10.下校
僕はなぜか男性教員に残るように言われ、生徒指導室で珈琲を振る舞われて顔を合わせて座っている。
肩の力が抜けきって、背中を丸めている先生は普段の威厳を解いている感じがして、先生と生徒という確立された関係を崩している印象を受けた。
先生は溜まった疲労を吐き出すように盛大にため息を吐くと口を開いた。
「正直、長谷が入学してくれて助かってる。校内のα性が問題を起こすことなく、こんなにも落ち着いてくれているんだからな」
不可解なことを言う先生に、僕はマグカップを両手に持ちながら困惑して首をかしげる。
「あのー、今回はその僕が、問題を引き起こしているので、助かってはいないと思いますけど……?」
先生は僕の意見を否定するように首を横に振った。
「昨年はなかったが、α性の生徒がΩ性の生徒と揉め事を起こすのはよくある事なんだ。その度に、関係のない生徒達や保護者までもが神経を尖らせるから、こっちは対応に苦慮するんだよ。
高木の母親も癖があってどうなるかと思ったが、高木本人が反省したようだから、想定より大事にならず穏便に済みそうで良かったよ」
先生はほっと安堵した口調で言うと、デスクの上に置いていたマグカップを手に取り、珈琲を口にした。
どんな生徒であろうと、あくまでも中立的立場を保たなければならない教師は大変だ。
高校生になるとΩが発情期を起こしやすくなるので、学歴に関係なく、各都道府県にはαとΩが集められる教育機関が設けられている。
表向きは、間にβのクラスを設けて互いのフェロモンを緩和させ、αとΩがその生態に振り回されないように、互いがフェロモンに耐性を持ち、βのように生活できるようにと銘打っている。
しかし、裏ではαとΩを管理するため、犯罪に巻き込まれた時に身分を追いやすくするためのものと噂されている。
陰謀論と鼻で笑ってしまいそうになるが、実際にαとΩの人たちは基本情報を警察で管理されているので、完全に否定はできないのだ。
αにはこの制度に不満を持つものもいて、Ωを疎ましく思っている人もいる。
犯罪を犯さなければ問題はないという意見は関係なく、その制度がある事自体が癇に触るらしい。まるで犯罪者予備軍みたいな扱いだと。
僕は必要なことだと思っているので肯定派だ。
存在を把握されている状況は、犯罪の抑止力に作用しているし、制度のおかげで検挙も早いと聞くので利点に好感を持っている。
と、まあ、この制度は色々な思想があるので、αとΩの軋轢に影響が及んでいるのは仕方がないのかもしれない。
先生はカップをテーブルに置くと、神妙な表情で独り言のように言葉を漏らし始めた。
「――だが、この環境に慣れすぎてしまっても……長谷が卒業した後のα棟がどうなるか……考えるだけで頭と胃が痛くなる……」
沈みゆく声音と共に、先生はこめかみを手で押さえると段々と頭を伏せていき、憂鬱そうに嘆いた。
一瞬躊躇してから、慰めの言葉を掛けようとすると、先生は唐突に勢いよく顔を上げたので、驚いて身を引こうとすれば、両腕をがっしりと掴まれて拘束された。
「だから、卒業したら早急に教員免許を取って学校に戻ってきてくれ! いいな!? くれぐれも他の職を目指そうだなんて、恩師を見捨てるような真似をするんじゃないぞ!?」
「えーっと……取り敢えず、勉強を頑張ります」
まだ卒業まで1年半程あるのに、必死さを感じる剣幕で頼まれて、思わず苦笑いを浮かべて、返事を返す。
本当は小学校教諭を希望していることは黙っておこう。
生徒指導室を後にすると、廊下の窓越しに見える空は茜色に染まっていた。
いつもより帰宅時間が遅くなってしまったな、とポケットからスマホを取り出し通知があるか確認すれば、メッセージアプリに藤山くんからメッセージが届いていた。
ほわりと心が癒されるような気持ちになる。
家に来てくれた時に、連絡先の交換をしてその日のうちにメッセージを送れば、返信がすぐに返ってきた。
嬉しくなって、宿題や他のことをおざなりにしてやり取りを続けていれば、藤山くんもそうだったようで。一時的にスマホを没収されたらしい。
僕が返信を早く返しすぎるのがいかなかったのだと反省し、それからは自重することにした。
今までスマホは連絡用と調べ物をするために使用していたが、この経験から友達が言う、スマホは時間が溶けるという体感はこのことを指していたのかと非常に納得してしまったものだ。
口元が緩みながら指を動かし、届いている内容を確認する。
『待ってる』『待ってる』『まだ待ってる』『勝手に帰らないように靴、持って待ってる』
と何分か置きに送られていた。
勝手に帰らないように靴、持って待ってる……!?
昇降口にいれば絶対にそんなことしなくても良いのに、どうして靴を持って待つ必要があるのか。
今まで貰ったことのないメッセージに衝撃を受けていれば、タイミングよく新着が届いた。
『もう帰った? 靴、俺が持って帰ったほうがいい?』
僕が上履きで帰ったと思ってる!? いくらなんでも、そこまでおっちょこちょいじゃないよ!
今から行くね、と急いで返事を打ち返して、走って昇降口に向かった。
藤山くんは下駄箱の前のすのこに腰を下ろして、タイルの上に両足をついて待っていた。
僕のローファーの靴底同士を合わせて、大切なものを守るみたいに胸に抱いている。
足音で気づいたのか、藤山くんは顔を上げて僕を見ると首を傾げた。
「呼び出し、大丈夫だった?」
心配して待っててくれたんだ。
「うん。反省文を書いただけで済んだよ」
「……颯汰は悪くないないのに、反省文書く必要ないだろ?」
「気持ちを整理する意味合いでもあったから、書いてよかったよ」
「俺のせいでごめん……」
藤山くんは暗く思い詰めたような顔で俯き、胸のローファーを抱きしめる腕の力をギュッと強めた。
いや、謝罪より、靴が臭くないかの方がめちゃめちゃ気になる……。
戸惑いと羞恥に駆られながらも、僕は藤山くんに近づき、肩に手を置いて優しく声をかけた。
「藤山くんのせいじゃないよ。それよりもそんな靴の持ち方をしたら、制服が汚れちゃうよ。ほら、靴置いて体を見せてごらん」
「……」
藤山くんは顔を上げた。猫のように目を丸くして僕の瞳を見つめると、いそいそと靴をタイルの上に置いて立ち上がった。
「ん!」
顰めっ面で目を閉じると、顎を反らして胸を張り、尊大な態度で体を見せつけてきた。
まるで親戚の子供みたいで、可笑しくなって笑みが溢れる。
藤山くんに向き合うと長袖シャツ越しに細い片腕を掴み、体を屈ませて胸元のシャツの汚れを払うために手を差し伸べた。
指先が触れた瞬間、藤山くんの体が大きくビクリと揺れた。
急なことで心臓が跳ねるくらい驚いて手を止めて見上げれば、藤山くんは頬を赤らめ唇を噤み、緊張した面持ちで隠れ見るようにそっと瞼を開けて僕を見下ろしていた。
長い睫毛から薄く覗いている瞳はのぼせたように潤んでいて、何かを欲しているようだった。
誰も居ない昇降口で、藤山くんの控えめな息遣いだけが耳について、僕が呼吸すら忘れてしまって見惚れていると、恥じらうようにぎこちなく視線を横に逸らされた。
漸くハッと我に返り手を離すと、身の潔白を訴えるために両手を上げて、藤山くんから距離を取った。
「あ! え、えっと! ご、ごめんね! 勝手に触ったりして!」
「……別にいい」
藤山くんは、下ろしている両手でズボンを握りしめると、視線を逸らしたまま唇を尖らせ、素っ気なくもごもごと返事を返した。
気まずい空気に言葉が続かず、体を動かすことも躊躇われて、互いがその場に佇んだまま時間だけが流れていく。
僕は目を泳がせていたが、無意識に視線が藤山くんの白いシャツへと下りた。
先ほどは何も考えていなかったのに、思ったより胸板が薄く華奢な体つきをしているとか、抱きしめたら簡単に腕のなかに収まりそうだとか、いかがわしいことを考えてしまう。
あー、駄目だ。これはよろしくない。
熱くなった顔面を横に振り、これ以上邪な気持ちを持たないように、藤山くんから体を少し背けて「やっぱりシャツ、汚れてるみたいだから、自分で払ってね」と進言した。
藤山くんは、僕の言うとおりにシャツの裾を前に引っ張り、胸元の汚れを手で払い始めた。
薄暗くなりつつある外からは、部活をしている生徒の掛け合いの声が小さく聞こえてくるが、昇降口はシンとしているので、手とシャツの擦れ合う音を嫌でも拾ってしまう。
運命の番と二人きりという状況をやけに意識してしまいそうになるので、空気を一新するために話題を変えることにした。
「それにしても、藤山くんから靴を持って待ってるってメッセージを貰った時は驚いたよ。もしかして、巣作りに使うんじゃないか、って」
「……」
冗談を言ったつもりだったが、藤山くんは払っていた手を止めると顔を上げて澄んだ茶色の瞳でじぃっと僕の目を見つめてきた。
無垢でありながらも思考が読めない反応に、僕は疑念が過ぎり、恐る恐る問いかける。
「……流石に靴は、巣作りには使わないよね?」
藤山くんは、瞳を数回瞬かせた後、視線を斜め上に向けて考える素振りをしてから、平然とした顔と口調で答えた。
「靴は使わないけど、颯汰が使ってほしいのなら
、使うのもやぶさかじゃない」
「そこはやぶさかであってほしかったかな……」
何を踏んでいるか分からない靴での巣作りは、衛生面も考慮して断ってほしい。




