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僕はあの手の持ち主が玄関へと戻ってくる前に、這って階段を上がり、そのまま部屋へと戻る。
いつから、この家に僕一人になったのか――おそらくは十年前だとは思うが、それからも僕の部屋に、あの何かが入ってくることはなかった。少なくとも、僕の部屋が、この家で一番安全なのではないだろうか。
アレは、対峙しても、僕に危害を加えなかった。
ただ、それが、安全の証明にはならない。
たまたま、そういうタイミングだったのかもしれない。何か、条件があるのかもしれない。僕が母さんの異変に気が付いていないふりを徹底したから、まだ、僕を騙せているのだと、向こうも勘違いしているのかもしれない。
玄関で、母さんの真似をしていた何かにあっても、無事に部屋へ戻ってこれたのは、ただの幸運だ。
僕はカバンをひっくり返し、スマホを取り出す。不幸中の幸いだが、ネット環境はつながっている。頼れる相手はいないが、外と全く連絡が取れないわけでもない。
ネットの掲示板や、質問サイト、相談所、ありとあらゆる場所に、僕は現状を書き込んだ。誰でもいいから、助けてほしい。
いっそ、警察に怒られてでもいいから、通報をしようかとも思った。適当に事件をでっち上げれば、来るには来るだろう。
しかし、通報時間から到着時間の間に、あの何かが僕の異変に気が付き、部屋に入ってきたら、ということを考えたら、無策で通報することはできない。
せめて、今、自分が無事でいる理由が分かっていないと――。
「――、クソッ」
僕は悪態をつき、頭をかきむしる。しばらく洗っていない髪の触り心地は最悪で、指先についた脂が不快だった。
どれだけいろんな場所に相談してみても、おおよその反応は一緒だった。
それは捨てられたんだから大人しく働け。あるいは、何かの病気か薬で幻覚を見ているだけ。
「僕だって、気が付いたのが、母さんたちがいなくなった直後だったらこんなに焦ってないって……!」
ニートでありながら、親に捨てられたのが問題なんじゃない。
誰もいないのに、ずっと世話してもらっていたのがおかしいのだ。
それに、幻覚でも何でもない。現に、料理は用意されている。トイレや風呂の掃除が幻覚で実はとてつもなく酷いことになっている、というのは百歩譲っても理解できる。
でも、あの料理が偽物なわけがない。
出来立ての手作り料理が幻でも、何かしら栄養になるものが、決まった時間に同じ場所へ必ず現れるなんてこと、あるわけがない。僕は霞を食って生きていたとでも言いたいのか?
しばらく待ってみても、何度ブラウザを読み込み直しても、僕の現状を教えてくれるコメントは一つもなかった。
――コンコンコン。
扉がノックされ、僕は肩を跳ねさせた。ずっとスマホを見ていたから気が付かなかったが、外に出ることに失敗してから、もう結構な時間が経ったらしい。つい最近まで、音がしたら何も考えず扉を開けていたというのに、ただのノック音が酷く恐ろしい。
とてもじゃないが、料理を食べる気にならいが――ただ、母さんには、ご飯を食べろという命令にうなずいてしまっている。
食べなかったとしても、部屋の中で処理することは必須。
僕は仕方なしに、扉を開けた。
今日の昼食のメニューは、親子丼と麩のお吸い物、それから漬物のようだった。律儀にメニューを必ず変えるのも、実に母さんらしい。
そして――。
「……ッ」
――僕が子供の頃に読んでいた、週刊漫画雑誌が、盆の横に綺麗に置かれていた。




