最終章
学校の演劇部といえば、体育会系文化部などと揶揄される。一般の劇団などもそのノリが色濃いことが多い。したがって、演劇に円陣は基本であった。
公演最終日千秋楽、最後の公演を前にスタッフで円陣が組まれた。演出の細川がその細身に似合わず迫力のある声で気合を入れる。
「泣いても笑っても次が最後の公演だ。今までの演技で満足か?」
「いいえ!」
「稽古でやってきたことは全部出したか?」
「まだまだ足りません!」
「公演で学んだものはなかったか?」
「たくさんありました!」
「よし! それでは、開幕だ。全てを出し切れ。灰になって来い! 舞台のシミになれ! 骨があったら拾ってやる! お前たちの力でお客を喜ばせて来い! それが全てだ!」
「はい!」
最後に気合の掛け声をかけて円陣は解散となった。解散後に細川とロミオがジュリエットの元にやってきた。
「ジュリエット、調子はどうだ?」
「何も問題はありませんわ。ご心配は無用ですわ」
ジュリエットは涼しい顔で答えたが、その足元では技師の丸山が作業を続けていた。
「何が問題ないだ。大アリだよ。ここまでもったのは奇跡かもしれない。炎症の進行が早い。かなり痛いはずだぞ」
丸山はアンプルを割って、注射器に吸い込み、ジュリエットの足首に注射した。
「私が問題ないといったら、問題なんてありませんわ、丸山様」
軽く表情を変えた程度でジュリエットは何事もなかったかのように済ました顔をした。しかし、すでに裾が触れただけでも激痛が走るほどになっていた。
「監督。技師として保障しかねます。負荷をかけて薬を使ってよろしいですか?」
丸山はジュリエットを無視して監督の石山に話をした。
「待って! 薬を使ったら、感覚がしびれてしまいますわ。せめて、限界を超えるまで」
薬の作用で全身の感覚が鈍くなる。限界を超えて無理させるためにその苦痛からマリオネット操者を保護する措置であった。
「超えたら遅いよ、ジュリエット。舞台で倒れるつもりか?」
丸山が聞き分けのないジュリエットに表情をゆがめた。
「でも――」
「でもじゃない。許可をください。僕にも技師としてのプライドがあります」
細川は丸山に迫られて判断に迷った。丸山の言い分は多分正しいが、この舞台のクオリティーを任されたものとしてはそれを下げたくはない気持ちは強かった。しかし、十中八九負けの決まった賭けに出るほど馬鹿でもなかった。
「わかった――」
「丸山さん」
細川が決断を下そうとするのをそれまで沈黙を守っていたロミオが割って入った。
「ジュリエットのわがままを聞いてくれませんか?」
「ロミオ! 君までそんなことを」
「何かあったら僕が彼女をフォローします。細川さん、お願いします」
ロミオは細川と丸山に頭を下げた。ジュリエットは二人をにらみつけて断固拒否の意思を示していた。
「しかしだな……」
「細川さん。わたしらもいるんだから、少しわがままに付き合ってくれませんかね」
いつの間にかやってきていた乳母がしわだらけの顔をくしゃくしゃにして笑って言った。細川は振り返ると後ろにはマーキューシオ、ベンヴォーリオ、ティボルト、ロレンス神父、パリス、モンタギュー夫妻、キャピュレット夫妻、大公、ピーターから役名のないものまで集まっていた。
「最後の最後でジュリエットのぬるい演技なんてお客さんがゆるさねえぜ、細川さん」
マーキューシオが全員の言葉を代弁した。いつの間にかやってきていた石山も無言で細川の肩をたたいた。
「まったく、お前たちは……ああ、もう、わかった。俺も同意見だ。責任は取ってやる。とっとと、舞台のシミになってきやがれ」
細川の決断に歓声が上がり、ジュリエットは何度も全員に頭を下げた。
「いいってことよ。あんたは主役で、俺たちは脇役。あんたを支えるのが俺たちの仕事さ」
「そういうことさ。思い切ってやってくれ」
「ありがとう、みんな。ありがとう!」
ジュリエットは涙があふれそうになったが、何とかこらえて笑顔を作った。傍らではロミオがそっと彼女の肩を抱き、このままこの時が永遠に続けばいいのにと真剣に思い、神様に祈った。
* * *
紳士淑女が集い、ろうそくの炎がきらびやかな衣装を照らして、幻想的に部屋を染める。香ばしいにおいが食欲をそそり、たっぷりの肉汁が胃袋を満たす。優美な音楽が途切れることなく流れ、その合間に気品ある話題が談笑される。誰もが礼儀正しく仮面をかぶる舞踏会。
たとえ、かりそめの虚飾であっても今この時は現実のとき。誰もがその非日常を楽しんでいた。
『さあ、踊りましょう。今宵、この時を楽しむために。楽師たち、音楽を。とびっきり愉快になれる音楽を』
ホストのキャピュレットがゲストたちを楽しませるために愉快に手を打った。ゲストたちはペアを組んで音楽が始まりダンスが始まる。しばらくダンスが続いて、ゲストたちの踊る中央にぽっかりと舞台ができ上がる。
そこへ進み出る男と女。男は仮面で顔を隠しているが、その美しさは仮面越しでも見て取れる。女は初々しい若い果実のようであってもその美しさは比べることなどできないほどであった。
二人は自然の成り行きのように歩み寄った。
そこで二人は夢のようなダンスを踊り、二人は踊り終わった後に会話を交わそうとするが、しかし、二人は別の人にダンスを申し込まれ、離れ離れになる。最終的に一緒になれない二人の暗い未来を暗示する演出であった。
ジュリエットはひどく痛みの増す右の足首をかばって歩けば不自然になると、覚悟を決めて舞台の上にできた舞台に足を踏み出した。一歩、二歩――順調と思われた歩みも、それはろうそくの炎の最後の瞬きであった。
右足首にまったく力が入らずに世界が倒れていくのがわかった。わかったが、どうすることもできない。ジュリエットは無力な自分を思い知らされた。
しかし、誰かの手がそっと自分を抱きとめ、倒れこむことはなかった。はっとして、その手の主を見上げると輝くばかりに美しい男性が優しい笑みを浮かべてそこにいた。その笑顔にジュリエットは泣いて抱きつきそうになった。
「ついに限界がきたんだね、ジュリエット」
ロミオはマリオネット同士の、外には聞こえない通信で語りかけてきた。舞台をとめるわけには行かないので、予定とは違うが、そのままジュリエットと踊りに入った。
「どうしましょう。本当にどうすればいいの。こんなに力が入らないなんて、信じられない。固定されているときなんてもっとしっかりしていたのに」
ジュリエットはオロオロするばかりでパニックを起こしていた。おかげでロミオはジュリエットを一人で支えることになり、ダンスも精彩が欠けている。
観客もテレビであのダンスを見ているものも多かったために違和感をおぼえて軽いざわめきが立ち始めていた。
「しっかり。自分をしっかり持つんだ、ジュリエット。君は史上最強だろう?」
「でも、私は無力な小娘よ。そう、一人で立っていることもできないほど無力なのよ」
「いい加減にしないか、ジュリエット! 君は誰よりも早く稽古場に来て、誰よりも熱心に練習していたじゃないか。私はそんな君をずっと見ていた。無力な何もできない小娘なんかじゃない。愛する人のためにロレンス神父の仮死の薬さえ飲み干すほど強い。私は知っている。一人で立てない? みんながいるじゃないか。さあ、君はジュリエット。私の愛する史上最強のジュリエットなんだ」
ロミオの言葉がジュリエットに染みこんでいくほどにダンスは精彩が蘇り、鮮やかな色を光り輝かせた。
「ロミオ様。ダンスの後にあなたを探すのは、この足では無理だわ。巡礼のくだりにそのまま続けて。――それから、お母様のところへ行くときはどなたかエスコートを」
ジュリエットは段取りを決めて芝居を続けた。
二人のダンスは予定よりも少し長くなったが、その後のダンスがカットされ、しかも、ジュリエットが舞踏会の中を彷徨うシーンもカットされた。
役者だけではなく、裏方は大混乱を起こしていてもおかしくなかったが、崩壊する一歩手前で踏みとどめたのは、石山と裏方スタッフの団結力のおかげであった。
舞台上では、ロミオとジュリエットが互いに手を取ったまま向かい合った。
『聖者様。突然のこととはいえ、巡礼のこの手が無礼にもあなたの聖地を汚してしまいました。その謝罪に唇が聖地に口づけをして清めさせてください』
ロミオが膝をつき、悩ましい顔でジュリエットに訴えた。その色香に客席からもため息が漏れている。
『いけませんわ、巡礼様。それはあまりにも手に対するひどい仕打ち。巡礼様は信心深く、敬虔なお方。その振る舞いに何の無礼がありましょう。聖者の手は巡礼が触れるもの。指と指が触れ合う、それは巡礼の優美なキスと申します』
初々しく恥らうジュリエットの純粋さに甘く酸っぱいものが口の中で広がる感じがした。
『では、聖者と巡礼に唇はございませぬか?』
『いいえ。祈りを唱えるのに唇は必要です。聖者にも巡礼にも』
『では、どうか、今この時だけ、唇に手の役割を。信仰が絶望に変わらぬうちに。唇が祈りをささげます』
ロミオはさっと立ち上がり、ジュリエットを抱きすくめた。先ほどまでと違い、その野性的な動きは観客の目を釘付けにした。
『聖者の心は動きません。祈りを受け入れようとも』
観客の誰よりも釘付けにされたジュリエットはゆっくりと目を閉じた。たとえ、目を閉じても、ロミオを見ることは難しくないほど彼に恋焦がれた気持ちを隠すように。
『では、動かないで。祈りを受け入れるあいだ。あなたの唇でこの唇の罪が――清められます』
ロミオはそっとジュリエットのキスをした。優しいキス。勇気と信頼のキス。
『まあ、それでは私の唇に罪が移ってしまったのね』
ジュリエットは顔を赤らめて、頬に手を当てた。
『おお、それはいけない。その罪をお返しください』
再びロミオはキスをする。ジュリエットはここで全てが終わればよいのにと思ったが、時間は、劇は無情に進むだけしか知らない。
そして、乳母がジュリエットを呼び、召使のエスコートで舞台を退場した。
その後すぐに舞台に戻り、ダンスを踊った男性が家の敵、モンタギューのロミオを知って愕然とする。そして、再び舞台袖に戻った。シーンは舞踏会が終わり、ロミオの友人であるマーキューシオとベンヴォーリオが姿を消したロミオを探すシーンとなった。
この次のシーンが有名なバルコニーのシーンである。ジュリエット不在はありえない。しかも、このシーンはかなりジュリエットがバルコニーの中を動き回ることになっていた。
丸山は急いで用意していた薬剤のアンプルを取り出し、アンプルの首を折ろうとした。しかし、そっとその手を止める手があった。
「邪魔しないでくれ、ジュリエット」
「丸山様。お願いがあるの」
「却下だ」
にべもなく宣言するとアンプルの首を折った。そこに注射器を差し込んだ。
「まだ何も言ってないわ。お願い、時間がないの。薬を打たずにリミットだけを解除して。できるでしょ?」
法律で禁止されているが、不可能ではないことであった。
「時間がないんだ。それをするには調整室まで君を連れて行かなければいけない。そんな時間なんてない」
ロミオを探すシーンなど、たかが知れている。マーキューシオの長い台詞はあるが、それほど引き伸ばせるシーンではない。
「時間のことなら気にしなくていい。五分は大丈夫。細川さんがしっかり仕込んでいたからね」
舞台袖で待機していた出演者の一人、パリスがにこやかな笑みを浮かべて丸山に告げた。
「みんな、グルか。コンチクショウ!」
丸山は苦々しく吐き捨てると注射器を脇に置いて、ジュリエットを車椅子に座らせた。
「エレベータは待機させてある。通路も障害物はどけてある」
パリスは赤絨毯こそ敷いてはいないが、調整室までの花道に案内した。
「まったく、用意周到なことだな」
「パリス。ありがとう。好きよ。あなたとは結婚できないけど」
ジュリエットは目に熱いものがこみ上げてきた。この仲間たちと一緒に舞台ができることに心の底から感謝した。そして、永遠に続けていたいと願った。
「ありがとう、ジュリエット。その言葉だけで死んでも報われるよ」
パリスは恭しく頭を下げた。
「時間がない。急ぐぞ。ここまでされて五分で戻ってこれなかったら僕が殺される」
丸山はジュリエットを乗せて駆け出した。そして、調整室までレコードタイムでたどり着くと、ジュリエットを調整用ベッドにも寝かさずに背中のプラグにアクセスコードをつないだ。
カードをスリットに差し込み、生体認証する。その時間さえ惜しいように思えて仕方なかった。
「確認しておくが、リミットを解除したら機械的に足首が壊れるまで動かせるようになる。だけど、代わりにフィードバックもフィルターなしにダイレクトに伝わる。骨折した足で動き回るよりもひどい激痛に襲われる。下手したら精神障害を起こすかもしれないぞ。いいんだな?」
「私を誰とお思い? 役者よ。しかも主役。全身の骨が折れたって舞台では踊って見せるわ。それに、みんな始まる前に言ってたでしょ? 『ぬるいジュリエットなんて見たくない』って。まったくその通りよ」
ジュリエットはにっこり微笑んで見せた。リミットがかかるまでもかなりの激痛だったはずなのに、それまでもそう言い切る彼女に役者根性というよりも執念を感じた。
「わかった。君がそれほどの覚悟なら何も言わない」
丸山はリミットをかけているコードを探し出して、それらを解除していく。本当ならばもっと時間のかかる作業のはずだが、まるであらかじめ知っているかのように作業を進めていった。
ジュリエットはそれを不思議そうにそれを眺めていた。その視線に気づいたのか、丸山は苦笑を浮かべた。
「ジュリエットは『宇宙戦艦ヤマト』って古いアニメを知っているかな? それに出てくる技術者が窮地になると、『こんなこともあろうかと~』って、秘密兵器を出してくるんだよ。僕もあれにあこがれてね。一度言ってみたかったんだ。だけど、今回は言いたくなかったよ。こんなこともあろうかと、コードを調べておいた、なんてね」
言い終えると同時にリミットのコード解除が終了した。同時にジュリエットの脳天を突き上げるような激痛が走り、身体をくの字に曲げた。
「大丈夫か? やっぱり――」
「平気。大丈夫。ちょっと、驚いただけ。もう、慣れたわ」
丸山は心配そうに駆け寄ろうとしたが、それを押しとどめてジュリエットは車椅子から立ち上がった。激痛は脳の神経を焼くほど熱く、雷のようにしびれた。
「無理だったら、薬を打つ。正直に言ってくれ」
丸山はアクセスコードを外して、コントロール装置からカードを外してズボンのポケットにしまった。薬剤を打つならコントロール装置をロックしておいた方が効き目が早いという伝説があった。気休めだが、気休めでもするのが技術者であった。
「ふふ。ありがとうございます。丸山様。でも、ご安心を。ジュリエットはロレンス神父の教会の床をすり減らさないほど軽やかに歩けるのよ」
その場でステップを踏んでターンして見せた。それはいつものジュリエットと何の遜色もない華麗で優雅な動きであった。もちろん、表情も。
「ジュリエット……」
「ごめんなさい。丸山様にはいつも無理ばかり言って……本当にありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
ジュリエットは少し潤んだ瞳で丸山に擦り寄った。彼はそれに少し腰が引けて身を離そうとしたが、彼女が離しはしなかった。
「い、いいんだ。これも僕の仕事だから……」
「いいえ、仕事以上にしてくださったわ。でも、私は何もお返しできないの。だから、せめてものお礼をさせて」
ジュリエットは更に丸山に寄り添った。そして、彼の唇に彼女の唇を重ねた。
ほんの一瞬であったが、十分に感触を感じられる時間であった。その瑞々しいまでの処女の唇の感触に丸山は頭が真っ白になりかけた。しかし、すぐに正気を取り戻した。
「ええい! マリオネット技師がマリオネットに恋をしてどうするんだ! 冗談が過ぎるぞ、ジュリエット」
丸山はジュリエットを突き飛ばしはしなかったが、少し強引に振りほどいた。
「少しぐらい役得がなくてはもったいないでしょ。単なる、お礼よ。素直に受け取ってほしいわ」
ジュリエットはいたずらっぽく微笑むと車椅子に座った。
「次からはそのお礼はゴメン被る。ええい、時間のロスだ。急ぐよ」
「もちろん。あんまり待たせると、バルコニーの下でロミオ様がおじい様になってしまうわ」
ジュリエットはそういいつつ、衣装の中にそっと丸山のズボンから抜き取った一枚のカードを隠した。
* * *
「ぎりぎり五分だ。もう時間がない。いけるか?」
舞台監督の石山は言葉こそ質問だが、口調は「イエス」しか認めない確認だった。
「ご心配をかけまして、ごめんなさい。でも、代わりに最高の舞台を約束しますわ」
ジュリエットは自分で車椅子から身軽に立ち上がると優雅にお辞儀をして、出番を待つため舞台袖に軽やかな足取りで向かった。
その様子をあっけに取られつつ見送った石山は丸山にだけ聞こえるぐらい小さな声で話しかけた。
「大丈夫なのか?」
「正直言うと、大の大人でも気絶するぐらい痛いと思います。でも、何か変なスイッチが入っちゃっているようで……役者根性というのでしょうかね、ああいうの」
丸山は自分の知識上、ありえないことを見せ付けられて自信なさげに肩をすくめるだけであった。
* * *
ジュリエットはバルコニーへと物思いにふけながら歩み出た。手すりに身体を預け、夜の星を眺めていたが、星の光は彼女の目には映っていなかった。
やがて、大きなため息をひとつつくと、両肘を手すりについて、再び夜空を見上げた。
そこへ庭に忍び込み、彼女を偶然見つけることのできたロミオは、月に照らされる彼女の美しさに心奪われ、ただただその場に立ち尽くしていた。
『あの手袋になることができたなら、あの頬に触ることができるというのに』
ジュリエットの気持ちを知らないために声をかけることもできず、ただ彼女を見つめているしかなかった。
『ああ……』
ジュリエットの口から悩ましい吐息が漏れた。ロミオはその声を聞こうと、耳をそばだてる。
『おお、ロミオ! ロミオ! どうしてあなたはロミオなの? お父様と縁を切って、ロミオという名をお捨てになって。それがかなわないのなら、私を愛すると誓って。そうすれば、私もキャピュレットの名を捨てます』
ジュリエットは恋焦がれる本人が庭にいることも知らず、夜空を照らす月に自分の気持ちを打ち明けた。ロミオもいきなりのジュリエットの告白に驚き、戸惑った。彼のいることさえ知らない彼女はさらに続ける。
『私の敵といっても、それはあなたの名前だけ。モンタギューの名前を捨てても、あなたはあなた』
名前を捨てても自分は変わらぬロミオを受け入れると言うように自分の身体を抱きしめた。そして、やおら両手を広げた。
『名前って何? 手でも足でもない。腕でも顔でもない。人間のどの部分でもない。だから、お願い、別の名前に』
彼女は祈りをささげるように手を胸の前に組んだ。
『バラを別の名前で呼んだとしても、その美しい香りが変わることはないわ。だから、あなたが別の名前になったとしても、その姿が変わるわけではないわ。名前を捨てて、その代わりに私を受け取って』
『受け取ります! “恋人”と呼んでください。それが僕の新しい名前。ロミオという名は捨てました』
ロミオは熱烈な告白を聞いて、もう居ても立ってもいられずに茂みを飛び出した。
『どなた! 私の秘めたる思いを盗み聞きするのは』
突然の声にジュリエットは驚き、誰何の声を上げつつも建物の中へと逃げ込もうとした。
『名乗ろうにも、ああ、憎らしい。僕の名前はあなたの敵なのです』
侵入者の声にジュリエットは足を止めた。そして、恐る恐るバルコニーの先端まで戻った。
『多くの言葉を交わしたわけではありませんが、そのお声。忘れることはできません。あなたはロミオ様? モンタギュー家の』
『聖者様。その名前は捨てました。あなたがお気に入らない名前ゆえ』
『どうやってここへ? 誰の手引き?』
『恋の手引きで』
『でも、周りの塀は高くて越えるのは難しいはず。どうやって?』
『恋の翼にかかればどんな高い塀でも軽々と越えれます。たかが石垣ごときがどうして恋を締め出せましょう』
『あなたの身を考えれば、家のものに見つかれば殺されてしまいます。なんて危険なことをなさるの』
『恋は危険なことをさせてしまうもの。今の僕には敵意を持った二十の刃など、あなたの優しいまなざしがあれば、跳ね除けてしまいます。しかし、もし、あなたの愛が得られないのなら、この場で殺された方がどれほど幸せでしょう』
『ああ、夜の闇よ。あなたの姿を家のものから隠してちょうだい。そして、私の顔も隠してちょうだい』
ジュリエットは頬に手を当てて身をよじった。
『私の顔は乙女の恥じらいで真っ赤になっているわ。心の内を聞かれてしまうなんて。優しいロミオ様。私を愛している? “はい”と言ってくださいます? あなたの言葉を信じますわ。でも誓わないで。恋の誓いを破ってもジュピターは苦笑するだけ、何の咎めもありませんわ』
ジュリエットはバルコニーから身を乗り出して、庭のロミオに微笑みかけた。ロミオはバルコニーのそばの木に登り、彼女を向き合える高さまでやってきた。
『優しいロミオ様。愛しているとおっしゃって。少し率直過ぎるかしら? でも、恋の駆け引きを知る手練手管の女よりよっぽど真心がありますわ。でも、聞かれてしまったもの、私の胸の内を。そうでなければ、もっと控えめにしていたわ。だから、軽い女と思わないで。重たい夜の闇が心の内をさらけ出させたのだから』
『ジュリエット。あのこずえにかかる月に誓おう――』
『だめ! 日ごと形を変える月になんて誓わないで。あなたの愛も日ごとに変わる不実なものになってしまいますわ。もし、誓うのならあなた自身に。私の神であるあなた自身に誓って』
『では、もしこの心からなる愛が――』
『ああ、やっぱり誓わないで。あまりにも早すぎる愛は一瞬で消えうせてしまいそう。この愛のつぼみが次に会うまでに美しい花を咲かせていられるように』
ジュリエットとロミオは互いの愛を戯れるように、しかし真剣に誓い、確かめ、そして再び誓い合った。そして、東の空から夜の帳が上げられて、ついに別れの時を迎えた。
『おやすみ。おやすみ。永遠におやすみを言い続けたい。このまま、永遠に』
ジュリエットは衣装の中に忍ばせたカードを上から押さえ、別れの台詞を心から歌い上げた。
* * *
舞台は進み、ロレンス神父の立会いでロミオとジュリエットは二人だけで結婚式を挙げた。その結婚式の帰りにロミオは、彼の親友のマーキューシオと、ジュリエットと仲のいい従兄弟であるティボルトが喧嘩をしているところに出くわした。ロミオはその喧嘩を仲裁しようとしたが、運悪く、その拍子にティボルトの剣がマーキューシオに致命傷を負わせ、マーキューシオは死んでしまう。怒りに燃えるロミオはマーキューシオの仇を討つためティボルトに決闘を申し込み、彼を殺してしまう。
それを知った街の支配者、大公殿下はロミオを追放することを宣言した。ロミオは街を離れる前にジュリエットと最初で最後の夜を共にして、ひばりの声に追われて街を離れた。
ジュリエットは父親にパリス伯爵との結婚を強いられ、ロレンス神父を頼った。そして、結婚前夜に仮死状態になる薬を飲み、死んだふりをして結婚をうやむやにして、その隙にロミオを呼び寄せ、一緒に逃げるように策を講じた。
予定通り、薬を飲んで仮死状態となったが、その計画を知らせる使いがロミオに出会えず、ジュリエットの死の知らせだけを聞いたロミオは大急ぎで街に戻ってきた。
そして、墓地にいたパリス伯爵を殺し、ジュリエットのところにやってきて、彼女の後を追って、本物の毒をあおって死んでしまった。
目を覚ましたジュリエットは自分の傍らで死んでいるロミオを見て、計画が狂ったことを悟った。
『ああ、ロミオ。ひどい人。どうして、私の分の毒を残しておいてくれなかったの。あなたの唇に残る毒で――ああ、まだ暖かい。ロミオ……』
泣き崩れるジュリエットの耳に、異変を感じて集まってきている夜警の声が聞こえた。感傷に浸っている時間はない。彼女はロミオの剣を拾い上げた。
『ありがたい。おお、剣よ。私をロミオの元に連れて行って。今から私の胸はあなたの鞘』
そして、ジュリエットは自分の胸に剣をつきたて、絶命した。
事の真相をロレンス神父が語り、若い二人の魂により長年いがみ合っていたモンタギューとキャピュレットの両家は和解して、街に平和が訪れた。
こうして、舞台の幕は引かれた。
舞台に引き込まれていた観客が現実へと戻るわずかな間があり、まばらに拍手が鳴ったかと思うと、唸りを上げる喝采の渦が劇場を埋め尽くし、緞帳が完全に降りても、鳴り止む気配はなかった。
カーテンコールで姿を現したマリオネットたちに賞賛が惜しみなく浴びせられ、舞台袖では裏方の人間たちが抱き合いながら成功を喜んだ。
ただ、マリオネット技師の丸山だけはジュリエットの足の状態が気になり、喜びもそぞろである。
カーテンコールから戻ってきたジュリエットは放心状態で舞台のセットの上に座り込んだ。丸山がその姿を見て彼女に駆け寄った。
「ジュリエット!」
「あら、丸山様。どうでした? 最高の舞台でしたでしょう?」
丸山はジュリエットの浮かべる妖艶な微笑に背筋が寒くなった。人が操っているとはいえ、機械人形の表情ではなかった。
「ああ、最高の舞台だった。さあ、早くリンクを切ろう」
言い表せない不安にかられ、彼女の手を取ったが、その手は払いのけられた。
「どうして? まだ、舞台は終わってないわ」
「終わったんだよ。最終公演は幕を下ろしたんだよ。足の痛みで混乱しているだけだ。さあ、早く!」
丸山は焦った。さっき手と取ったときに彼女の手は異常なほど汗ばんでいて、ほんのり熱かった。明らかに機体が異常な状態である。
「終わった? どうして? だって、ロミオ様は私に永遠の愛を誓ったわ。ジュピターなんかじゃなくて、ロミオ様自身に。どうして、うそをつくの? まだ舞台は終わっていないわ。終わるわけないじゃない。永遠に続くのよ」
瞳の色がこの世のものと思えぬ輝きを放っていた。丸山は彼女の手を強く握り、強引に立たせて調整室まで無理やり引っ張っていこうとした。
「あなたも私の恋の邪魔をするのね! やめて! どうしてみんな、私の邪魔をするの!」
ジュリエットは叫び、腕を振りまわすようにして、丸山を投げ飛ばし、舞台袖の方へ駆け出した。
互いに喜び合っていた他の出演者や裏方たちもただならない様子に喜びを一時中断してざわつき始めた。
「一体、どうしたんだ? 喜び合うには少し過激すぎるぞ」
監督の石山と演出の細川が舞台のセットにもたれかかって倒れている丸山に駆け寄った。
「石山さん、細川さん。ジュリエットが暴走しました」
丸山は吹き飛ばされた眼鏡をかけなおして、あちこち打ち身で痛む身体を起こした。
「暴走?」
「おそらく、足首の痛みに操者の脳がブロック現象を起こしたのでしょう。脳内麻薬が過剰に分泌されて、躁状態になったところを舞台でジュリエットを演じている自分自身に暗示がかかったと思います。早く止めないと……」
丸山は言葉を切った。“ジュリエット”の力は人間以上である。下手すれば誰かを怪我させてしまうかもしれない。石山も細川も顔を青くした。
「一体、何事だ!」
プロデューサーの小島が騒ぎを聞きつけて彼らの元にやってきたが、落ち着いて説明している暇などない。
「とにかく、歩きながら話します。調整室に急ぐぞ」
石山が先頭を切って、調整室に向かおうとした。しかし、その途中で小道具係の青年が彼を呼び止めた。
「忙しいんだ。後にしてくれ」
普段は温和だが、熊のような大男の石山にすごまれて小道具係の青年は縮み上がった。
「す、すいません。……ここにあった資料用の真剣のサーベルが見当たらないので……もう一度、探してみます」
「サーベル? ……君、ジュリエットとすれ違わなかったか?」
細川が気になる単語を耳にして青年に訊いた。青年はすっかり萎縮して、首を横に振った。しかし、そこに通りかかった照明係の女性が口を挟んできた。
「ジュリエットちゃんなら、さっきすれ違ったわよ。すごい真剣な顔だったから、声をかけなかったんだけど。そういえば、なんか長細い包みもっていたわね」
「鬼に金棒。ジュリエットにサーベル。けが人どころか、死人が出るぞ!」
細川は顔を引きつらせた。
「ジュリエットが客席に出ないように警備用のマリオネットで客席につながる出入口を封鎖させるように警備主任に連絡してくれ! 大至急だ。ジュリエットが暴走している」
石山は照明係の女性に最悪の事態を避ける措置を取るように指示すると、一刻も猶予がないと走り出した。
調整室に駆け込むと丸山はコントロール装置の前に急いだ。
「少し危険ですが、強制的にリンクを切ります」
「わかった。許可する。非常時だ」
石山が許可したが、丸山はズボンのポケットをまさぐっているだけで、装置に触れようとしない。その様子に細川がいらだって怒鳴った。
「早くしろ!」
「カードが……カードがない!」
丸山は泣きそうな顔で、ポケットをひっくり返して中身を確認したが、埃以外は出てこなかった。
「なんだと!」
どこかに落ちていないか床を見回したが、落ちているはずもない。丸山はシャツやズボンを脱いで確認したが、見当たらなかった。
「カードがなくても無理やりこじ開ければいいだろうが!」
小島はジュリエットの操者が入っている黒い殻に近づこうとしたが、石山に止められた。
「そんなことをすれば、下手したら操者がショック死してしまう」
しかも今は操者が精神的に不安定とあっては、その可能性は低くなかった。
「そんなことを言っている間に何かあったらどうするつもりなんだ! かまわん! 暴走したやつが悪い。こじ開けろ!」
「無茶言わないでください。他に方法はないのか?」
細川は興奮した小島は無視して丸山に詰め寄った。
「マリオネット本体にあるリンク解除ボタンを押せばリンクが切れます。あとは、マリオネット本体が破壊されてリンクが切れるか」
「馬鹿なことを言うな! 一体、あれがいくらすると思っているんだ!」
丸山の言葉に小島の血管が切れそうになった。“ジュリエット”はおそらくどこかからのレンタルだろうが、破壊すれば弁償させられるのは当然だろう。
「他にはないのか?」
非現実的な案に石山も苛立ちが隠せない。
「他はマリオネット犯罪防止法で、警察が強制割り込みのマスターカードを持ってます。それがあれば……」
丸山はそういいつつ、ちらりと小島の方を見た。
「仕方ない。時間はかかるが、警察に連絡しよう」
「そうだな」
石山と細川が納得したが、一人納得していない人間がいた。
「警察はいかん」
小島はそれまでの興奮が一気に醒めて、ポツリとつぶやくように反対した。
「しかし、小島さん、このままでは――」
「とにかく、警察はダメだ!」
小島は取り付くしまもなく警察を呼ぶことに反対した。
「……ラゾルシーム社のゴルバティCS228。気にはなっていたのですが、まさか……軍事用マリオネット」
丸山は眉をしかめた。整備していて、明らかに演劇用にしてはオーバースペックであり、演劇用には不要なディティールまであった。
「小島さん!」
軍事用のマリオネットは輸入禁止であるし、その使用は重罪である。
「ああ、そうだ。高級将校の“個人”副官として作られたものだ。配属される先々で高級将校が不幸に見舞われるんで、払い下げにされたいわくつきのな。表向きは一般のレンタル企業から借りたことになっているが、それは名義貸しで本当は裏ルートから借り受けた。コード番号は偽造してある」
小島の告白に三人は沈痛な面持ちになった。警察が来れば、そのあたりのことも調べられるだろう。知らないと言っても、信じてもらうには時間がかかるだろう。
「しかし、このままというわけにはいかないだろう」
石山は備え付けの電話の受話器を取り上げようとした。
「待て! ジュリエットを探して説得しよう。それに時間が経てば、冷静さを取り戻して戻ってくるかもしれない」
小島はなんとか電話をかけさせないように石山にしがみついた。
「往生際が悪いですよ、小島さん。腹を括りましょう」
細川が小島を羽交い絞めにして引き離した。
「お願いだ! 警察は、警察はやめてくれ! ジュリエット! 戻って来い――戻ってきてください!」
細川に羽交い絞めにされた小太りな身体をじたばたさせ、悲痛な叫びを上げたが、石山の指が三つ目のダイヤルを押そうとしていた。
しかし、その時、調整室の扉が乱暴に開けられた。石山は驚いて、ダイヤルを押す指を止めて、そちらを見た。
扉の向こうにはジュリエットが抜き身の剣を下げて幽鬼のように立っていた。その不気味なほどの威圧感に小島以外は寒気を覚えた。
「おお、ジュリエット! 戻ってきてくれたか! ありがとう。本当にありがとう! さあ、リンクを切ろう。舞台は終わったんだ」
小島は細川の力が緩んだ隙に羽交い絞めから抜き出るとジュリエットに駆け寄った。しかし、駆け寄った途端に彼女に殴り飛ばされた。
ジュリエットに殴り飛ばされた小島は鼻血を出しながら無残に床に転がったが、失神している程度で命に別状はなさそうだった。制御不能の軍事用マリオネットに殴られたことを考えると、それはかなりの奇跡だった。
「終わった? 何が終わったといいいますの? 舞台が終わったのなら、どうして私は生きていますの? 私はロミオ様の後を追ったはずですわ。まだこの命が永らえているのは終わってない証拠ですわ。ええ、そう。まだ、終わっていませんわ」
「いや、終わったんだ。舞台は終わった。ジュリエットは関根義孝に戻る時間がきたんだ。さあ、戻ろう」
丸山はジュリエットの剣を持っていない方の手にカードが握られているのを見取って、全てを悟った。
「関根、ジュリエットのままで居つづけることなんて不可能だ。わかるだろう? ベテランのお前なら」
「さあ、関根。馬鹿な真似をやめて、カードをこっちに渡してくれ」
石山と細川もジュリエットを説得しようと距離を保ちつつ彼女を囲んだ。小島を殴り殺してしまわなかったのは、まだ理性が少しは残っているためと三人とも判断していた。
「関根義孝……」
ジュリエットはうめくようにつぶやいた。
「そうだ。お前はジュリエットではなくて、関根義孝だ」
少し正気を取り戻したのかもしれないと三人は喜色を浮かべた。
「ああ、関根義孝。関根義孝! 私はジュリエットではなく、関根義孝!」
ジュリエットは嘆くように声を上げた。
「そうだ。その通りだ」
「さあ、関根義孝に戻ろう。ジュリエットの時間は終わったんだ」
三人は必死にジュリエットを説得しようと声をかけた。しかし、ジュリエットの様子がおかしなことは変わりなく、逆に悪くなったようにも見えた。三人の希望的観測が崩れかけ、顔が引きつり血の気が引いていく。
「そう。私は関根義孝。冴えないマリオネット操者の関根義孝。光り輝くジュリエットではありませんわ」
剣を掲げ、寂しく笑った。
「ロミオ様が愛したのはこのジュリエット。決して、関根義孝ではない。関根義孝って何? この手でも足でもない。腕でも顔でもない。マリオネットのどの部分でもない。だから、関根義孝は要らない……だから、捨てるの。さあ、剣の鞘となりなさい。私がジュリエットになるために!」
ジュリエットは剣を構えて、関根義孝の体が入っている黒い殻に突進した。
黒い殻は厚く丈夫にできているが、衝突のショックで生命維持のラインが損傷する可能性があり、そうなれば操者は助からない。しかし、軍事用マリオネットの突進を生身の人間が止められるはずもない。三人はただ、突進するジュリエットをスローモーションのビデオでも見るように眺めていた。
そこに一つの金色の影が飛び込んできた。金色の影は黒い殻を守るようにジュリエットの前に立ちはだかると、ジュリエットは突如、突進をやめた。
「ロミオ様……」
金色の短い髪をした美青年、ロミオが両手を広げて大の字になって立ちふさがっていた。ジュリエットの剣は切っ先が服に触れるか触れないところで止まっている。おそらく、剣で刺されてもロミオは身体で突進を止めるつもりだったのだろう。
「ロミオ様……」
もう一度、ジュリエットはつぶやいた。そのつぶやきは悲しみに満ちて、彼を非難する香りが漂っていた。
「ジュリエット。この中にあるのは、ジュリエットの心だよ。僕の愛したジュリエットは、その美しい手と足、顔と腕。それだけだと思っていたのかい?」
ロミオはジュリエットに歩み寄り、剣を握る手にそっと手を重ねる。ジュリエットは魔法が解けたように剣を床の落とし、騒がしい金属音が部屋に響いた。
「僕が愛したジュリエットは、一番愛したジュリエットはその魂の美しさだよ。それを消し去ろうとするのかい? 僕からジュリエットを奪おうとするのかい? そんなことをしたら、僕は毒をあおって死ななければいけなくなる。罪なジュリエット。僕まで殺してしまうのかい?」
「ロミオ様!」
ジュリエットは彼の名を呼び、それ以上は言葉もなく、抱きついて、ただ泣きじゃくっていた。
「さあ、おやすみ。信じていれば、また会えるよ。決してあきらめずに、生きていれば」
ロミオはジュリエットを抱き上げると調整用のベッドに寝かした。
「ああ、おやすみ、ロミオ様。もう、会えることもないかもしれないけど、私は信じて待っています。だから、どうか私を忘れないで」
「ああ、忘れないよ、ジュリエット」
「ロミオ様……おやすみのキスをしてくださらない。そして、さよならのキスを」
ジュリエットは駄々っ子のようにキスをせがむと、ロミオは優しく彼女のおでこにキスをして、ゆっくりと唇を重ねた。
「ありがとう、ロミオ様。もう一つお願いがあるの。私の心がこの身体と離れるのはご覧にならないで。きっとあなたは幻滅してしまうわ。だからお願い」
「幻滅なんてしないよ。でも、わかったよ、ジュリエット。君が望むなら。おやすみ、僕の聖者様」
ロミオは再び彼女にキスするとジュリエットからカードを受け取り、丸山に手渡すと調整室から出て行った。
ロミオが扉を閉じる音が響くと、丸山はカードを差し込んで、認証を終了した。
「じゃあ、ジュリエット。リンクを切るよ」
ジュリエットは何も言わずに目を閉じたままうなずくと、その目尻から一筋の涙が流れた。
丸山はリンクを切断するコードを打ち込んだ。
「CROS――チャンネル・リモコン・オペレーティングシステム。リンク切断プログラム始動します――脈拍、血圧、血中酸素濃度……異常値。許容範囲外。手動切断しますか? パスワードを……認証しました。接続モード解除します。終了プログラム始動します。よろしいですか?」
「ユーザー名、関根義孝で承認。“ジュリエット”停止」
「……生体情報再確認しました。関根義孝様。ジュリエット停止します。5、4、3、2、1……」
リンクが切断され、関根は暗闇に沈んだ。
* * *
実害はなかったが、マリオネットを破壊しかけたことや、プロデューサーの小島に暴行を働いたことで関根は契約破棄された。本来ならギャラも支払われないところだが、舞台監督の石山と演出の細川が彼をかばってくれたおかげで、かなり減額されたが支払われることになった。
「勘違いしないでくれ。無茶させた責任を感じてのことだ。正直、君とはこれから組みたくはない。いい演技をしても役に飲まれるような役者は役者といわない」
細川は関根に荷物をまとめてすぐに出て行くように冷たく言うと、顔も見たくないと調整室を後にした。
「残念だが、俺も同感だ。おしいな。俺たちはお前さんを結構、買っていたんだぞ。今回も無理を言ってお前を主役に抜擢したんだ。残念だよ」
石山も眉をしかめて細川の後を追った。
「本当を言うと、殺してやりたい気分だよ。二度と面を見せるな。僕の純情を馬鹿にしやがって」
丸山は彼の方を見ようともせず、怒りをあらわにして机を殴った。そして、彼を無視するように“ジュリエット”の修理を始めた。
「すいませんでした。ありがとうございました」
関根は頭を下げて劇場を後にした。
すっかりと夜も更けて、観客たちもとっくの昔に家路について、公園は閑散としている。
出演者や裏方のほとんどは、偶然出会ったことにして、実質上の打ち上げに行ってしまっているので、劇場の周辺は物悲しさしか漂っていなかった。
関根は半分以上魂が抜けたようになって駅に向かおうとした。
「関根さん」
不意に声をかけられて、振り返るとここ数日、妙に縁のあるショートカットの女性が立っていた。
「ああ、志穂さん……」
「随分と気のないご挨拶ね。せっかく待っていてあげたのに」
関根のそばまで志穂は歩み寄ると頬を膨らませた。彼はその愛らしさに思わず笑顔をもらした。彼女の表情を見ていると、なぜかさっきまでの騒ぎと自分の落胆がまるで劇中のことであるかのように思える。
志穂には空気を一瞬に変える才能がある。役者になったら大成するかもしれない。関根はこんな時も演劇のことを考えてしまう自分に苦笑した。
「でも、とっても綺麗だったわよ、ジュリエット。ほんと、恋しちゃいそうだったわ」
志穂は思い出すように空中に視線を移すと、胸の前に手を組んで悩ましく息を吐いた。
「ありがとう。でも、君は席にはいなかったみたいだけど?」
彼のあげた席には外国人の男女が座っていた。それを見たときはがっかりしたが、券を無駄にしなかっただけでも感謝していた。
「あ、ちゃんとチェックしてたんだ。なに? 私をナンパする気だったの?」
いやらしいと言いたげに含み笑いをされて、関根は両手を振って否定した。
「違うよ。これでも僕は役者だよ。観客席はちゃんと見ているよ。自分のあげた席なら特にね」
そう言い訳しながらも、志穂自身があの朝食の時に逆ナンパしたことはノーカウントなんだなと関根は女の子の基準がやはりわからないと改めて実感した。ジュリエットを演じている時は判ったつもりでいたのに……。
「どうかしたの?」
言い訳しながら急に暗く落ち込んだ表情を見せた関根に志穂は怪訝な顔をした。
「いや、なんでもないよ」
「そう? でも、ごめんなさいね。観にいきたかったけど、どうしても仕事があって、行けなかったから」
志穂が申し訳なさそうに謝ったので、彼は首を振った。
「いいよ。無駄にならなかっただけでも御の字だよ。また今度――」
そう言いかけて、はたと気が付いた。もしかしなくても、これが最後の舞台になるかもしれない。今回の件は狭い業界に広まるのは時間など要らないだろう。
そう思うと、関根は急に喪失感で心が消えてしまいそうになった。
「なにかあったの?」
「いや、なんでもないよ。こっちのことさ」
志穂に声をかけられ、関根はなんとか、正気を保っている自分に正直驚いた。
「ふーん、それならいいけど。でも、ジュリエットが輝いてたのは本当の話よ」
志穂は関根の気持ちを知ってか知らずにか、ジュリエットを賞賛した。
「テレビを見たの? 朝のニュースの……。そういえば、どうして僕がジュリエットだって知っているんだい?」
関根はふと志穂が秘密である役のことをなぜ知っているのか。よく思い起こすと、これまでも彼女は彼がジュリエットであることを知っていたとしか思えない台詞を口にしていることに気がついた。
「ふふ、どうしてだと思う、関根さん?」
志穂はやっと気がついたかと言いたげに含み笑いを浮かべた。
「劇場の関係者?」
公表はされていないが、関根ほどの経歴があれば知られていることもある。
「ハズレ」
「その手のマニア」
インターネットなどでマニアが予想していることもある。実際、初日が終わって言い当てられているサイトがいくつかあった。しかし、公演前に正解していた。
「そうかも知れないけど、ハズレ」
「僕のストーカー」
最もありえないが、残るのはこれぐらいだと思った。
「大ハズレ」
彼女は腕を交差させて、大きくバッテンして見せた。そして、それも外れたとなっては、残っているのは最悪の項目だけであり、関根は頭を抱えたくなった。
「……出演者?」
同じ劇の出演者にチケットを渡すなんて、いくら顔を知らないとはいえ、恥ずかしいことこの上ない。
「ピンポーン♪」
志穂は腕で大きく丸を作って、明るく正解のチャイムを鳴らした。
「って、誰だ? モンタギュー夫人? いや、あれは違う。キャピュレット夫人? それも違う。……正体不明といえば、召使役?」
関根は出演者を思い浮かべた。主役、準主役級はほとんど予想がついていた。わからないのは端役の若手ぐらいである。
「失礼ね。あんなくされ大根に思われるなんて」
志穂は眉をひそめて、真剣に嫌そうな表情をした。
「ごめん」
関根は素直に謝った。確かに召使役の一人は大根であった。棒立ちで台詞を言ったり、台詞の間が悪かったり、そのくせ無理に目立とうとしており、正直なところ出演者たちから邪魔にされていた。
比較的、演技力不足の役者に寛大な関根もあまりのひどさに嫌味を言ったぐらいであった。
「あの召使は村上信二よ。予想以上の大根で細川さんも苦労したようね。そのくせ、役が小さいって文句を言うんだから困ったやつよね」
志穂は腰に手を当てて鼻息を荒くした。関根はロミオが村上信二と思っていたので、驚きに口をぽかんと開けたまま間抜けな顔をさらしていた。
「どうかしたの?」
呆けている関根に志穂は怪訝な顔をした。
「じゃあ、ロミオ様は? いったい誰なんだ?」
「はぁ~。やっぱりね」
志穂は外人がよくするように肩をすくめてため息を吐きながら首を左右に振った。
「どういうことだ?」
関根が状況についてこれないのを見て、志穂はコンクリートの腰壁の上から飛び降りて関根のところまで歩み寄った。そして、関根の前にひざまずくと、少し芝居がかったふうに目を閉じ、片手を胸に当て、もう片手を彼に伸ばした。
「――僕はそんな君をずっと見ていた。無力な何もできない小娘なんかじゃない。愛する人のためにロレンス神父の仮死の薬さえ飲み干すほど強い。僕は知っている。一人で立てない? みんながいるじゃないか。さあ、君はジュリエット。僕の愛する史上最強のジュリエットなんだ」
すっかり夜の更けた公園に朗々と彼女の『台詞』が満たされていく。
志穂は台詞を言い終わると片目を開けて意地悪く笑った。
「その台詞は……」
足首を痛めたときにロミオがジュリエットに言った台詞である。この台詞を知っているのは、ジュリエットである彼とロミオを演じていた人間だけ。
なによりも、その――言葉も内容も言い方もキザなくせに気に障るいやらしさのない自然な仕草はロミオ以外に不可能であった。
「信じていないのかい? 信じていればきっと会えると約束したじゃないか。それとも、キスをするまで思い出せないのかい? 忘れんぼうのジュリエット」
志穂は立ち上がると、少し爪先立ちになりながら関根にキスをした。姿形は違っても、それはロミオのキスであった。
唇が離れ、関根は少しよろめきかけた。
「どうして……ロミオ様がこんなところにいらっしゃるの? どうして?」
姿形が違っても、目の前の志穂がロミオなら今の関根はジュリエットであった。オカマ言葉で気持ち悪いどころか、彼の声はジュリエットの華やかな、そして危うげで繊細なそれであった。
「本当に忘れっぽい、私が愛したジュリエット」
志穂はロミオのまま苦笑を漏らした。
「私はジュリエット、君の魂の美しさに惚れたと言ったはずだよ。だから、私も魂だけとなって君に会いに来た」
関根は志穂の告白に息を呑むだけで何も言えなかった。志穂はおもむろに、ロミオを演じるのをやめ、素の彼女に戻って、ぺろりと舌を出した。
「恥ずかしい話、私もジュリエットに恋をしちゃったのよ」
志穂は照れ隠しに苦笑いしたが、その目はふざけても、いい加減でもない真剣なまなざしであった。
「役者として失格だけどね。でも、惚れちゃうぐらいあなたの演技は心に響いたわ」
志穂の告白に関根は首を振った。あれは演技ではない。あれを演技といってはいけない。
「でも、感動させたのは確かよ」
「ありがとう。そういってもらえると少しは救いがあるよ。最後の舞台となりそうだけどね」
「最後?」
志穂の意外そうな顔に関根は苦笑で返した。
「あんな騒ぎを起こしてはもう仕事はもらえないよ。劇団の座長からもさっきクビって電話があったからね」
覚悟はしていたが、まさか劇場を出る前に電話があるとは思わなかった。座長とは古い役者友達であったので、迷惑かかる前に辞めるつもりだったが、そんな心配は杞憂だったようだ。
「まあ、役者一筋でやってきたが、アルバイト経験も豊富だし、別の職も苦にはならないと思うよ」
志穂を安心させるというよりも、関根自身が安心しようとするように今後の方針を口にした。
「ふーん。だけど、舞台の、あの快感を忘れられるの?」
「忘れられる? 忘れられるわけないじゃないか!」
関根は志穂の言葉に思わず声を荒げた。
「忘れられているのなら栄養失調で倒れる寸前までなりながら役者を続けたりしない。ああ、そうだよ。他の仕事を探しながらでも、きっと、どこかで役者を続けられないか無様にあがくよ。悪いか? 僕は演劇、役を演じるのが好きなんだ。くそっ」
八つ当たりをしているのはわかったが、関根は自分の言葉を止められずに胸の中にあった澱を吐き出した。
「悪くないわよ。大歓迎。ということで、ねえ、私のいる劇団にこない?」
志穂は関根の反応に満足とばかり笑顔満面であった。そして、その唐突な誘いに関根は変な表情のまま固まった。
「変な顔で固まらないでよ。それで、来るの? それとも、断る?」
「いや、その……劇団? 君のいる?」
関根は志穂の言葉が正確に理解するまでまだ時間がかかりそうだったので、思わず彼女の言葉を聞き返した。
「そうよ。私がいちゃ嫌?」
冗談めかして志穂は笑った。その笑顔はどこか、悪戯する時のロミオに似ていた。
「いや、そうじゃなくて……」
「あ、そっか。お給料の心配ね。最高とはいえないけど、そこそこは出せるわよ。少なくても役者以外の仕事しなくても生活できて貯金もできるぐらいには。詳しいことはマネージャーと相談しないとだめと思うけど、それぐらいは保障するわよ」
「いや、そうじゃなくて……」
役者で貯金できるなど一流半以上の待遇に内心驚いていたが、関根の聞きたいことは他にあり、同じ言葉を繰り返した。
「役の心配? それは実力次第よ。そんなに甘くはないんだから。もっとも、あなたなら大丈夫よ。私についてこれるんですもの」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、何よ!」
志穂の忍耐が限界に達して、いらだたしげに逆に聞かれた。
「僕は役に呑まれるような危ない役者だよ。また、あんなことをするかもしれないよ。それでもいいのかい?」
関根は自分自身のマリオネット操者としての危険性を他の誰よりも感じていた。しかし、志穂は明朗に笑って、明快に答えた。
「なんだ、そんなこと。たまにはあってもいいんじゃない? そういうのも」
関根の心配が「そんなこと」扱いされて驚いていたが、志穂がまったく気にせずにいるので、彼も本当に「そんなこと」のように思えてきていた。
「――というわけで、そろそろ、答えを聞かせてくれないかな?」
志穂の性急な回答を求める言葉に関根は少し困惑した。
「考える時間はないんだ」
関根の言葉に志穂は少し不安そうに顔を曇らせた。
しかし、それはここまで志穂に振り回されたことへの仕返しで、すでに関根の答えは決まっていた。
大きく深呼吸をすると目をつむり、月光のスポットライトを感じた。
「行きますわ――愛するロミオ様がいるのなら、どこだってついて行きますわ。死の国だってついて行ったじゃありませんか。お忘れになったの? だったら、思い出して。私はあなたのジュリエットだということを」
ジュリエットは、先ほどのロミオがした意趣返しをして、にっこりと微笑んだ。
「おおっ。それでこそ、愛する僕のジュリエット。さあ、本物たちはたどり着けなかった二人の新天地へ。二人揃えば、そこが最高の舞台だ」
二人は抱き合って、熱い抱擁をかわした。
「ところで、その前に一つ条件があるんだけど?」
抱擁をひとまず離れて関根は志穂に聞いた。
「注文多すぎるわね。言ってみて」
志穂は苦笑を浮かべて、関根に聞き返した。
「名前を教えてくれないか?」
「名前? 私の? それとも、劇団の?」
志穂はいたずらっぽく笑った。
「あ、それじゃあ、先ずは君のフルネームを教えてくださらない、ロミオ様」
「それを聞けば、両方わかるわよ。同じだもの」
「同じ?」
「ソフィア・志穂・カーネル。カーネル劇団オーナーの娘にして、看板マリオネット男優よ」
関根はその答えにしばらく目を丸くした。そして、もう一度、志穂を抱きしめた。
「ああ、やっぱり、あなたは最高よ。ロミオ様!」
終劇
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?
ご感想などありましたら、お聞かせくだされば、嬉しいです。
劇中劇の台詞は『シェイクスピア全集――ロミオとジュリエット』小田島雄志訳(白水uブックス)を引用しました。




