第60話: 偽りの服従、その裏に燃える炎
はじめまして、または再びこんにちは。今回もお付き合いいただきありがとうございます。
アジア各地で侵攻が続き、戦場が混乱に包まれていた――その最中だった。
PANDEMONIUMの軍用通信網全域に、突如として緊急通信が入った。
インドネシア近海を航行するPANDEMONIUMの指揮艦。
その艦内で、一人の高級将校が届いた通信を確認し、表情を強張らせた。
「全ユニットへ通達する!」
彼は自らの指揮下にある全部隊へ、素早く命令を伝える。
「我々は撤退する。今すぐだ!」
「撤退……?」
部下の一人が困惑した声を上げる。
「ですが、司令官。我々は今まさに前進を開始したばかりです。なぜ、このタイミングで撤退を?」
「中央司令部からの直接命令だ」
将校はそう答えたものの、その声には彼自身も理解できていないという戸惑いが滲んでいた。
「全軍、可能な限り速やかにホール・スラヴナ連邦へ帰還せよ。例外は認めない」
その命令は、瞬く間に各戦線へと伝達された。
インドネシアの海域。
ベトナムの森林地帯。
そして、現在も激戦が続いている各地の前線。
一つ、また一つとPANDEMONIUMの部隊が戦場から離脱していく。
まだ完全には制圧できていない戦場を突然放棄したことで、必死に防衛していた各国の部隊にも困惑が広がった。
そして――。
ホール・スラヴナ連邦の広大な領域、その中心。
険しい山々と、巨大な双子の要塞門――「鉄門」に守られた場所に、壮麗な宮殿がそびえ立っていた。
その宮殿の最奥にある大広間。
薄暗い室内の玉座に、PANDEMONIUM最高指導者――マラキ・ヴァントールが座っていた。
「なぜ今、全軍を呼び戻したのですか?」
数歩離れた場所で、一人の側近が恭しく尋ねる。
「我々は現在、各戦線で優勢に立っています」
マラキはしばらく答えなかった。
ただ、玉座の肘掛けを指先で静かに叩いている。
そして――。
「なぜなら……」
静かな声が、広間に響いた。
「一時的な領土などよりも、はるかに重要な報告が入ったからだ」
マラキが片手を上げる。
すると、巨大なホログラムスクリーンが空中に展開された。
そこに映し出されたのは、衛星から撮影された一つの地域だった。
見覚えのある場所。
かつてPANDEMONIUMによって徹底的に攻撃され、そして天才科学者アラリック・シロガネが命を落とした――あの秘密基地だった。
マラキの目が細くなる。
「……あの少年だ」
「奴は……まだ生きている」
側近が息を呑んだ。
「そして今では――」
マラキはスクリーンに映る基地を睨みつける。
「本来、我々のものになるはずだったものを、すでに引き継いでいる」
側近は、ようやく今回の撤退命令の意味を理解した。
「全戦力を集結させろ」
マラキの声から、先ほどまでの静けさが消えていた。
代わりに、冷徹な計算が滲んでいる。
「もう無闇に攻撃を仕掛けることはしない」
「今度こそ、根本から問題を消し去る」
マラキは玉座から立ち上がった。
そして、大広間の壁一面に広がる巨大な世界地図へと歩いていく。
指先が、一つの国から別の国へとゆっくり移動していった。
「まずは、あの少年を消す」
「そして――アラリック・シロガネが残したすべての遺産もだ」
マラキは淡々と続ける。
「その後、資源を生み出す国々を支配する」
「それから一つずつ……超大国を我々の足元へ跪かせる」
宮殿の外。
海岸線には、巨大な砲台が整然と並んでいた。
その砲口は、遥か沖合を航行するロシアと中国の軍艦へと向けられている。
国境付近を監視していた軍艦の姿を確認すると、砲兵指揮官が冷静に命令を下した。
「撃て」
次の瞬間――。
大地を揺るがすような轟音が響き渡った。
巨大な砲弾が空を切り裂き、沖合の哨戒艦の一隻へと飛んでいく。
直撃を受けた艦は大きく揺れ、船体から炎と黒煙が立ち上った。
その光景を、PANDEMONIUM側の兵士たちは無言で見つめていた。
一方――。
遥か遠く、カリマンタン。
現在、俺たちの指揮下にある秘密基地では、バガスが独立青年団の幹部たちを小さな会議室へ集めていた。
机の上には、広げられた戦術地図が置かれている。
「PANDEMONIUMの反撃に備えるには、特別な作戦が必要だ」
バガスは真剣な表情で地図を見つめる。
そして、机の端に座っている一人の青年へ視線を向けた。
「何か案があるんだったな?」
青年は頷き、地図上の一点を指差した。
「ここで偽装攻撃を仕掛けます」
「奴らが追撃したくなる程度に見せかけて、実際には罠を仕掛けた区域へ誘導するんです」
会議はそのまま続いていった。
参加者たちは、作戦の細部について慎重に意見を交わしていく。
だが――。
突然、バガスが片手を上げた。
「……もういい」
冷たい声が会議室に響いた。
バガスは、先ほど作戦を提案した青年を鋭い目で見つめている。
「俺たちはもう知っている」
「お前は……俺たちの仲間じゃない」
その瞬間。
会議室が完全な静寂に包まれた。
「お前がこれまで伝えてきた情報は――全部、偽物だ」
青年はしばらく言葉を失った。
やがて顔を青ざめさせ、震える声で答える。
「な、何を言ってる……? そんなはずはない……どうして分かった!?」
「最初から気づいていた」
バガスは一切の迷いなく答えた。
「お前の仕草、話し方、そして何かを聞かれた時の反応……」
「全部、俺たちとは合っていなかった」
室内にいた他のメンバーたちが、ゆっくりと青年を取り囲む。
その中には、俺たちの仲間もいた。
全員が警戒しながら、青年から目を離さない。
「ま、待て……!」
青年は慌てて後退し、両手を上げた。
「俺は――」
しかし、その言葉が最後まで続くことはなかった。
乾いた一発の銃声が、会議室に響き渡った。
青年はその場に倒れ、室内には重い沈黙だけが残った。
しばらくして、バガスがゆっくりと息を吐く。
そして、俺たち一人一人の顔を見渡した。
「……本当の作戦は、ここからだ」
バガスが語り始めた。
それは、先ほどまで話し合っていた作戦とはまったく異なるものだった。
PANDEMONIUMに対して、完全に服従したように振る舞う。
まるで抵抗する意思など、もう残っていないかのように。
そして敵に――「抵抗勢力は完全に消えた」と思わせる。
敵の警戒が最も緩んだ、その瞬間。
各地で一斉に反乱の火を灯す。
それが、バガスの本当の計画だった。
「奴らに、すべて終わったと思わせるんだ」
「そして……油断した瞬間に、一斉に動く」
こうして、その作戦は正式に開始された。
やがてPANDEMONIUM軍が再び前進を始める。
彼らは完全に信じていた。
この地での抵抗は――すでに完全に崩壊したのだと。
だが、その裏側では。
誰にも知られることなく、反撃の火が静かに燃え始めていた。
――まだ誰も、その炎がどれほど大きく燃え上がるのかを知らない。
――次回へ続く。
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