コアラの前の未来予想図
第6話 コアラの前の未来予想図
ゴールデンウィークが明けた朝。
鹿児島高校普通科一年三組の教室には、連休明け特有の気だるい空気が流れていた。
机へ突っ伏している者。
友人同士で旅行や買い物の話をしている者。
提出期限の迫った課題を、朝になって必死に仕上げている者。
そんな中、窓際の席に座る田中直樹だけは、いつも以上に落ち着かない様子で教科書を並べていた。
理由は明白だった。
平川動物公園で、早苗との結婚生活を想像してしまった件である。
それも、ただ想像しただけではない。
早苗の質問に対して、思わず「子どもは二人」と答えてしまった。
直樹にとっては、人生最大級の失言だった。
「忘れろ。昨日のことは忘れろ」
直樹は誰にも聞こえない声でつぶやいた。
自分へ言い聞かせるように、何度もうなずく。
「平川動物公園には行ってない。コアラも見てない。子どもも二人おらん」
「誰と話しちょっとよ」
突然、横から声をかけられ、直樹は肩を跳ねさせた。
「うわっ!」
立っていたのは、クラスメイトの男子生徒、前園健吾だった。
明るく人懐こい性格で、クラス内の噂話には誰よりも早く食いつく。中学までは野球部に所属しており、ホークスファンという点では直樹や早苗とも話が合った。
「朝から一人で、子どもが二人とか言いよったど」
「聞き間違いじゃ」
「はっきり聞こえたけどな」
「忘れろ」
「そげん言われると、逆に気になるが」
健吾は直樹の前の席へ腰かけ、机へ腕を置いた。
「ゴールデンウィーク、どっか行ったと?」
「平川動物公園」
「誰と?」
「早苗」
「やっぱり」
「何がやっぱりじゃ」
そこへ、別の男子生徒が加わった。
眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の男子、迫田悠人だった。普段は物静かだが、面白い話を見つけると冷静な顔のまま鋭い言葉を投げる。
「田中、連休中も大石と一緒じゃったんか」
「幼なじみじゃっでな」
「高校生の男女が二人で動物園。一般的にはデートと呼ぶと思う」
「違う。コアラを見に行っただけじゃ」
健吾が笑う。
「デートでコアラ見に行ったんじゃろ」
「違うと言いよろうが」
「そいで子どもが二人?」
「そこをつなげるな!」
直樹が思わず大きな声を出したところで、教室の後ろの扉が開いた。
「おはよう!」
大石早苗が元気よく入ってくる。
今朝も髪はきれいに整っている。
サイヤ人でもなく、桜島の灰もかぶっていない。
そのことに本人も安心しているのか、足取りは軽かった。
「早苗、こっち来い」
健吾が手招きする。
「何ね」
早苗は鞄を自分の席へ置き、三人のところへ近づいた。
直樹は険しい顔で首を横に振っている。
「何も言うな」
「何の話?」
「平川動物公園の話」
迫田が答える。
「ああ、コアラの赤ちゃん、かわいかったよ」
早苗の顔が明るくなる。
「お母さんの背中に乗っちょってね。僕、ずっと見ちょった」
「そいで?」
健吾が続きを促す。
「そいで何?」
「田中が子ども二人って言いよった」
早苗は一瞬きょとんとした。
そして、思い出したように手をたたく。
「ああ、それね」
「早苗!」
直樹が慌てて立ち上がる。
しかし、早苗は止まらなかった。
「直樹、僕との子ども二人も想像しちょったんだよ」
「早苗、それは言うな!」
教室の空気が一瞬で変わった。
近くで話していた生徒たちが振り返る。
ノートを写していた女子生徒の手が止まる。
教室の反対側にいた生徒まで、何事かと顔を上げた。
健吾は目を見開き、直樹を見る。
「おまえ、そこまで想像したと?」
「違う!」
「何が違うの。二人って自分で言ったじゃん」
「早苗は少し黙っちょれ!」
「何で僕が怒られるの」
教室の中央から、女子生徒の笑い声が聞こえた。
声の主は、明るく世話好きな女子生徒、上原美月だった。クラスの女子の中心にいることが多く、早苗ともすぐに打ち解けている。
「ちょっと待って。早苗と田中君、もう子どもの人数まで決めちょっと?」
「決めてないよ」
早苗は素直に答える。
「直樹の妄想の中では二人おっただけ」
「言い方!」
直樹の声が裏返る。
その隣では、美月と仲のよい女子生徒、川畑莉奈が口元を押さえて笑っていた。
莉奈はおっとりした性格だが、恋愛に関する話には妙に勘が鋭い。
「男の子と女の子?」
「僕も聞いたけど、教えてくれんかった」
「聞くな!」
「名前は?」
「まだ決めちょらんって」
「まだって言うな!」
教室に笑いが広がる。
直樹は完全に逃げ場を失っていた。
そこへ、教室後方から別の男子生徒が歩いてくる。
サッカー部に所属する西郷蓮太だった。体格がよく、声も大きいが、性格は人懐こい。
「田中、いいなあ」
「何がよ」
「幼なじみに、あんなかわいい彼女がおって」
直樹は固まった。
早苗も目を丸くする。
「彼女じゃなか!」
二人の声が重なった。
それを聞いて、蓮太はますます笑う。
「ほら、そげんところまで息ぴったりじゃっが」
「幼なじみだからじゃ!」
「僕ら、付き合ってないよ」
「でも二人で動物園行って、相合い傘して、上着を貸して、子ども二人まで想像しちょっとじゃろ」
健吾が指を折りながら数える。
直樹が机を軽くたたいた。
「最後だけ俺が勝手に想像しただけじゃ!」
教室がさらに沸いた。
「認めた!」
「今、完全に認めたど!」
「田中、自白したな」
「しまった……」
直樹は額を押さえた。
一方、早苗の周囲には女子生徒たちが集まり始めていた。
美月が早苗の肩へ手を置く。
「でも、早苗もよかねえ」
「何が?」
「あんな彼氏が幼なじみなんて、うらやましか」
「だから彼氏じゃないって」
「背が高くて、優しくて、傘も持ってくれて、上着も貸してくれるんじゃろ」
莉奈も横からうなずく。
「それに、毎朝迎えに来てくれるんでしょ」
「僕が迎えに行ってるの」
「そいでも毎日一緒に登校しちょるんじゃん」
「家が近いからじゃっど」
「部活も一緒」
「陸上部だから」
「ホークスも一緒に応援しちょる」
「ファンなんだから仕方なかじゃん」
早苗は一つずつ否定していたが、並べられてみると、確かに二人はいつも一緒だった。
しかも、それを特別なことだと思ったことがない。
幼稚園のころから、当たり前のように隣にいた。
だからこそ、周囲のほうが先に二人の距離へ気づいているのかもしれなかった。
早苗はちらりと直樹を見る。
直樹は男子たちに囲まれ、顔を赤くしながら必死に弁明している。
「彼女じゃなかって!」
「じゃあ、誰かに告白されたら早苗は譲ると?」
迫田の冷静な質問に、直樹の言葉が止まる。
「それは……」
「どうなん?」
健吾が楽しそうに顔をのぞき込む。
「別に、早苗が決めることじゃろ」
「今、ちょっと嫌そうな顔したど」
「してなか」
「した」
「してない!」
その様子を見ていた女子たちが、今度は早苗へ質問を向ける。
「早苗は、田中君に彼女ができたら平気?」
莉奈に聞かれ、早苗は一瞬答えに詰まった。
「そいは……直樹が決めることじゃん」
「田中君と全く同じ答え」
美月が笑う。
「しかも、ちょっと嫌そうな顔しちょる」
「してないよ」
「しちょった」
「してない!」
また二人の否定が同時に響いた。
教室は完全にお祭り状態だった。
その時、前方の扉が開いた。
「朝から何をそげん騒いじょっとね」
担任の教師が、出席簿を手に入ってくる。
一年三組の担任は、国語科の福留千鶴だった。
三十代半ばの女性教師で、落ち着いた口調と鋭い観察眼を持っている。生徒の冗談にも付き合うが、授業となれば厳しく、言葉の使い方には特に細かい。
「先生、田中が大石との子どもを二人想像したらしいです」
健吾が即座に報告する。
「前園!」
直樹の悲鳴が教室へ響いた。
千鶴は出席簿を教卓へ置き、直樹と早苗を交互に見た。
「そうね」
「先生、違うんです!」
「何が違うと?」
「平川動物公園でコアラの親子を見て、早苗が変なこと言ったから、ちょっと想像しただけで」
「僕は変なこと言ってないよ」
「結婚して子どもが生まれたらって、十分変じゃろ!」
千鶴はしばらく二人を見つめたあと、わずかに笑った。
「まあ、想像するだけなら自由じゃっど」
教室に笑いが起こる。
「先生まで!」
「ただし、授業中に未来の子どもの名前を考えるのは禁止じゃ」
「考えません!」
直樹が力いっぱい答える。
早苗は首をかしげた。
「名前くらい考えてもよかんじゃない?」
「早苗は黙れ!」
再び教室が沸いた。
朝のホームルームが始まり、生徒たちはようやく席へ戻っていった。
直樹は椅子へ腰を下ろし、机へ額をつけた。
「もう学校来たくなか」
隣の早苗が小声で言う。
「大げさじゃね」
「誰のせいじゃ」
「直樹が子ども二人って言うからでしょ」
「早苗が教室で言うからじゃ!」
「面白かったから」
「俺は全然面白くなか」
「みんな楽しそうじゃったよ」
「おまえは周りが笑えば何でもよかんか」
「少しくらいは」
「保育士向きなのか、ただの天然なのか分からんな」
「両方かも」
早苗は笑った。
直樹は呆れたようにため息をついたが、口元は少しだけ緩んでいた。
放課後。
鹿児島高校陸上部のグラウンドには、記録会を目前に控えた緊張感が漂っていた。
陸上部の顧問は、体育科の有馬剛志だった。
四十代前半。
自身も学生時代は八百メートルの選手として県大会へ出場した経験があり、短距離と長距離の双方を丁寧に見る指導者だった。
声は大きいが、選手を頭ごなしに怒鳴ることはない。
結果だけではなく、走りの変化を細かく見て評価する教師だった。
「今日は記録会前の最終調整じゃ」
有馬が部員たちを見渡す。
「短距離はスタートから三十メートルまで。長距離は設定ペースの確認。追い込みすぎるな。疲れを残したら意味がなかど」
「はい!」
部員たちの声がそろう。
早苗はスターティングブロックへ向かった。
前回の練習では、力みすぎて上体が早く起きてしまった。
今日はその修正が課題だった。
直樹がトラックの横に立ち、早苗の姿勢を見る。
「肩に力入りすぎじゃ」
「まだ走ってないじゃん」
「構えた時点で分かっど」
「直樹、急に専門家みたいになっちょっね」
「外から見たら分かることもあっが」
「優しく言ってよ」
「力抜け、サイヤ人」
「その呼び方やめて!」
有馬が離れた場所から声を飛ばす。
「大石、集中!」
「はい!」
早苗は深く息を吐いた。
肩の力を抜く。
腕に余計な力を入れず、スターティングブロックへ足を押し当てる。
「位置について」
腰を上げる。
「用意」
一瞬の静寂。
合図と同時に、早苗は前へ飛び出した。
今度は上体を低く保ったまま、三歩、四歩と加速していく。
無理に前へ進もうとせず、地面から返ってくる力をそのまま速度へ変える。
三十メートルを通過し、早苗はゆっくりと減速した。
「今のよかったど」
有馬の声が響く。
早苗は振り返る。
「ほんとですか?」
「昨日までより力みが減っちょる。スタートで全部決めようとせんでよか。大石は加速に入ってから強か選手じゃっで、自分の形を崩すな」
「はい!」
早苗の表情が明るくなる。
直樹も小さくうなずいた。
「今のはよかった」
「サイヤ人じゃなかった?」
「普通のスプリンターじゃった」
「最初からそう言ってよ」
一方、直樹は長距離ブロックで千メートルごとのペース確認へ入った。
前回は序盤から飛ばしすぎた。
今日は有馬から指示された設定タイムを守ることが第一だった。
直樹はスタートラインへ立つ。
早苗がストップウオッチを持ち、トラック内側へ移動した。
「直樹、僕がタイム見るからね」
「大声出すなよ」
「分かっちょっ」
「ほんとか」
「信用して」
「一番難しか」
「失礼じゃな!」
直樹は走り始めた。
最初の一周。
前を走る先輩につられそうになるが、無理に追わない。
自分の呼吸と足音を確かめ、設定されたペースを守る。
早苗はゴール付近でストップウオッチを確認した。
「直樹、ちょうどよか!」
十分に大きな声だった。
直樹は走りながら叫ぶ。
「声が大きか!」
「聞こえんかったら困るじゃん!」
「グラウンド中に聞こえちょっど!」
二周目。
三周目。
直樹は一定のリズムを崩さない。
早苗も今度は少し声を抑えた。
「今も設定どおり!」
直樹は軽く手を上げて応じる。
最後の一周だけ、少しペースを上げた。
ゴールを通過すると、早苗がタイムを確認する。
「直樹、ぴったりじゃっど!」
直樹は呼吸を整えながら、満足そうにうなずいた。
「前より余裕があった」
「最初に飛ばさんかったからじゃね」
「早苗が騒がんかったでな」
「騒いだよ」
「いつもよりはましじゃった」
有馬が二人のところへ歩いてくる。
「田中、今日の入りはよかった。五千メートルは最初の一千で勝負しようとすんな。最後まで自分の走りを残せ」
「はい」
「大石も、田中のペースを見ることで、自分のスタートにも落ち着きが出ちょったな」
「僕、直樹の世話しながら成長しちょるんです」
「誰が世話されちょっとよ」
「タイム見てあげたじゃん」
「俺もスタート見たが」
「じゃあ、おあいこじゃね」
有馬は苦笑する。
「おまえらは一緒におると騒がしかが、互いの走りはよう見ちょる。記録会でも、そこは強みになるど」
二人は顔を見合わせた。
「はい」
今度は静かに、声がそろった。
練習後。
二人はグラウンド脇のベンチへ並んで座り、スポーツドリンクを飲んでいた。
空には夕焼けが広がり、遠くの桜島が赤く染まっている。
「直樹」
「何ね」
「今日、クラスのみんなに彼氏って言われたね」
「言われたな」
「直樹は嫌だった?」
直樹は少し考える。
「嫌というか、恥ずかしかった」
「僕も」
「早苗も顔赤くなっちょったど」
「直樹もじゃん」
「俺は朝から暑かっただけじゃ」
「教室、冷房ついちょったよ」
「細かいこと言うな」
早苗は笑いながら、スポーツドリンクの蓋を閉める。
「でも、直樹みたいな彼氏なら、悪くなかかもね」
直樹の手が止まった。
「……何て?」
「聞こえんかった?」
「いや、聞こえたけど」
「冗談じゃっど」
早苗はそう言って立ち上がる。
直樹はしばらく動けなかった。
「早苗」
「何?」
「そげな冗談、急に言うな」
「また変な妄想すっと?」
「せん!」
「子ども、今度は三人になったりして」
「増やすな!」
早苗は笑いながら走り出した。
「ほら、帰るよ!」
「待て!」
直樹も鞄を持ち、早苗のあとを追う。
百メートルのスプリンターと、五千メートルのランナー。
短い距離なら早苗が速く、長い距離なら直樹が追いつく。
恋人ではない。
少なくとも、今はまだ。
けれど周囲から見れば、二人の距離はとっくに幼なじみという言葉だけでは説明できなくなり始めていた。
登場人物
大石早苗
鹿児島高校普通科一年三組。短距離のスプリンター。将来の夢は保育士。
田中直樹
鹿児島高校普通科一年三組。五千メートルを専門とする長距離ランナー。将来の夢は鉄道乗務員。
福留千鶴
一年三組担任。国語科。落ち着いた性格だが、生徒の騒動には鋭いツッコミを入れる。
有馬剛志
鹿児島高校陸上部顧問。体育科。元八百メートル選手。
前園健吾
一年三組。元野球部でホークスファン。明るく噂好き。
迫田悠人
一年三組。眼鏡をかけた冷静な男子。淡々と核心を突く。
西郷蓮太
一年三組。サッカー部。体格がよく、豪快な性格。
上原美月
一年三組。明るく世話好きで、早苗と仲がよい。
川畑莉奈
一年三組。おっとりしているが、恋愛に関する勘が鋭い。
次回予告
第7話「初めての記録会」
ついに迎える、早苗と直樹にとって初めての高校陸上記録会。
女子百メートルに挑む早苗。
男子五千メートルに挑む直樹。
緊張で早口になる早苗に、直樹はいつもの調子で声をかける。
「サイヤ人にならん程度に気合い入れろ」
「今それ言う?」
一方、直樹も五千メートルのスタートを前に、表情から余裕が消えていく。
「最初から飛ばしたら、僕が叫ぶからね」
「そいが一番怖か」
クラスメイトの前園健吾、上原美月たちも応援へ駆けつけ、観客席では早くも恋人扱いが加速する。
記録よりも先に、二人の関係が実況される事態となって――。
次回、第7話「初めての記録会」。
百メートルと五千メートル。
距離は違っても、ゴールで待つ人は同じ。




