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となりのスタートライン  作者: リンダ


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梅の香りと教室の追及

 第5話 梅の香りと教室の追及


 翌朝。


 鹿児島高校一年生の教室には、いつもより少し早く登校した直樹の姿があった。


 昨日、早苗から返してもらった制服の上着を着て、自分の席で教科書を整理している。


 洗い上がった上着には、かすかに甘酸っぱい香りが残っていた。


 本人はそれほど気にしていなかった。


 しかし、近くを通った男子生徒が足を止めた。


「田中」


「何ね」


「おまえ、何か甘か匂いせん?」


 直樹の手が止まる。


「甘か匂い?」


「梅みたいな匂い」


 その言葉に、近くにいた女子生徒も顔を上げた。


「あ、ほんとじゃ。梅の香りがすっど」


「朝から梅干し食べてきたと?」


「食べちょらん」


「じゃあ何ね」


 直樹は上着の襟元を少し持ち上げ、においを確認する。


 確かに、ほのかに梅の香りがする。


「柔軟剤じゃろ」


「田中ん家、梅の柔軟剤使っちょっと?」


「いや、これは……」


 直樹が言いよどんだ、その時だった。


 教室の後ろの扉が開く。


「おはよう!」


 早苗が元気よく入ってきた。


 今朝の髪は落ち着いている。


 サイヤ人でもなければ、灰かぶり姫でもない。


 しかし、教室へ入った瞬間、何人かの視線が一斉に早苗へ向いた。


「何?」


 早苗は足を止めた。


 男子生徒の一人が直樹の上着を指さす。


「大石、田中の上着から梅の匂いがすっとじゃけど」


「え」


 早苗の目が泳ぐ。


「これ、早苗の好きな梅の匂いじゃなか?」


「ち、違うよ!」


 早苗は慌てて首を横に振った。


 その隣で直樹も声を上げる。


「別に早苗の匂いじゃなか!」


 二人の声がぴたりと重なった。


 教室が一瞬静まる。


 次の瞬間、笑い声が広がった。


「息ぴったりじゃん」


「誰も早苗本人の匂いとは言ってなかど」


「二人とも慌てすぎじゃろ」


「違うって!」


「違うんじゃ!」


 また声が重なる。


 早苗は自分の席へ鞄を置きながら、顔を赤くした。


「母さんが使った柔軟剤が梅の香りだっただけじゃっど」


「何で大石ん家で田中の制服を洗ったと?」


「昨日、雨で濡れたから、直樹が僕に貸してくれたの!」


「へえ」


 教室のあちこちから、妙に含みのある声が上がる。


 直樹は嫌な予感がして眉を寄せた。


「そげな言い方すんな」


 女子生徒の一人が机へ身を寄せる。


「つまり、相合い傘して、上着を借りて、早苗ん家で洗って、梅の香りつきで返したと?」


 早苗は指を一本ずつ折るように確認する。


「そうなるけど、何もおかしくなかじゃん」


「全部並べたら、結構すごかど」


「何がよ!」


「青春」


「ただ雨に降られただけ!」


 直樹はため息をついた。


「おまえら、朝から暇じゃな」


「田中が分かりやすすぎっとよ」


「何が分かりやすか」


「顔、赤くなっちょっど」


「暑かだけじゃ」


「四月の朝じゃっど」


「鹿児島の四月は暑か!」


 早苗が直樹を見上げる。


「それ、昨日も言っちょったね」


「おまえは黙っちょけ」


「何で僕まで怒られるの」


「おまえが余計な説明すっからじゃ」


「直樹だって同時に否定したじゃん」


「早苗が先に慌てたからじゃろ」


「乙女心を守っただけじゃっど」


「また乙女心か」


 クラス中に笑いが広がる。


 結局、朝のホームルームが始まるまで、梅の香りを巡る追及は続いた。


 担任が教室へ入ってきても、まだ何人かは直樹の上着を見て笑っている。


「何を騒いじょっとね」


 担任が教卓へ出席簿を置く。


 男子生徒が答えた。


「田中の上着から、大石の好きな梅の匂いがするんです」


「余計な説明すんな!」


 直樹が叫ぶ。


 担任は直樹と早苗を交互に見た。


「青春じゃな」


「先生まで!」


 早苗の声が教室に響き、朝からまた大きな笑いが起こった。


 放課後。


 陸上部では、記録会へ向けた本格的な練習が始まった。


 早苗はスターティングブロックへ足を合わせ、何度もクラウチングスタートを繰り返していた。


「位置について」


 腰を上げる。


「用意」


 合図。


 早苗は飛び出した。


 しかし、上体が早く起きすぎた。


「もう一回!」


 顧問の声が飛ぶ。


 早苗は息を整え、再びスタートラインへ戻る。


 次は前へ飛び出そうと意識しすぎ、足がもつれた。


「うわっ!」


 転びはしなかったものの、二歩目で体勢を崩す。


 早苗は悔しそうに地面を見た。


「全然決まらん」


 普段なら、スタートは早苗の武器だった。


 けれど、記録会を意識し始めてから、必要以上に力が入るようになっていた。


 そのころ、直樹も長距離ブロックで苦戦していた。


 今日の練習は、五千メートルを想定したペース走だった。


 最初の二千メートルを抑え、その後に少しずつペースを上げる予定だった。


 ところが直樹は、前を走る二年生につられて最初から速く入ってしまった。


「田中、飛ばしすぎじゃ!」


 顧問の声が飛ぶ。


 直樹も自分で分かっていた。


 それでも一度上げたペースを落とすことができず、三千メートルを過ぎたところで急に苦しくなった。


 呼吸が乱れ、脚が重くなる。


 最後の一千メートルでは、後ろから来た部員に次々と抜かれた。


 練習が終わったあと、早苗と直樹はグラウンド脇の水道前で並んで座っていた。


 早苗はスポーツドリンクを飲みながら、地面を見つめている。


「今日、全然だめじゃった」


「俺もじゃ」


「スタートで力入りすぎる」


「俺は前半で飛ばしすぎた」


「直樹、長距離なんだから落ち着いて走ればよかじゃん」


「簡単に言うな。前がおったら追いたくなるんじゃ」


「我慢せんと」


「おまえもスタートで我慢すればよか」


「短距離は我慢しちょったら遅れるが」


「力みすぎるなってことじゃ」


「分かっちょっけど、できんの!」


「俺も分かっちょっけど、できん!」


 二人は顔を見合わせた。


 そして同時にため息をつく。


「似た者同士じゃな」


「直樹と一緒にせんで」


「今、全く同じ失敗しちょっが」


「距離が違うもん」


「焦っちょるのは同じじゃろ」


 直樹の言葉に、早苗は少し黙った。


 確かにそのとおりだった。


 初めての記録会。


 自己ベストを出したい。


 失敗したくない。


 その気持ちが強くなりすぎて、二人とも自分の走りを見失いかけている。


 早苗は膝を抱えた。


「直樹」


「何ね」


「次の練習、僕が直樹の入りのタイム見る」


「早苗が?」


「速すぎたら叫ぶ」


「おまえの声が一番ペース乱す気がすっど」


「じゃあ静かに教える」


「できっとか」


「たぶん」


「信用できんな」


「直樹は僕のスタート見て」


「分かった。力みすぎたら言う」


「優しく言ってよ」


「サイヤ人みたいに飛び出すなって」


「優しさゼロじゃん!」


 早苗は直樹の肩を軽く叩いた。


 直樹は笑いながら立ち上がる。


「まあ、記録会まで時間はあるが」


「うん」


「焦っても速くならん」


「直樹が言うと、ちょっと説得力あるね」


「五千メートルは焦ったら終わるでな」


「僕は百メートルだから、少しくらい焦っても」


「そいで今日失敗したんじゃろ」


「いちいち正論言わんで」


 その日の練習は、二人にとって悔しさの残るものだった。


 けれど、自分だけが苦しんでいるわけではない。


 隣にも同じように悩んでいる幼なじみがいる。


 それだけで、少しだけ気持ちは軽くなった。


 そして、数日後。


 ゴールデンウィークが始まった。


 記録会を前に、陸上部の練習も午前中だけの日が設けられた。


 ある休日の朝、早苗は田中家の前で直樹を待っていた。


 今日は制服ではなく、淡い色のパーカーに細身のパンツという軽装だった。


 直樹も、黒いパーカーとジーンズ姿で家から出てくる。


「おはよう」


「おはよう。準備できた?」


「できちょっ。平川動物公園じゃろ」


「コアラ見に行く!」


 早苗は子どものように目を輝かせた。


「高校生になっても、動物園でそげん喜べっとな」


「将来、保育士になるんだよ。子どもが好きな場所は研究せんと」


「研究と言いながら、自分が一番楽しむ気じゃろ」


「悪か?」


「悪くなか」


 二人は電車とバスを乗り継ぎ、平川動物公園へ向かった。


 ゴールデンウィークということもあり、園内は多くの家族連れでにぎわっていた。


 子どもたちの笑い声。


 動物を呼ぶ声。


 売店から漂う甘い匂い。


 早苗は入口からすでに機嫌がよかった。


「見て、直樹。あの子、キリン見て大興奮しちょっど」


「早苗も同じくらい興奮しちょるが」


「僕は冷静に観察しちょっと」


「さっきから五回くらい『かわいい』って言っちょっど」


「事実じゃん」


 二人は園内を歩き、レッサーパンダやホワイトタイガー、キリンを順に見て回った。


 そして、早苗が一番楽しみにしていたコアラ舎へ向かう。


 コアラ舎の前には、多くの来園者が集まっていた。


 ガラスの向こうでは、一頭のコアラが木の枝にしがみついている。


 その背中には、小さな赤ちゃんコアラがぴたりとくっついていた。


「直樹、見て!」


 早苗は声を抑えながら、直樹の腕を引っ張った。


「赤ちゃんがおる!」


「ほんとじゃな」


「背中に乗っちょる。かわいかねえ」


 母親コアラはゆっくりと枝を移動する。


 赤ちゃんは落ちないように、背中へしっかりとしがみついていた。


 その姿を見つめていた早苗の表情が、少しだけ柔らかくなる。


「親子って、よかね」


「そうじゃな」


「僕も保育士になったら、こんな小さか子たちと毎日関われるんじゃろな」


「コアラの保育士じゃなかど」


「分かっちょるよ」


 早苗は笑いながら、もう一度赤ちゃんコアラを見た。


 そして、何気ない口調で言った。


「僕と直樹が結婚して、赤ちゃんが生まれたら、どんなんなんやろな」


 直樹の動きが止まった。


「……は?」


 早苗は赤ちゃんコアラを見たまま続ける。


「僕に似たら小柄で、直樹に似たら背が高くなるじゃろ」


「いや、ちょっと待て」


「足は直樹に似て長くなったらよかよね。僕に似たら短距離が得意になるかもしれんし、直樹に似たら長距離も走れるかも」


 直樹の頭の中に、勝手に映像が浮かび始めた。


 早苗と結婚した未来。


 鹿児島市内の小さな家。


 玄関には子ども用の靴が並び、リビングにはホークスの応援グッズが置かれている。


 小さな子どもが、早苗に似た大きな目で笑いながら走り回る。


『お父さん、電車見に行こう!』


『今日はホークスの試合もあっど』


『直樹、先に公園連れてってあげて』


 エプロン姿の早苗が、子どもの髪を整えている。


 しかし、その髪はなぜかあの日のように盛大に逆立っていた。


『お母さん、サイヤ人になった!』


『誰がサイヤ人よ!』


 家族三人で笑う。


 直樹が鉄道の乗務員として仕事から帰ると、早苗と子どもが玄関へ走ってくる。


『おかえり!』


 休日には家族で平川動物公園へ行き、コアラを見ながら子どもを抱き上げる。


 夜には家族そろってホークスを応援し、得点が入ると三人同時に叫ぶ。


『よっしゃー!』


 両隣の家から苦情が来る。


 さらに妄想は進んでいく。


 子どもの運動会。


 短距離走で早苗が大声を上げ、直樹がビデオを撮る。


『行けー! 走れー!』


『早苗、声が大きか!』


『我が子の応援じゃっど!』


 授業参観では、早苗が子どもより目立つ。


 家族旅行では、直樹が列車の説明を長々と始め、早苗と子どもが途中で飽きる。


 家へ帰れば、梅ジュースが冷蔵庫に常備されている。


 気づけば直樹の妄想の中では、二人の間に子どもが二人もいた。


 兄は長距離。


 妹は短距離。


 二人そろってホークスファン。


「直樹」


 早苗の声が聞こえる。


 しかし、直樹の妄想はまだ止まらない。


 子どもの進路相談。


 家族での初詣。


 早苗の保育園での仕事。


 直樹が鉄道の制服姿で帰宅する夜。


「直樹?」


 早苗が直樹の顔をのぞき込んだ。


 直樹はようやく現実へ戻る。


「うわっ!」


「何ね、その反応」


「いや、何でもなか」


 早苗は目を細めた。


「今、なんか変なこと想像しちょったやろ」


「してなか」


「顔が赤かよ」


「暑かだけじゃ」


「コアラ舎、冷房効いちょっど」


「歩いたで暑か」


「さっきから立っちょるだけじゃん」


 早苗はじっと直樹を見る。


 直樹は視線をそらした。


「ほんとに何も考えちょらん」


「怪しか」


「早苗が急に変なこと言うからじゃろ」


「変なこと?」


「俺と結婚して、赤ちゃんが生まれたらって」


「ただの想像じゃん」


「そげなこと、普通さらっと言うか?」


「幼なじみなんだから、別によかじゃん」


「よくなか」


「何で?」


「何でもじゃ!」


 直樹は耳まで赤くして、コアラのほうを向いた。


 早苗はしばらく直樹を見つめたあと、口元を緩めた。


「直樹、僕との結婚生活、想像したんじゃろ」


「してなか!」


「子ども何人おった?」


「二人……」


 直樹は反射的に答えた。


 一秒。


 二秒。


 早苗の目が大きくなる。


 直樹は自分の失言に気づいた。


「違う!」


「二人おったんだ!」


「今のは言葉のあやじゃ!」


「男の子と女の子?」


「何でそげん具体的に聞く!」


「名前まで決めた?」


「決めちょらん!」


「運動会にも行った?」


「何で分かっとよ!」


 早苗はとうとう吹き出した。


「あはははは!」


「笑うな!」


「直樹、どこまで想像したの」


「言わん!」


「僕、保育士になっちょった?」


「知らん!」


「直樹は鉄道の乗務員?」


「もう聞くな!」


 早苗は腹を抱えながら笑い続ける。


 周囲にいた家族連れが、何事かと二人を見る。


 直樹は恥ずかしさに耐えきれず、早苗の腕を引いた。


「もう次行くど」


「待って。赤ちゃんコアラ、もうちょっと見たい」


「さっきから十分見たじゃろ」


「直樹との子どもの未来も見たしね」


「言うな!」


 早苗は楽しそうに笑いながら、直樹の隣を歩く。


 直樹はまだ顔を赤くしたままだった。


 ただの幼なじみ。


 これまで二人は、ずっとそう思っていた。


 しかし、何気ない一言で、直樹の頭の中には思っていた以上に自然な未来が広がってしまった。


 そのことに、直樹自身が一番驚いていた。


 一方の早苗は、そこまで深く考えていない。


 少なくとも、この時点では。


 ただ、直樹が自分との未来を想像していたことが、少しだけ嬉しかった。


「直樹」


「何ね」


「子ども二人なら、梅ジュースは四本必要じゃね」


「まだ言うか!」


 平川動物公園に、二人の笑い声が響いた。


 背中に赤ちゃんを乗せたコアラは、そんな二人の騒ぎなど気にする様子もなく、ゆっくりと木の葉を食べ続けていた。


 次回予告


 第6話「コアラの前の未来予想図」


 平川動物公園で、思わず早苗との結婚生活を想像してしまった直樹。


 翌朝、その失言を早苗が学校でぽろりと話してしまう。


「直樹、僕との子ども二人も想像しちょったんだよ」


「早苗、それは言うな!」


 教室は朝から大騒ぎ。


 さらに裕美と優樹菜にも話が伝わり、田中家では再び兄への追及が始まる。


 一方、記録会を目前に控えた陸上部では、早苗のスタートと直樹のペース配分に、少しずつ改善の兆しが見え始める。


 次回、第6話「コアラの前の未来予想図」。


 未来はまだ決まっていない。


 けれど、想像だけなら、どこまでも先へ走っていく。

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