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母さんから勧めたものなら、そんなに怒らないのでは、と思っての選択だったが、「そう、分かったわ」と納得してくれたようだった。いい歳して、と言われなくてよかった。
会話が終わっても、僕はしばらく動けない。
ようやく、接着されたのではないかと思うほど、ドアノブとべったりとくっついていた手を離す。
すると、背後からうっすらと感じていた気配が消えた。
出て行かない。
それが正解の選択肢だったようだ。
振り返る勇気がなく、僕は一歩、そのまま下がる。このまま後ろを向いたまま部屋へと戻れるとは思わないが、極力、振り向きたくなかった。
「――そういえば」
気を抜いていたところに、耳元の少し後ろ側から母さんの声が聞こえて、僕は「ひっ」と情けない声を上げると、そのまましりもちをついてしまった。もう行った、と気を抜いていたからか、一気に心臓が暴れだす。
打ち付けた尻よりも、胸の方が痛い。僕は思わず、服の胸元を握りしめた。
「ごはん、食べてないでしょう。食事は一日三食、ちゃんと食べなきゃだめよ」
「わかっ、わ、……ッ」
喉がひきつり、声が出ない。息がうまく吸えない。それでも、僕は反抗する意識がないことを示すために、必死になって、首を縦に振った。
ダダダッと勢いよく足音が、遠のいていくのが聞こえる。廊下を走るには少し不自然な音。あの日、階段を駆け上がってきた音に似ていた。
でも、音が消えていった方角からして、階段を上ったということはない。多分、廊下の突き当りの方へ行ったのだと思う。
廊下の突き当りには、扉が三枚ある。左がトイレ、正面が脱衣所、右が台所へとつながる扉。扉が開く音こそしなかったが、三つのうち、どこかへと行ったのだろう。
あるいは――そのまま、廊下の奥で消えてしまったか。
今度こそ、今度こそいなくなってくれたか……?
「は……ッ、はぁ……ッ!」
僕はなんとか呼吸を落ち着かせ、立ち上がろうとする。しかし、息が上がったままでも、徐々に正常なものへと変わる呼吸とは違い、下半身に力が入らない。腰が抜ける、とはこういうことなのだろうか。
僕は視線を下に向けたまま、廊下に上半身を乗せ、そのまま玄関から抜け出ようとする。靴を脱ぎ、そのまま廊下へと身をのり上げて、よじのぼるようにして上がる。
上を見る勇気はなかったが、どうしても、振り返って動けば廊下が視界に入る。
母さんの足は――なかった。
そのまま、意を決して視線を上げていくが、誰もいない。埃っぽい、傷んだ廊下があるだけ。
廊下の奥は、晴れた日の午前とは思えないほどの、暗い闇だけが広がっていた。




