↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
となりのスタートライン  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/35

初めての記録会

第7話 初めての記録会


 五月中旬の朝。


 鹿児島県立鴨池陸上競技場には、県内各地から集まった高校生たちの声が響いていた。


 トラックでは早朝から選手たちがウォーミングアップを始め、芝生の上では各校のユニフォームを着た部員たちがストレッチをしている。観客席にも、保護者やチームメイト、競技を見に来た生徒たちが少しずつ集まり始めていた。


 雲は少なく、青空の向こうには桜島が見える。


 風はそれほど強くない。


 短距離にも長距離にも、悪くない条件だった。


 鹿児島高校陸上部のテントでは、顧問の有馬剛志が出場選手の点呼を行っていた。


「女子百メートル、大石早苗」


「はい!」


 早苗は勢いよく手を上げた。


 声は元気だった。


 しかし、膝の上に置いた両手は、落ち着きなく動き続けている。


「男子五千メートル、田中直樹」


「はい」


 直樹は早苗よりも落ち着いた声で返事をした。


 もっとも、表情は普段より少し硬い。


 有馬は二人の顔を見比べた。


「二人とも、高校に入って初めての記録会じゃ。緊張するなとは言わん。緊張しちょっても、自分の動きができればよか」


「はい」


 二人の返事が重なる。


「大石はスタートで全部決めようとすんな。三十メートルまでは低く、そっから自分の走りに乗せろ」


「はい!」


「田中は最初の千メートルを抑えろ。周りが速くても追いかけんな。五千メートルは最初の一周で終わる競技じゃなか」


「はい」


「よし。あとは、自分たちで準備せんか」


 有馬がほかの選手の確認へ向かうと、早苗は大きく息を吐いた。


「直樹」


「何ね」


「僕、緊張しちょる」


「見れば分かっど」


「心臓が、ずっと百メートル走っちょるみたい」


「まだ走ってなかじゃろ」


「体の中だけ先にスタートした」


「置いていかれんなよ」


「どうやって追いつくのさ」


 早苗はその場で軽く跳ねながら、腕を回した。


 直樹はそんな早苗の髪を見る。


 今日はきれいに整っていた。


「サイヤ人にならん程度に気合い入れろ」


 早苗の動きが止まる。


「今それ言う?」


「緊張が少し取れたじゃろ」


「別の意味で力入ったよ!」


「怒る元気があれば大丈夫じゃ」


「僕の緊張を寝ぐせで解消すんな!」


 早苗の声が鹿児島高校のテントに響く。


 近くで準備していた部員たちから笑いが起きた。


 有馬が遠くから振り返る。


「大石、元気が余っちょるならアップで使え!」


「はい!」


 早苗は恥ずかしそうに返事をした。


 直樹は口元を押さえている。


「直樹も笑わんでよ!」


「いつもの早苗に戻ったな」


「誰のせいよ」


 そのとき、観客席のほうから早苗を呼ぶ声がした。


「早苗ー!」


 振り返ると、一年三組のクラスメイトたちが階段を下りてくるところだった。


 前園健吾、迫田悠人、西郷蓮太、上原美月、川畑莉奈。


 五人とも休日にもかかわらず、二人の応援に来ていた。


「みんな、ほんとに来たの?」


 早苗が驚いた顔で駆け寄る。


 美月は応援用に持ってきたタオルを掲げた。


「初めての記録会じゃっど。来るに決まっちょるが」


 健吾もホークスの帽子をかぶりながら笑う。


「田中と早苗がどんだけ走れるか、見てみたかったしな」


「何でホークスの帽子ね」


 直樹が聞くと、健吾は胸を張った。


「勝負の日はこれじゃろ」


「陸上の試合じゃっど」


「応援する気持ちは同じじゃ」


 迫田はプログラムを確認しながら言った。


「早苗の百メートルが先。田中の五千メートルは午後じゃな」


「そうじゃっど」


「なら、早苗が走り終わったあと、田中を応援できるな」


 莉奈が楽しそうに二人を見る。


「ゴールで待つ人は同じってやつじゃね」


「何ね、それ」


 早苗が首をかしげる。


 美月がにやりと笑った。


「田中君は早苗のゴールを待って、早苗は田中君のゴールを待つんじゃろ」


「部活仲間なら普通じゃん」


「幼なじみで、未来の子ども二人まで想像しちょる部活仲間ね」


「その話はもう終わった!」


 直樹の声が響く。


 健吾はわざと実況口調になる。


「田中直樹選手、競技開始前から早くも動揺しております」


 蓮太が続ける。


「原因は観客席にいる大石早苗選手でしょうか」


「おまえら、俺の競技を勝手に実況すんな!」


 早苗は腹を抱えて笑った。


「直樹、まだ走ってないのに疲れそうじゃね」


「誰のせいじゃ!」


 笑いが起きたところで、場内アナウンスが流れた。


『女子百メートルに出場する選手は、招集所へ集合してください』


 早苗の表情が変わる。


 さきほどまでの笑顔が消え、目が少しだけ鋭くなった。


「行ってくる」


 直樹がうなずく。


「行ってこい」


「スタートで力みそうになったら、どうすればよか?」


「俺らが練習で言ったことを思い出せ」


「肩の力を抜く」


「そうじゃ」


「三十メートルまでは低く」


「そいでよか」


 早苗は一度深く息を吸った。


「絶対、自己ベスト出す」


「記録ばっかり考えんな。自分の走りをしてこい」


「直樹、急に顧問みたいじゃね」


「早く行かんと招集に遅るっど」


「行ってきます!」


 早苗は招集所へ向かって走り出した。


 その小さな背中を、直樹はしばらく見送っていた。


 美月が隣へ立つ。


「心配ね?」


「別に」


「ずっと見ちょるけど」


「幼なじみの初めての記録会じゃっでな」


「はいはい、幼なじみ」


「何ね、その言い方」


 美月は笑いながら観客席へ戻っていった。


女子百メートル


 予選は全四組。


 各組の一着と、タイム上位四人が決勝へ進出する。


 早苗は予選第二組の第四レーンに入った。


 スタート地点でジャージを脱ぐ。


 鹿児島高校のユニフォーム姿になった早苗は、腕や脚を軽く振り、トラックの感触を確かめた。


 観客席では、直樹たちが早苗の姿を探している。


「四レーンじゃ」


 迫田がプログラムを見ながら指さす。


 健吾が身を乗り出した。


「小さかけど、遠くからでも分かるな」


「何で?」


 蓮太が聞く。


「落ち着きなく跳ねちょるから」


 直樹はため息をつく。


「あいつ、緊張すると動きが増えっとよ」


 早苗は一度、観客席のほうを見た。


 直樹たちの姿を見つける。


 美月と莉奈が大きく手を振っている。


 健吾と蓮太も声を上げる。


「早苗、頑張れー!」


「行けー!」


 直樹は大声を出さず、右手を軽く上げた。


 早苗も小さくうなずく。


『女子百メートル、第二組。選手がスタート位置につきます』


 早苗はスターティングブロックへ足を合わせた。


 トラックに指をつく。


 さきほどまで聞こえていた観客の声が、急に遠くなった。


「位置について」


 腰を落とす。


「用意」


 腰を上げる。


 静寂。


 号砲が鳴った。


 早苗は鋭く地面を蹴った。


 最初の一歩。


 二歩。


 三歩。


 上体を低く保ち、足を素早く前へ運ぶ。


 隣の第三レーンの選手も、ほぼ同時に飛び出していた。


 十メートル。


 二十メートル。


 まだ横一線。


 早苗は焦らなかった。


 練習で何度も繰り返したとおり、三十メートルを過ぎたところから徐々に上体を起こす。


 腕を強く引く。


 足の回転が一段上がった。


「早苗、行けー!」


 観客席から直樹の声が聞こえた。


 早苗は四十メートルで先頭へ出た。


 五十メートル。


 隣との差が半歩に広がる。


 七十メートル。


 さらに加速する。


 小柄な体が、トラックを弾むように進んでいく。


 最後の二十メートル。


 早苗は表情を崩さず、前だけを見て走り切った。


 そのまま一着でゴール。


 場内表示板へタイムが出る。


 十一秒六八。


 追い風〇・六メートル。


 早苗はゴール後も数歩走り、ゆっくりと速度を落とした。


 表示板を見た瞬間、目を大きく開く。


「十一秒六八……?」


 自己ベストを大幅に更新していた。


 観客席も大きく沸く。


「速っ!」


 健吾が叫んだ。


 迫田がプログラムの記録欄を見る。


「県の高校一年記録まで、あと百分の五秒じゃ」


 直樹は表示板を見つめたまま、静かに拳を握った。


「まだ決勝があっど」


 美月が興奮した声を上げる。


「早苗、県記録を狙えるんじゃなか?」


「狙うじゃろな」


 直樹は答えた。


「あいつ、数字を見たら、もう止まらんど」


 予選を終えた早苗が、鹿児島高校のテントへ戻ってきた。


「直樹!」


「聞こえちょる。そげん大声出すな」


「十一秒六八じゃった!」


「見た」


「県の一年記録まで、あとちょっとだって!」


「分かっちょる」


「決勝で更新できるかな」


「もう記録のことばっかり考えちょるが」


「だって、あと百分の五秒だよ!」


 早苗は指でごく小さな幅を作る。


「これくらい!」


「百分の五秒を指で表すな」


「ほんのちょっとじゃん」


「短距離の百分の五秒は大きかど」


「分かっちょるけど」


 直樹は早苗の肩を軽くたたいた。


「予選と同じ走りでよか。県記録を追いかけんな。前だけ見ろ」


「また顧問みたいなこと言っちょる」


「嫌なら聞かんでよか」


「聞く」


 早苗は素直に答えた。


「直樹が言うと、落ち着くから」


 直樹の手が止まる。


 美月たちが少し離れたところから、二人を見ていた。


 莉奈が小声で言う。


「彼氏みたい」


 美月もうなずく。


「本人たちだけ気づいちょらんね」


 午後一時。


 女子百メートル決勝。


 早苗は予選全体二位のタイムで、第五レーンに入った。


 隣の第四レーンには、県内の強豪校に通う一年生、宮里紗季がいる。予選では十一秒六六を記録し、全体一位だった。


 さらに、第六レーンには二年生の県大会入賞経験者が入っている。


 高校一年記録だけではない。


 この決勝で優勝するには、上級生にも勝たなければならなかった。


 スタート地点に立った早苗は、周囲の選手を見なかった。


 直樹に言われた言葉を思い出す。


 記録を追いかけるな。


 前だけを見ろ。


 観客席からは、大勢の応援が聞こえている。


「早苗ー!」


 美月たちの声。


 そして、その中に直樹の声もある。


「自分の走りをせんか!」


 早苗は一度だけ笑った。


「分かっちょるよ」


 誰にも聞こえない声でつぶやく。


『女子百メートル決勝です』


 競技場に緊張が広がる。


「位置について」


 早苗がブロックへ入る。


「用意」


 腰を上げる。


 号砲。


 第四レーンの宮里が、鋭く飛び出した。


 早苗はわずかに遅れた。


 最初の十メートルで、宮里が半歩前へ出る。


 観客席から声が上がる。


 しかし、早苗は慌てなかった。


 二十メートル。


 低い姿勢を崩さず、地面を強く押す。


 三十メートル。


 早苗の体が加速へ入る。


 腕を後ろへ強く引く。


 足の回転が一気に上がった。


 四十メートルで宮里と並ぶ。


 五十メートルで、わずかに前へ出る。


「行け、早苗!」


 直樹が立ち上がった。


 六十メートル。


 外側の二年生も追い上げてくる。


 三人がほぼ横一線。


 七十メートル。


 早苗は呼吸を止めず、肩の力を抜いたまま走る。


 八十メートル。


 前へ。


 ただ前へ。


 九十メートル。


 早苗の胸が、半歩だけ先へ出た。


 最後の十メートル。


 宮里も食らいつく。


 二人がほぼ同時にフィニッシュラインへ飛び込んだ。


 早苗はゴール後、すぐには振り返らなかった。


 呼吸を整えながら、ゆっくりと表示板を見る。


 一着。


 第五レーン。


 大石早苗。


 十一秒五八。


 追い風一・二メートル。


 その下に、赤い文字が表示される。


 鹿児島県高校一年新記録。


 早苗はしばらく動かなかった。


「……僕?」


 場内アナウンスが響く。


『女子百メートル決勝、優勝は鹿児島高校、大石早苗選手。記録は十一秒五八。鹿児島県高校一年新記録です』


 観客席が大きな拍手に包まれた。


「よっしゃー!」


 直樹が両手を上げる。


 健吾たちも立ち上がり、早苗の名前を叫んでいた。


 早苗はようやく記録を理解した。


 両手で口を押さえる。


 目に涙が浮かんだ。


「更新した……」


 予選から百分の一秒、百分の一秒を削るような勝負になると思っていた。


 しかし、決勝では県記録を百分の五秒更新した。


 上級生も含めた決勝で優勝した。


 初めての高校記録会で、早苗は大きな結果を残した。


 競技を終えて戻ってきた早苗へ、陸上部員たちが拍手を送る。


 有馬は腕を組みながらも、満足そうにうなずいた。


「大石、よう走った」


「先生、僕、県記録……」


「見れば分かっど」


「ほんとに僕の記録ですよね?」


「ほかに第五レーンを走った大石がおっとか」


「おらんです」


「なら、おまえの記録じゃ」


 有馬は早苗の頭を軽くたたいた。


「ただし、今日で終わりじゃなか。高校一年記録を出した選手として、これから見らるっど」


「はい」


「喜ぶときは、しっかり喜べ。反省は明日からでよか」


 早苗は涙をぬぐいながら、大きくうなずいた。


「はい!」


 その直後、直樹が近づいてくる。


「おめでとう」


 早苗は直樹を見上げた。


「僕、勝ったよ」


「見ちょった」


「県記録、更新した」


「そいも見ちょった」


「もっと驚かんの?」


「十分驚いちょる」


「顔が普通じゃん」


「早苗が泣いちょるから、俺まで騒いだら収拾つかんが」


「僕、泣いてないよ」


「目が真っ赤じゃっど」


「汗が入っただけ」


「そげな言い訳、誰も信じん」


 早苗は笑いながら、直樹の胸を軽くたたいた。


「次は直樹じゃっど」


「ああ」


「僕が県記録出したんだから、直樹も何か記録出してね」


「急に重圧かけんな!」


「幼なじみとして、釣り合い取らんと」


「何の釣り合いね」


「分からん」


「分からんのか!」


 早苗は涙を残したまま笑った。


男子五千メートル


 午後四時。


 日差しは少し弱くなっていたが、気温はまだ高かった。


 男子五千メートルは、記録会の中でも注目を集める種目の一つだった。


 県内の高校長距離界で実績のある選手が多く出場している。


 直樹は第二組。


 最も持ちタイムの速い選手たちが集められた組だった。


 高校一年生は、直樹を含めて三人だけ。


 ほとんどが二年生か三年生だった。


 スタート前、直樹はトラック脇で最後の流しを行っていた。


 いつもより口数が少ない。


 早苗は直樹のそばへ歩いていく。


「直樹」


「何ね」


「顔、怖かよ」


「集中しちょっとじゃ」


「緊張しちょる?」


「しちょる」


 直樹は素直に答えた。


「県記録出した人に見られながら走ると思うと、余計にな」


「僕のことは気にせんでよか」


「そげん目を輝かせて見られたら気になるが」


「最初から飛ばしたら、僕が叫ぶからね」


「そいが一番怖か」


「設定より速かったら、グラウンド中に聞こえる声で言う」


「やめんか」


「じゃあ抑えて」


「分かっちょる」


 早苗は少し迷ってから、直樹の背中を軽くたたいた。


「大丈夫じゃっど」


「何を根拠に」


「ずっと練習見ちょったから」


 直樹は早苗を見る。


「直樹は最初さえ我慢できれば、最後まで走れる。最後の一周も上げられる」


「……そうじゃな」


「僕がゴールで待っちょるから」


 直樹の表情が一瞬止まった。


「そげな言い方すんな」


「何で?」


「観客席でみんな聞いちょっが」


 振り返ると、健吾たちが数メートル離れたところで、にやにやしながら二人を見ていた。


「聞こえたど」


 健吾が言う。


「僕がゴールで待っちょるから、だって」


 莉奈が両手を胸の前で合わせる。


「青春じゃねえ」


「違う!」


 直樹と早苗がそろって叫んだ。


 有馬が招集所の方向を指さす。


「田中、そろそろ行け。大石も選手の邪魔をすんな」


「はい!」


 二人は同時に返事をした。


 直樹が招集所へ向かう。


 早苗はその背中へ声をかけた。


「直樹!」


 直樹が振り返る。


「楽しんで走ってきて!」


「五千メートルは楽しむ余裕なかど」


「じゃあ、苦しんできて!」


「応援の言葉として間違っちょるが!」


 直樹は苦笑しながら、招集所へ入っていった。


 スタートラインに二十四人の選手が並ぶ。


 直樹は外側の位置に入った。


 隣には、全国高校駅伝にも出場した強豪校の三年生がいる。


 選手紹介が行われるたび、観客席から声援が飛ぶ。


 直樹は深く息を吸った。


 目標は、十三分台。


 これまでの自己ベストは十四分二十六秒。


 練習の内容から、十四分を切る力はあると有馬から言われていた。


 だが、国内高校記録は十三分三十秒台。


 直樹自身、その記録を今日狙うつもりはなかった。


 まずは自分のペース。


 最初の千メートルを抑える。


 早苗に何度も言われたことを思い出す。


『位置について』


 号砲が鳴った。


 二十四人が一斉に走り出す。


 スタート直後、外側の選手たちが内側へ寄っていく。


 直樹は接触を避けながら、集団の中ほどへ入った。


 最初の二百メートル。


 先頭は速い。


 全国レベルの三年生二人が前へ出ている。


 直樹の前にも、十人以上の選手がいた。


 観客席で早苗がストップウオッチを見る。


「ちょっと速か……」


 最初の四百メートル。


 通過は一分五秒。


 有馬が表情を変える。


「速すぎる」


 早苗は立ち上がった。


「直樹、速か! 抑えんかー!」


 競技場全体に聞こえそうな声だった。


 直樹は走りながら、わずかに顔をしかめる。


「ほんとに叫びよった……」


 それでも早苗の声で我に返った。


 前の集団を無理に追わず、少しだけペースを落とす。


 八百メートル。


 直樹は先頭から三秒ほど遅れた第二集団に入った。


 千メートル通過。


 二分四十秒。


 自己ベストを大きく上回るペースだった。


 有馬は時計を見ながらつぶやく。


「まだ速か。じゃっど、表情には余裕がある」


 早苗も息を詰めるように直樹を見ていた。


「直樹、落ち着け……」


 二千メートル。


 先頭集団は七人まで絞られた。


 直樹は八番手。


 前の選手との差は二メートルほど。


 通過は五分二十二秒。


 国内高校記録を上回るペースだった。


 観客席の長距離関係者たちがざわめき始める。


「一年生の田中、速くないか?」


「鹿児島高校じゃろ」


「二千を五分二十二秒で通過しちょる」


 早苗は周囲の声を聞き、不安そうに有馬を見る。


「先生、直樹、飛ばしすぎじゃなかですか」


「最初は速かった。じゃっど、今は自分のリズムに入っちょる」


「最後まで持ちますか」


「そいは田中次第じゃ」


 三千メートル。


 先頭集団から一人が遅れ始めた。


 直樹はその選手を抜き、七番手へ上がる。


 通過は八分五秒。


 まだ高校記録を更新できるペース。


 直樹の呼吸は苦しくなっていた。


 脚にも少しずつ疲労がたまっている。


 それでも、フォームは崩れていなかった。


 腕を小さく振り、一定の歩幅を保つ。


 前を走る選手の足音だけに集中する。


「直樹ー! まだいけっどー!」


 早苗の声が聞こえる。


 直樹は返事をしない。


 しかし、その声が背中を押した。


 三千六百メートル。


 前を走っていた二人がペースを落とした。


 直樹は外側から一人を抜く。


 さらに次の直線でもう一人を抜いた。


 五番手。


 残り三周。


 先頭との差は五秒。


 観客席の空気が変わる。


 高校一年生の直樹が、全国レベルの上級生たちへ追いつき始めていた。


 四千メートル通過。


 十六周目を終えたところで、タイムは十分快を切っていた。


 場内アナウンスが直樹の走りへ触れる。


『五千メートル第二組、先頭集団は四千メートルを通過。鹿児島高校一年、田中直樹選手も五番手につけています』


 早苗は両手を握りしめる。


「直樹、行け……」


 残り二周。


 直樹は四番手の選手へ追いついた。


 そのまま外側へ出る。


 一気には抜かない。


 数歩並走し、相手の呼吸を確認する。


 向こう正面で前へ出た。


 四番手。


 残り六百メートル。


 先頭との差は三秒。


 有馬が初めて大きな声を出した。


「田中、前を見ろ! まだ届くど!」


 直樹が顔を上げる。


 三人の背中が見える。


 苦しい。


 脚は重い。


 胸が焼けるようだった。


 それでも、練習で何度も最後の一周を上げてきた。


 早苗の声が聞こえる。


「直樹、ラストじゃっど! 行けー!」


 残り一周。


 鐘が鳴る。


 先頭の選手がスパートを始めた。


 直樹も腕を大きく振る。


 残り三百メートル。


 三番手の選手へ追いつく。


 直樹はコーナーの外側から並んだ。


 相手も粘る。


 直線へ入る前に、直樹がわずかに前へ出た。


 三番手。


 残り二百メートル。


 二番手との差は一秒。


 直樹はさらに速度を上げる。


 観客席から大きな声が響く。


「直樹ー!」


 早苗の声だけは、ほかの音よりはっきり聞こえた。


 残り百メートル。


 直樹は二番手へ並ぶ。


 さらに、その前の先頭選手も失速している。


 三人がほぼ横一線で最後の直線へ入った。


「行けー!」


 観客席が総立ちになる。


 直樹は最後の力を振り絞った。


 高い身長と長い歩幅を生かし、一歩ずつ前へ出る。


 残り五十メートル。


 先頭。


 残り二十メートル。


 後ろの選手も追ってくる。


 直樹は歯を食いしばり、フィニッシュラインを駆け抜けた。


 一着。


 そのまま数歩走り、直樹はトラックへ膝をついた。


 息ができない。


 視界が少し揺れる。


 場内がざわめいている。


 表示板へタイムが出た。


 十三分二十八秒四七。


 国内高校新記録。


 一瞬、競技場が静まったように感じられた。


 直後、大きな拍手と歓声が響く。


『男子五千メートル第二組、一着は鹿児島高校、田中直樹選手。十三分二十八秒四七。国内高校新記録です!』


 早苗は目を見開いた。


「国内……高校新記録?」


 健吾が叫ぶ。


「田中、全国の高校記録を更新したぞ!」


 美月と莉奈も飛び跳ねている。


 有馬は時計を見たまま、しばらく言葉を失っていた。


「十三分二十八秒……」


 直樹自身は、まだ記録を理解できていなかった。


 係員に肩を支えられ、ゆっくりと立ち上がる。


 表示板を見る。


 自分の名前。


 その隣の数字。


 国内高校新記録。


「俺が……?」


 直樹は呆然とした。


 早苗が観客席から階段を駆け下りてくる。


 本来なら競技区域へ勝手に入ってはいけない。


 係員に止められ、柵の手前で立ち止まる。


「直樹ー!」


 直樹が声のするほうを見る。


 早苗が両手を振っている。


「新記録じゃっど! 直樹、国内高校新記録!」


 その言葉を聞いた瞬間、直樹の顔が歪んだ。


 涙があふれる。


「俺、やった……」


 早苗も泣きながら笑った。


「やったよ! 僕よりすごか記録出しちょる!」


「そい、褒め方になっちょっとか」


 直樹は苦しい呼吸の合間に返した。


「なっちょる!」


「早苗も県記録じゃろ」


「直樹は国内じゃん!」


「記録の大きさで比べんな」


「今日は僕が先に重圧かけたからね!」


「そいは本当に余計じゃった!」


 涙を流しながら言い合う二人を見て、周囲から笑いが起こる。


 有馬が直樹のところへ歩いてきた。


「田中」


「先生……」


「よう走った」


「最初、速すぎました」


「速すぎた」


「すみません」


「じゃっど、自分で立て直した。三千からの走りは見事じゃった」


 有馬は直樹の肩へ手を置いた。


「おまえは今日、全国の高校生が目標にする記録を作った。明日から、追う側じゃなく、追われる側になる」


「はい」


「浮かれるなとは言わん。今日は浮かれてよか。ただし、体の状態はしっかり確認すっど」


「はい」


 直樹は涙をぬぐった。


 その後、早苗と直樹はそれぞれ表彰を受けた。


 女子百メートル優勝。


 鹿児島県高校一年新記録。


 男子五千メートル優勝。


 国内高校新記録。


 二人は表彰状を持ち、鹿児島高校陸上部のテント前へ戻ってきた。


 クラスメイトたちが一斉に二人を囲む。


「おまえら、初めての記録会で何しちょっとよ!」


 健吾が興奮した声を上げる。


 蓮太も直樹の肩をたたく。


「県記録と国内新記録じゃっど。普通はどっちか一つでも大騒ぎじゃろ」


 迫田はプログラムの余白へ二人の記録を書き込んでいた。


「早苗が十一秒五八。田中が十三分二十八秒四七」


「永久保存版じゃな」


 美月が二人の間に立つ。


「二人で表彰状持って並ばんね。写真撮るから」


「何で二人で?」


 早苗が聞く。


「今日の主役が二人じゃっで」


 莉奈が笑う。


「将来、結婚式で流す写真にもなるかもしれんし」


「ならん!」


 二人の声が重なった。


「新記録を出しても、そこは変わらんな」


 健吾が笑う。


 二人は並んで表彰状を持った。


 高身長の直樹。


 小柄な早苗。


 身長差があるため、早苗が表彰状を顔の横まで持ち上げる。


「直樹、少し低くなって」


「何で」


「写真に収まりにくいじゃん」


「撮る人が調整すればよか」


「僕に合わせてよ」


「分かったが」


 直樹が少し膝を曲げる。


 美月がスマートフォンを構えた。


「もっと近づいて」


「これくらい?」


「離れすぎ」


「じゃあ、これくらい」


 早苗が直樹の横へ寄る。


 肩が触れる。


 直樹の顔が少し赤くなった。


 莉奈がすかさず言う。


「田中君、五千メートル走ったときより顔赤かよ」


「まだ走った直後じゃっで!」


「もう表彰まで終わったけど」


「余計なこと言うな!」


「はい、撮るよ!」


 美月がシャッターを押す。


 写真には、表彰状を持つ二人の笑顔が残った。


 早苗は県の高校一年記録を更新して優勝。


 直樹は国内の高校記録を塗り替えて優勝。


 二人にとって、あまりにも大きな一日となった。


 それでも、帰り道になれば、いつもの二人へ戻る。


「直樹、梅ジュース奢って」


「何で俺が」


「僕が県記録出したから」


「俺も国内新記録出したが」


「じゃあ僕が牛乳奢る」


「交換になっちょるな」


「身長と筋肉も交換できたらよかのに」


「まだ言いよっとか」


 二人は表彰状を鞄へ大切にしまい、競技場をあとにした。


 夕方の鹿児島市には、柔らかな風が吹いていた。


 桜島は今日も、いつもと変わらずそこにある。


 百メートルと五千メートル。


 走る距離はまったく違う。


 けれど、その日のゴールで最初に探した人は、二人とも同じだった。


次回予告


第8話「新記録コンビ、学校へ帰る」


 県高校一年新記録を樹立した早苗。


 国内高校新記録を叩き出した直樹。


 週明けの鹿児島高校では、二人の記録が校内放送で紹介され、朝から教室は大騒ぎとなる。


「大石と田中、初めての記録会でやりすぎじゃろ!」


「二人合わせて、新記録夫婦じゃな」


「誰が夫婦よ!」


 さらに、新聞や地元テレビ局から取材の申し込みが相次ぐ。


 しかし、二人そろって受けるインタビューでは、競技の話より幼なじみとしての関係へ質問が集中。


「互いにとって、どのような存在ですか?」


 直樹と早苗は答えに詰まり、クラスメイトたちは遠くからにやにやと見守る。


 一方、有馬顧問は、記録を出した二人へ厳しい言葉を告げる。


「記録を出すより、記録を出したあとのほうが難しか」


 注目。


 期待。


 新記録保持者として背負う責任。


 二人の高校陸上生活は、本当のスタートラインへ立つ。


 次回、第8話「新記録コンビ、学校へ帰る」。


 新記録はゴールではない。


 昨日までより、少し遠くなった次のスタートだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。