19.誘惑
うなじに感じた痛みは手のなかで引いていき、なんとなく藤山くんが何をしたのか理解した。
真偽を確認するためにトイレの鏡でうなじを確認しようとするも、よく分からなかった。
帰宅してからも、母に見てもらったが何も残っていないと言われてしまった。
それで納得すれば良かったのかもしれないが、やっぱり気になって、次の日登校すると理央に話しかけた。
「理央、悪いんだけどちょっとうなじを見てくれないかな?」
「いいけど、何かあるの?」
「昨日、藤山くんに一瞬うなじを噛まれた気がするんだけど、本当にそうだったのか気になっちゃって。何か分からないかな?」
背を向けてうなじを理央に見てもらえば、彼は「うーん」と唸った。
「αじゃないと噛み跡って残りにくいから、見ただけじゃ噛まれたかどうか分からないなぁ。それに、一瞬だったんだろう? でも言われてみれば少しへこみが……ないなぁ」
「そっか。見てくれてありがとう」
「期待に応えられなくて悪いね」
「べ、別に期待はしてないよ。ただどうなってるのかなって気になっただけで……」
たじろぎながら返事をする。
決定的な証拠を見つけることは出来なかったが、恐らく、藤山くんに噛まれたということであっているはずだ。
噛まれた理由は、α同士で行う抑制は知っていて、それに倣い僕を懲らしめようとしたのだろう。
αの中でΩにうなじを噛まれたのは、きっと僕だけだろうなと考えると少し情けなくなるが、相手が藤山くんなら仕方がない。
噛まれたうなじを撫でて思い耽っていれば、謙介が肩に肘を乗せてニヤニヤ顔でからかってきた。
「颯汰ぁ〜、知らないのか? 番うにはαがΩのうなじを噛まないといけないんだぞ〜?」
「わ、分かってるよ」
基礎知識すらないのかといじられたことへの心外さと、居たたまれない気持ちが絡み合いながら返事をした。
下校時間になって昇降口で靴を履き替えていれば、誰かの視線を感じた。
顔を向ければ、下駄箱の影に身を隠している藤山くんと目があった。
彼は逃げるようにさっと顔を引っ込めたが、再びそろそろと顔を半分出した。
怒られるのが怖いのか、眉は曇り、唇は引き結んで、気まずそうな面持ちで僕の顔色を窺っている。
その姿が、テレビで見る悪戯をした後の犬猫の様子に重なって見えて、気が抜けて可笑しくなって、ふっと笑みが溢れた。
「藤山くん、こっちにおいで」
手招きして優しく声をかけると、藤山くんは見定めるように僕の顔を見つめた。
暫く微動だにしなかったが、安全だと分かったのか恐る恐る出てきた。
藤山くんは緊張で肩が上がり、強張った表情でバツが悪そうに目を合わせず、斜め下を向きながらボソリと呟いた。
「……怒ってる?」
「怒ってないよ。でも次から噛むときは前もって言ってほしいな。びっくりするから」
次があることを備えるのもどうかと思うけど、藤山くんは何をするか分からない子なので、念には念を入れておく。
藤山くんは考え事をするように黙り込んだ後、唇を尖らせながら渋々と言葉を紡いだ。
「しゅどうしないなら、もうしない」
「……α同士のじゃれ合いみたいなものなんだけどなぁ」
「じゃれ合いじゃなくて浮気だろ! 都合の良いように言い換えるなよ!」
小声でぼやけば、烈火のごとく怒られた。
藤山くんはお冠のようで、ムスッとして顔を背けた。
そんな彼を横目で窺いながら、目から鱗が落ちるような気持ちになった。
今まで考えたことなかったけど、Ωから見るとα同士の触れ合いって浮気みたいに感じるんだ。
感覚的には動物同士がじゃれ合うみたいな感じなのだが……、藤山くんからしたらうなじを噛みたくなるくらい許せないのか。
だけど抑制の知識はあるようなので、もう少し上手く説明できたら分かってもらえるかもしれない。
こちらに向けられている金髪の頭に諭すように声をかける。
「恋愛感情は一切なくて、どちらかと言うと親しみとか信頼とかの意味合いだから、そこまで心配しなくても大丈夫だよ」
「あっちがあるかもしれないだろ!」
「ないよ」
「ある!」
「ないよ」
「ある!」
不毛なやりとりが始まった。
穏やかに否定の言葉を繰り返していれば、藤山くんの勢いは次第に弱まっていった。
拳を握った手が徐々に下がって、俯き黙り込んだ。
意固地になりすぎたかなと少し反省して、声を掛けようとすれば、藤山くんは上目遣いで見上げてきた。
「……なら俺にもして」
「え?」
「じゃれ合い」
藤山くんは人差し指で自身を指し示して、純粋無垢な瞳でお願いしてきた。
それを耳にして、僕は直ぐにはピンとこなくて瞬きしたが、じっと見つめられてじわじわと言われていることの意味を理解する。
えーっと。つまり、藤山くんの首筋を撫でたり、顔を両手で包んで頬ずりしたりするってこと……?
想像した瞬間、一気に顔に熱が集中した。
駄目だ! 絶対に不純な触れ合いになってしまう……!!
心の中で叫んで断言すると、両手をかざして勢いよく首を振った。
「そ、それは出来ないよ!」
「!? αは良くて、なんで俺は駄目なんだよ!?」
強めに断れば、藤山くんは即座に反応し、迫りながら追及してきたので、距離を取るように上体を仰け反った。
理由を口にすることすら恥ずかしいが、藤山くんの不平不満が、瞳に反映して潤んで揺らいでいるように見えたので、誤解されないためにも答えなければならない。
だけど決心が中々つかなくて、熱くなっている顔を逸らし、視線を泳がせて言い淀んでしまう。
目の前で泣き出してしまいそうな藤山くんを視認して、意を決して喉から絞り出すように声を発した。
「ふ、藤山くんにすると……じゃれ合いじゃなくなっちゃうから……」
ごにょごにょと言葉を濁しながら答えた。
今の自分に出来る精一杯の発言だったが、藤山くんはきょとんとした後、顔を赤くして俯き黙り込んでしまった。
……あれ? これまずかったかな? なんか性的なことを匂わせてセクハラになってない?
藤山くんは親しみの意で頼んできたのに、不埒なことを考えている僕を軽蔑したかもしれない。
羞恥が限界突破し、熱で茹だった頭のせいで思考がぐるぐるしていると、藤山くんが赤面している顔を少し上げた。
「……やってほしい。じゃれ合いじゃないの」
なんか藤山くんの口が動いたような気がしたが、気恥ずかしさで余裕がなくなってしまっていて、上手く聞き取れなかった。
やってほしいと聞こえた気もしたが、自らセクハラをしてくださいと言う人はいないので、聞き間違いだろう。多分やめとくって言ったんだ。
僕はそう解釈して返事をした。
「ね? 嫌だよね。やめとこうか」
「……嫌じゃない」
藤山くんはもごもごと何かを言うと、緊張した面持ちで瞼を閉じて上を向いた。
首輪を着けている首が露わになって、普段は気になったりしないのに、今はやけに視線が白い首元に吸い寄せられ、釘付けられてしまう。
「俺にしなかったら、しゅどうは浮気と見なす」
藤山くんは照れくさそうにそう宣言して、身動きせずにじっと触られるのを待ち始めた。
僕は静かに息を呑んで、その誘惑に乗らないように音を立てずに、そうっとその場から立ち去って近くの教室に身を潜めた。
数分後、気付かれたのか「いない!?」と驚き戸惑う大声が聴こえた。
藤山くんが帰るまで身を隠していたのに、胸の鼓動がドキドキと忙しなくて、顔の熱も収まることはなかった。
カバンを胸に抱き抱えて落ち着こうとするも、藤山くんの首を曝け出している姿が脳裏に焼き付いていて、何度もフラッシュバックしてくる。
その度に鞄を持つ手に力を込めては、首を横に振って邪な考えをかき消した。
家に帰ってから、ようやくホッとして、スマホを起動すると藤山くんから『浮気するな!』というメッセージが怒涛のように送りつけられていた。
留まることを知らないその執念に、流石に根負けした僕は、折れるほかなく、これからは、恋人がいるαに誘われても応えないようにしようと心に決めた。




