置いた。
「この本なんですが、遠野さんが最後に借りた時、他にも何か記録は残っていませんか?」
「貸出記録なら昨日見せたものが全部よ」
「そうですか……」
「何か気になることがあった?」
「この本に挟まっていたメモのことです」
僕は遠野が残したメモを見せた。
『千夏へ。
この本を最後まで読んだら、感想を聞かせて。
今度は、僕が最後まで聞く番だから。
遠野』
先生はメモを受け取り、しばらく眺めた。
「これは……」
「何か分かりますか?」
「いえ、はっきりとは分からないわ。ただ、この本を読んでいた頃の二人のことを思い出したの」
「どんなことですか?」
「藤野さんはね、よく遠野くんに本の感想を話していたのよ」
「それは先生も見ていたんですよね」
「ええ。でも、少し変わったところがあって」
先生はメモを机に置いた。
「藤野さんは、自分の感想を話すのがとても好きだったの。遠野くんが何か言う前に、どんどん話してしまうこともあったわ」
「へえ」
柚子が興味深そうに聞く。
「遠野くんは、それをいつも楽しそうに聞いていた。時々、意見が違って言い合いになることもあったけれどね」
「それで、このメモの『僕が最後まで聞く番』というのは?」
「もしかしたら、二人の間で何か約束があったのかもしれないわね」
「約束……」
僕はメモを見つめた。
藤野が話し、遠野が聞く。
いつもは藤野が話す側だった。
ただ、この本は先に遠野が感想を話したのかもしれない。
だから、今野は遠野が聞く番。
そう考えると、少し意味が見えてくる。
けれど、それだけではない気がした。
「先生。藤野さんがよく話していた内容って、覚えていますか?」
「そうね……。本の感想以外にも、将来のことを話していたわ」
「将来?」
「ええ。藤野さんは、いつか自分の書いた物語を誰かに読んでもらいたいと言っていたことがあったの」
「物語を書くんですか?」
凛が目を輝かせる。
「そう。自分で小説を書いてみたいんだって」
「初めて聞きました」
「遠野くんも、よくその話を聞いていたわね。藤野さんが書いたものを読ませてもらう約束をしていたみたい」
僕は思わず顔を上げた。
「藤野さんが書いた物語……」
「ええ。でも、実際に書いたのかどうかは分からないわ」
「遠野さんは、それを読んだんでしょうか?」
「どうかしら。少なくとも、私が見ている限りでは、そういう場面はなかったわね」
僕は考え込んだ。
藤野は本が好きだった。
そして、自分でも物語を書きたいと思っていた。
遠野はそれを知っていた。
もしかすると、二人の間にあった約束は、本の感想を話すことだけではなかったのかもしれない。
「ありがとうございます。参考になりました」
「いいえ。何か分かったら、また教えてね」
「はい」
その日の放課後。
僕たちは二年A組へ向かった。
藤野に会うためだ。
正直、また拒絶されるかもしれないと思っていた。
けれど、今度は少しだけ違う話ができる気がした。
「あの、藤野さんいらっしゃいますか」
教室の入り口から声をかける。
彼女は窓際の席に座っていた。
僕たちを見ると、少しだけ眉を寄せる。
「……またあなたたち?」
「すみません。少しだけ話を聞いてほしくて」
「もう話すことはないって言ったよね」
「はい。でも、今日は遠野さんの手紙を渡しに来たわけじゃありません」
「じゃあ、何?」
「遠野さんのことを、もう少し教えてほしいんです」
藤野は本を閉じた。
「…何で私に聞くの」
「一番よく知っていると思ったからです」
「……知らないよ」
「でも、二人は仲が良かったんですよね」
「………昔の話」
「遠野さんが亡くなる前、図書室や陸上部の近くに来ていたと聞きました」
その瞬間、藤野の表情が変わった。
「誰から聞いたの?」
「図書室の先生と、陸上部の人です」
「そう……」
彼女は視線を落とした。
「私、何度か行ったよ」
「やっぱり」
「でも、会えなかった」
「どうしてですか?」
「分からない。会いに行こうと思っていたのに、いざそこに行くと、足が動かなくなった」
藤野は窓の外を見た。
「遠野くんがいるかもしれないって思うと、何を話せばいいか分からなくなった。謝ろうと思っていたのに、何て言えばいいのかも分からなかった」
「それで、帰ってしまったんですね」
「うん」
彼女は小さく頷いた。
「何度かそんなことを繰り返しているうちに、遠野くんが亡くなった」
「……」
「もう謝ることもできない。あの時、少しでも話していればよかったって、ずっと思ってる」
僕は彼女の言葉を遮らずに聞いた。
「それなのに、あなたたちは今さら手紙を持ってくる」
「……」
「何が書いてあるかなんて、分かってる。きっと、あの日のことを謝っているんでしょ」
「それは読んでみないと分かりません」
「どうせそうだよ」
藤野は少しだけ笑った。
「遠野くんは優しかったから。きっと、私のことを責めたりなんかしない」
「……藤野さん」
「だから、余計に読みたくないの」
「どうしてですか?」
「もし、何も責められていなかったら……」
彼女の声が少し小さくなる。
「私がずっと後悔してきたことが、何だったのか分からなくなるから」
僕は何も言えなかった。
藤野は続けた。
「遠野くんにひどいことを言った。謝ろうとしたのに、結局できなかった。ずっとそれを後悔してきた」
「はい」
「でも、もし遠野くんが私のことを許していたら? 私のことなんて気にしていなかったら? そうしたら、私だけが勝手に苦しんでいたことになる」
「……」
「そんなの、もっと嫌だよ」
藤野は机の上の本を握った。
「私は、遠野くんに謝りたかった。許してほしかった。もう一度、前みたいに本の話をしたかった」
彼女は少しだけ涙を浮かべ笑った。
「でも、もう遅いんだよ」
その言葉は、静かな教室に溶けていった。
僕は鞄の中の手紙に触れた。
遠野の手紙を渡すことが、藤野にとって本当に救いになるのか。
分からない。
けれど、彼女が抱えている後悔は、遠野の言葉を知らないままでは、きっと変わらない。
「藤野さん」
僕は口を開いた。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「何?」
「遠野さんが、藤野さんに何かを伝えたがっていたとしたら、どうしますか?」
「……え?」
「遠野さんは、手紙に『どうしても伝えたいことがあった』と書いていました」
藤野の目が揺れる。
「それが何なのか、僕たちには分かりません。でも、少なくとも遠野さんは、藤野さんに伝えたいことがあったんだと思います」
「……」
「それを知りたくはありませんか?」
藤野はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「今は、無理」
「そうですか」
「ごめん」
「いえ」
僕たちはそれ以上何も言わず、教室を出た。
廊下を歩いていると、柚子が口を開いた。
「藤野さん、やっぱり苦しそうだったね」
「ああ」
「でも、少しだけ本音を話してくれた気がする」
凛が頷いた。
「そうですね。以前よりも、遠野さんのことを話してくれました」
「手紙、読んでくれるかな」
柚子が尋ねる。
「まだ分からない」
僕はそう答えた。
「でも、少しずつ近づいている気がする」
凛は小さく頷いた。
「私、藤野さんにまた会いに行きたいです」
「そうだな」
「今度は、遠野さんの話だけじゃなくて、藤野さん自身の話も聞きたいです」
「それがいいと思う」
僕たちは階段を下りた。
その時、後ろから声がした。
「……待って」
振り返ると、藤野が立っていた。
「藤野さん?」
彼女は僕たちの方へ歩いてきた。
手には、一冊のノートを持っている。
「これ……見てもらってもいい?」
「何ですか?」
僕が尋ねると、藤野はノートを差し出した。
表紙には何も書かれていない。
「昔、書いていたもの」
「もしかして、小説ですか?」
凛が尋ねる。
藤野は驚いたように顔を上げた。
「どうして知ってるの?」
「図書室の先生から聞きました。藤野さんが物語を書きたいと思っていたって」
「……そっか」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「これは、遠野くんに読んでもらうつもりで書いていたもの」
「遠野さんに?」
「うん。いつか完成したら読んでほしいって言ってた。でも、結局完成しなかった」
ノートを開くと、そこには手書きの文章が並んでいた。
途中まで書かれた物語。
何度も書き直した跡。
ページの端には、遠野の名前が小さく書かれている。
「遠野くんに見せる前に、喧嘩しちゃったから」
藤野はノートを見つめた。
「それから、続きを書けなくなった」
「どうして僕たちにこれを?」
「……分からない」
彼女は困ったように笑った。
「ただ、遠野くんのことを調べているなら、これも何か関係あるのかなって」
僕はノートを受け取った。
ページをめくると、物語の主人公が誰かに向かって話しかける場面で止まっていた。
その先は、白紙だった。
「これ、遠野くんに読んでもらったことはあるんですか?」
「ないよ。見せる前に、喧嘩しちゃったから」
「そうですか……」
「ねえ」
藤野が僕を見た。
「遠野くんの手紙って、まだ持ってるんだよね?」
「ああ」
「その手紙には、何が書いてあるの?」
僕は少し考えた。
「藤野さんとの思い出と、もう一度話したかったということ。それから、伝えたいことがあったと」
「それだけ?」
「今のところは」
「……そっか」
藤野はノートを見つめた。
「私、もう少し考えたい」
「分かりました」
「そのノート、少しの間預けてもいい?」
「もちろんです」
「ありがとう」
彼女はそう言って、僕たちに背を向けた。
その背中を見送りながら、僕はノートを開いた。
遠野に読んでもらうはずだった物語。
そして、最後まで書かれなかった物語。
遠野の手紙と、何か関係があるのだろうか。
その日の帰り道。
僕たちは三人で歩いていた。
僕の鞄には、遠野の手紙と藤野のノートが入っている。
「藤野さん、小説の続き、書いていたんですね」
凛が言った。
「ああ。遠野に読んでもらうつもりだったらしい」
僕はノートのことを考えていた。
あの物語は、どんな話だったのだろう。
なぜ、途中で書けなくなってしまったのだろう。
「手紙くん」
凛が僕を見た。
「遠野さんは、藤野さんの書いた物語を読んでいないんですよね」
「ああ。少なくとも、藤野の話ではそうだ」
「もしかしたら、遠野さんの言う『今度は僕が聞く番』と言うのはこの物語を楽しみにしていると言う意味も含まれているんでしょうか。」
僕はノートを見た。
藤野が書いた物語は、途中で止まっている。
そして、遠野が残したメモも、どこか途中で止まっているように見えた。
まるで、二人の会話そのものが、そこで途切れてしまったように。
「もう一度、図書室の先生に聞いてみるか」
「何を聞くんですか?」
凛が尋ねる。
「遠野が最後に借りた本について。それから、藤野のノートについても」
「でも、ノートは藤野さんが書いたものだから、先生も知らないんじゃない?」
「そうだな。だから、別のことを聞く」
僕は歩きながら考えた。
遠野は亡くなる前、藤野に会おうとしていた。
藤野も遠野に会おうとしていた。
それなのに、二人は会えなかった。
その理由を知るためには、もう少しだけ過去を調べる必要がある。
翌日。
昼休み、僕たちは再び図書室を訪れた。
先生は昨日と同じようにカウンターに座っていた。
「あら、今日は何かしら?」
「すみません。また遠野さんのことで聞きたいことがあって」
「遠野くん?」
「藤野さんと会おうとしていたとき、遠野さんに変わった様子とかありませんでしたか?」
「いつも通り本を読んでいたと思うけれど……」
先生は少し考えた。
「そうだ。遠野くん、藤野さんが来たかどうか気にしていたわ」
「え?」
「ある日、私に聞いてきたの。藤野さんは最近図書室に来ていないのかって」
「それは、いつ頃ですか?」
「遠野くんが亡くなる少し前だったと思う」
「遠野さんも、藤野さんを探していたんですね」
凛が呟く。
「ええ。だから、二人とも会いたかったのかもしれないわね」
「でも、どうして会わなかったんでしょう」
柚子が尋ねた。
「そこまでは分からないわ。ただ……」
先生は少しだけ言葉を止めた。
「遠野くんは、藤野さんが来た時に、声をかけられなかったことを気にしていたようだった」
「声をかけられなかった?」
「ええ。私が、藤野さんが図書室に来ていたことを伝えたら、遠野くんは少し驚いていたわ」
「それで、何と言っていたんですか?」
「『そうだったんですか』って。それから、『次に来たら教えてください』って言っていた」
僕は思わず息を呑んだ。
遠野は藤野が来ていたことを知らなかった。
藤野も、遠野が自分を探していたことを知らなかった。
すれ違い。
たったそれだけのことが、二人の間に残ってしまった。
「先生。遠野さんが亡くなる前、最後に図書室に来た時のことを覚えていますか?」
「最後に……」
先生は目を閉じて考えた。
「そうね。確か、雨の日だったわ」
「雨の日?」
「ええ。いつもより長い時間、窓際の席に座っていたの」
「何をしていたんですか?」
「本を読んでいたわ。あの本よ」
先生は僕たちが借りている文庫本を見た。
「そして、帰る時に私に言ったの」
「何と?」
先生は少しだけ寂しそうに笑った。
「『次に来たら、藤野さんに渡したいものがあるんです』って」
「渡したいもの……?」
「ええ。何だったのかは分からないけれど」
僕は手元の本を見つめた。
遠野は藤野に渡したいものがあった。
けれど、それを渡すことはできなかった。
「先生、それはいつ頃のことですか?」
「遠野くんが亡くなる、数日前だったと思う」
「……そうですか」
僕は本を閉じた。
これで少しだけ分かった。
遠野は、藤野に会いたがっていた。
そして、何かを渡そうとしていた。
それが何なのかは分からない。
けれど、手紙の伝えたかったことと関係があるかもしれない
「ありがとうございます」
「いえいえ。何か分かったかしら?」
「少しだけ」
「そう。無理はしないでね」
僕たちは先生に礼を言い、図書室を後にした。
放課後。
僕たちは、藤野のいる二年A組へ向かった。
今日は、彼女にノートのことをもう少し聞いてみるつもりだった。
教室に着くと、藤野は窓際の席に座っていた。
昨日と同じように、机の上には本が置かれている。
「あの、藤野さん」
「……また?」
「すみません。少しだけ聞きたいことがあって」
「何?」
「遠野さんが亡くなる前、図書室に来ていたことはありますか?」
藤野は少しだけ目を伏せた。
「あるよ」
「その時、遠野さんに会おうとは思わなかったんですか?」
「思ってた」
「でも、会えなかったんですよね」
「うん」
彼女は静かに頷いた。
「何度か図書室まで行った。でも、遠野くんがいるかどうか分からなくて。中に入って、もし会ったら何を話せばいいのか分からなくて」
「それで帰ってしまったんですね」
「そう」
「遠野さんも、藤野さんが来ていないか先生に尋ねていたそうです」
藤野が顔を上げた。
「……え?」
「藤野さんが図書室に来ていたことを知らなかったみたいです。次に来たら教えてほしいって、先生に頼んでいたそうです」
「そんな……」
藤野は言葉を失った。
「遠野さんも、藤野さんに会いたかったんだと思います」
「……」
「だから、二人とも会いたかったのに、すれ違ってしまったんじゃないでしょうか」
藤野は俯いた。
しばらくして、彼女は小さく笑った。
「馬鹿みたい」
「え?」
「私たち、何やってたんだろうね」
その声は、少し震えていた。
「会いたいなら会いに行けばよかったのに。謝りたいなら謝ればよかったのに。どうして、そんな簡単なことができなかったんだろう」
「……」
「遠野くんも、私も。お互いに相手が来るのを待っていただけだったんだね」
僕は何も言わなかった。
それは、きっと僕たちが簡単に慰めていいことではない。
藤野が自分で気づき、受け止めなければならないことだ。
「ねえ」
藤野が顔を上げた。
「遠野くんの手紙、まだ持ってる?」
「ああ」
「見せてほしい」
「……読む気になったんですか?」
「まだ分からない。でも、もう一度だけ見てみたい」
僕は鞄から封筒を取り出した。
けれど、渡そうとしたところで、藤野の手が止まった。
「……ごめん。やっぱり、今はまだ、、、怖い」
「分かりました」
「もう少しだけ時間をちょうだい」
「はい。」
僕は封筒をしまった。
「それと、もう一つ聞きたいことがあるんです」
「何?」
「遠野さんが亡くなる前、何かを渡そうとしていたそうです」
藤野の表情が変わった。
「……何か?」
「先生がそう言っていました。藤野さんに渡したいものがある、と」
藤野はしばらく黙っていた。
そして、机の中から一枚の紙を取り出した。
「これ、見て」
それは、小さな紙片だった。
少し折れ曲がっていて、端が擦れている。
そこには、遠野の字で短い言葉が書かれていた。
『千夏へ。今度、渡したいものがある』
「これは……?」
「遠野くんからもらったもの」
「いつ?」
「喧嘩する少し前だったと思う」
「何を渡すつもりだったんでしょう」
柚子が尋ねる。
「分からない。聞こうと思っていたけど、結局聞けなかった」
藤野は紙片を握りしめた。
「これをもらった時、遠野くんはすごく嬉しそうだった。何かを準備しているみたいだった」
「それが、亡くなる前に渡したかったものかもしれないですね」
凛が言った。
「……そうかもしれない」
藤野は紙片を見つめていた。
「でも、もう分からないよ」
「……」
「何を渡したかったのかも、何を伝えたかったのかも。もう、本人に聞くことはできない」
僕は封筒を握った。
遠野が藤野に渡したかったもの。
それは何だったのだろう。
そして、どうして手紙には書かれていないのだろう。
「藤野さん」
「何?」
「その紙、少しだけ見せてもらってもいいですか?」
「いいよ」
僕は紙片を受け取った。
裏側には、何も書かれていない。
けれど、紙の端に小さな折り目がついていた。
何度も開いたり閉じたりしたような跡。
僕は紙片を返した。
「ありがとうございます」
「ううん」
藤野は紙片を大切そうにしまった。
「私、少し考えてみる」
「はい」
「遠野くんの手紙も、ちゃんと読むかどうか考える」
「分かりました」
僕たちはそれ以上何も言わず、教室を出た。
校舎を出る頃には、空が夕焼けに染まっていた。
「少し進んだね」
柚子が言った。
「ああ」
「藤野さん、遠野さんのことを少しずつ話してくれるようになったね」
凛も頷く。
「それに、遠野さんがなにかを渡そうとしていたのも分かりました」
「ただ、それが何なのかはまだ分からない」
僕は鞄の中の封筒を確認した。
手紙の期限は近い
もう時間がない。
「手紙くん」
凛が僕を見た。
「何だ?」
「私、藤野さんはきっと手紙を読んでくれると思います」
「どうして?」
「今日、遠野さんが会いたがっていたことを知った時、藤野さんはすごく驚いていました」
「そうだな」
「それに、遠野さんが渡そうとしていたものも大切に持っていました。きっと、忘れたかったわけじゃないんだと思います」
「……そうかもな」
「ただ、怖かったんだと思います。遠野さんのことを思い出すのが」
柚子が静かに頷いた。
「私もそう思う。忘れたいんじゃなくて、思い出すのがつらかったんだよ」
僕は二人の言葉を聞きながら、夕焼けの空を見上げた。
死んだ人間の手紙を届ける。
それは、ただ封筒を渡すだけのことだ。
けれど、その手紙を受け取る人間には、受け取るのには越えなければならないものがある。
時には、過去と向き合うこと。
時には、自分の後悔を認めること。
僕はそれを、誰よりも知っていた。
その夜。
僕は机の上に藤野のノートを広げていた。
彼女が遠野に読んでもらうつもりで書いていた物語。
途中まで書かれた文章の先には、白紙が続いている。
僕は最初のページから読み返してみた。
物語の主人公は、ある町に住む少年だった。
少年は、毎日同じ道を歩いている。
その道の先には、古い時計台があった。
時計台は壊れていて、針が動かない。
少年は毎日そこへ通い、時計を直そうとしていた。
けれど、どれだけ頑張っても時計は動かない。
ある日、少年は時計台の近くで一人の少女と出会う。
少女は少年に尋ねた。
『どうして、動かない時計を直そうとしているの?』
少年は答える。
『止まったままだと、不便だから。』
そこまで読んで、僕はページをめくった。
次のページには、少女の台詞が書かれていた。
『きっと何度やったって直らないよ。ずっと壊れたままだもん。』
『分かってる』
『それなのに、どうして?』
『それでも、直したいんだ』
物語はそこで一度区切られていた。
その先には、まだ文章が続いている。
けれど、途中から文字が乱れ始め、最後には何も書かれていなかった。
僕はノートを閉じた。
止まった時計を直したい。
止まっていた時間を進めたい。
それは、藤野自身の気持ちなのだろうか。
それとも、単なる物語なのだろうか。
どちらにしても、この物語には、二人の関係が重なっているような気がした。
僕は遠野の手紙を取り出した。
『あの日のこと、まだ覚えているかな』
『どうしても伝えたいことがあったから』
遠野は、藤野に何かを伝えたかった。
それは、二人が最後まで話せなかったことに関係している。
「……明日、もう一度話してみるか」
僕はノートを閉じた。
翌朝。
教室に着くと、凛と柚子がすでに来ていた。
「おはようございます、手紙くん」
「おはよう」
「昨日、何か分かった?」
柚子が尋ねる。
「ああ。藤野さんのノートを読んでいて、少し気になることがあった」
「どんなことですか?」
「藤野さんが書いた物語の主人公が『止まっていた時間を動かしたい』と言ってた。」
「それって……」
凛が目を見開く。
「藤野さんの願いだったのかもな。遠野さんとの止まった時間を動かしたいって言う」
柚子は納得したように頷く。
「でも、まだ分からないことがある」
「何ですか?」
「遠野が藤野に渡したかったものだ」
「確かに」
「それが何なのか分かれば、二人の間にあったことも、もう少し見えてくるかもしれない」
僕は鞄の中の手紙を確認した。
今日、藤野と話せなければ、手紙を届ける機会はもうほとんどない。
「今日、藤野さんに会いに行きましょう」
凛が言った。
「ああ」
「今度こそ、ちゃんと話を聞きたい」
柚子も頷いた。
「そうだな」
僕たちは、昼休みになるのを待った。
昼休み。
二年A組へ向かうと、藤野はいつもの席に座っていた。
机の上には、あの文庫本が置かれている。
僕たちが近づくと、藤野は顔を上げた。
「……また来たんだ」
「はい」
凛が答えた。
「今日は、少し聞いてほしいことがあります」
「何?」
僕は鞄からノートを取り出した。
「昨日預かったノートを読ませてもらいました」
「そう」
「この物語、遠野さんに読んでもらうつもりだったんですね」
藤野は小さく頷いた。
「うん」
「最後まで書いていないのは、遠野さんに読んでもらってから続きを考えるつもりだったからですか?」
「……そうだよ」
彼女は少しだけ笑った。
「遠野くんに読んでもらって、感想を聞いて。それから続きを書こうと思ってた」
「それで、遠野さんは最後まで聞く番だと」
「たぶんね」
藤野はノートを見つめた。
「いつも私ばっかり話してたから。遠野くんはいつも、私の話を最後まで聞いてくれるって言ってた」
「そうだったんですね」
凛が優しく頷く。
「でも、結局見せられなかった」
藤野はノートを受け取った。
「私が、あんなことを言ったから」
「藤野さん」
「遠野くんが陸上を諦めるって言った時、私は何も言えなかった。励ますこともできなかった。だから、せめて本の話をしている時くらいは、楽しそうにしてほしかった。」
「でも、ある日、遠野くんが陸上部の後輩と話しているのをみて…」
藤野は苦笑する。
「余計なこと言ったんだ私… 『走れないから仕方なく本を読んでるんでしょ』って」
「私は悔しかったんだと思う。私と本の話をする時より、陸上部の子と話してる遠野くんの方が楽しそうに見えたから…」
藤野は窓の外を見た。
「……」
彼女はゆっくりと息を吐いた。
「でも、遠野さんも変わっていったんだと思います」
「え?」
「走ることだけが好きだった遠野さんが、本を好きになった。それは、藤野さんと出会ったからですよね」
「……うん」
「遠野さんにとって、藤野さんと過ごした時間は大切だったんだと思います」
藤野は何も言わなかった。
「だから、手紙を書いたんじゃないでしょうか」
「……」
「もう一度話したかった。伝えたいことがあった。そう書いてありました」
藤野は目を伏せた。
「私、まだ怖い」
「何がですか?」
「手紙を読むこと」
彼女は封筒の入った僕の鞄を見た。
「読んだら、遠野くんとの時間が最後になっちゃう気がするから」
「……」
「今まで、ずっとあの日のことばかり考えてた。私がひどいことを言った。謝れなかった。遠野くんは何も言わずにいなくなってしまった」
藤野は少しだけ声を震わせた。
「でも、手紙を読んだら、それだけじゃなくなる。遠野くんが最後に何を思っていたのか、知ってしまう」
「それでも、知りたいんですよね。」
凛が尋ねた。
藤野はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……知りたい」
僕は鞄から封筒を取り出した。
けれど、藤野に渡すことはしなかった。
まだ、彼女には考える時間が必要だ。
「分かりました。手紙は、ここにあります」
「ありがとう」
「ただ、一つだけ」
僕は封筒をしまった。
「遠野さんが伝えたかったことは、きっと謝罪だけじゃないと思います」
藤野は僕を見た。
「どういう意味?」
「まだ分かりません。でも、藤野さんが思っている以上に、遠野さんはあなたとの時間を大切にしていたんだと思います」
彼女は何も言わなかった。
ただ、ノートを胸元に抱えるように持っていた。
放課後。
僕たちは三人で校門へ向かっていた。
「藤野さん、手紙を読んでくれそうですね」
凛が言う。
「ああ。少なくとも、前よりは」
「でも、まだ何か引っかかっているんだよね」
柚子が僕を見た。
「遠野が渡したかったものだ」
「そうだね」
僕は鞄の中の手紙を確認した。
もう時間はほとんど残っていない。
「明日、もう一度藤野さんのところへ行こう」
「はい」
「うん」
その時、僕のスマホが震えた。
画面を見ると、知らない番号からメッセージが届いていた。
『突然すみません。藤野です。
明日、少し時間をもらえませんか。
遠野くんの手紙について、話したいことがあります』
僕は立ち止まった。
「どうしたの?」
柚子が尋ねる。
「藤野から連絡が来た」
「えっ、本当ですか?」
凛が画面を覗き込む。
「ああ。明日、話がしたいらしい」
「それって……」
「手紙を読む気になったのかもしれないな」
僕は返信を打った。
『分かりました。明日、昼休みに図書室で』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『ありがとうございます。
それと、もう一つお願いがあります。
遠野くんが私に渡そうとしていたものについて、少し調べてもらえませんか。
もしかしたら、図書室にあるかもしれないので』
「渡したかったもの……」
柚子が呟く。
「やっぱり気になっているんだね」
「ああ」
僕は画面を閉じた。
遠野が藤野に渡したかったもの。
それが何なのか、まだ分からない。
けれど、明日になれば、何かが分かるかもしれない。
その夜。
僕は机の上に遠野の手紙を置いた。
封筒の端を指でなぞる。
今までなら、届けられないまま消えてしまうことを望んでいた。
けれど、今は違う。
遠野が伝えたかったことを、藤野に届けたい。
ただ、それだけだ。
僕は図書室から借りてきた本を開いた。
付箋の貼られたページ。
少し違和感がある。
付箋の貼られたページは確かに感動的なシーンや印象に残る物を選んでいるが、もっといいシーンだってあった。
なのに、そこに付箋は貼られていない。
なぜ。そう思いぼーっと活字を眺める。
すると
付箋の貼られたページの最初の文字
『あ』
次の付箋の貼られたページ
『い』
次々に確認していく
『し』
『て』
『る』
『愛してる』
僕は息を呑む。
偶然とは思えない。意図的に作られた文章。
まだ付箋の貼られたページはあり確認すると、、、
「そう言うことか…」
この時、やっと全てのピースが繋がった。そんな気がした。




