貸した上着と家族会議
第4話 貸した上着と家族会議
雨は、早苗と直樹がそれぞれの家へ着くころには、さらに強くなっていた。
道路には小さな水たまりがいくつもでき、屋根や植木を打つ雨音が、住宅街のあちこちから聞こえている。
大石家の玄関が開いた。
「ただいまー!」
早苗が勢いよく家へ入る。
その姿を見て、リビングにいた母・美紀、兄・翔太、弟・陽斗が、ほぼ同時に振り返った。
三人の視線は、早苗の顔ではなく、その肩へ向けられている。
早苗が着ているのは、自分のものではない。
明らかに大きすぎる男子用の制服の上着だった。
袖は手の甲まで隠れ、肩の位置もまったく合っていない。小柄な早苗が着ると、上着に包まれているように見えた。
最初に口を開いたのは母の美紀だった。
「早苗、その上着、直樹君のじゃなかね」
早苗は玄関で靴を脱ぎながら、できるだけ普通の顔で答えた。
「うん。雨で僕の制服が濡れたから、貸してくれた」
兄の翔太が、ソファから身を乗り出す。
「何で直樹の上着を借りる状況になったとよ」
「だから、雨が降ったの!」
「傘は?」
「直樹が持っちょった」
陽斗が素早く反応した。
「ということは、相合い傘?」
「相合い傘って言い方せんでよ!」
「一つの傘に二人で入ったんなら、相合い傘じゃろ」
「仕方なかったの!」
早苗は上着の前をしっかり閉じながら、リビングへ入っていく。
美紀は娘の右肩付近がまだ少し濡れていることに気づいた。
「結構濡れたね」
「身長差がありすぎて、直樹が傘を持つと僕が傘の外に出っとよ」
翔太が笑う。
「早苗が持ったら?」
「直樹がずっとしゃがんで歩かんといかんかった」
陽斗はその光景を想像したのか、吹き出した。
「何それ。めちゃくちゃ変な二人じゃん」
「僕らだって真剣だったんだよ!」
「真剣な相合い傘」
「陽斗!」
早苗は鞄をソファへ置き、借りた上着を丁寧に脱いだ。
そして、濡れたり汚れたりしていないかを確かめる。
「ちゃんと洗って返さないと」
美紀が上着を受け取った。
「制服じゃっで、洗濯表示を見てからにしないといかんね」
「お願い。明日の朝、返したか」
翔太が妙に感心したようにうなずく。
「へえ。ずいぶん大事そうに扱うじゃん」
「借り物なんだから当たり前でしょ」
「直樹のだからじゃなくて?」
「同じことじゃん!」
「違うと思うけどなあ」
早苗の顔が少し赤くなる。
「何もなかったから!」
一瞬、リビングが静かになった。
翔太と陽斗が顔を見合わせる。
美紀は落ち着いた声で言った。
「誰もまだ、何かあったとは聞いてないよ」
「え」
陽斗がにやりと笑う。
「自分から言うところが怪しか」
「違う!」
早苗は顔を真っ赤にしたまま、自分の部屋へ逃げるように向かった。
「もうお風呂入る!」
階段を上がる足音が響く。
翔太はその背中を見送りながら、腕を組んだ。
「幼なじみって、面白かね」
美紀は制服の上着を広げ、濡れ具合を確かめながら苦笑する。
「からかいすぎたらいかんよ。二人とも、まだ自分たちの距離が近いことに気づいちょらんとじゃっで」
陽斗が首をかしげる。
「距離が近いって、毎朝一緒に学校行って、部活も一緒で、ホークスの試合で同時に叫ぶくらいじゃろ」
翔太が弟を見る。
「十分近かが」
「確かに」
一方、そのころ。
田中家の玄関も開いた。
「ただいま」
直樹が少し濡れた制服姿で家へ入ってくる。
上着は着ていない。
リビングにいた上の妹・裕美と下の妹・優樹菜は、兄の姿を見た瞬間に違和感へ気づいた。
裕美が先に尋ねる。
「お兄ちゃん、上着は?」
「早苗に貸した」
優樹菜が大きく目を見開いた。
「早苗ちゃんに?」
「雨で濡れちょったでな」
裕美と優樹菜が同時に顔を見合わせる。
「へえ」
「へえ」
声までそろった。
直樹は嫌な予感がして、二人から目をそらす。
「何ね、その反応」
裕美は兄の周囲を一周するように歩いた。
「別に。お兄ちゃんが女子に上着を貸すなんて、成長したなと思って」
「早苗は幼なじみじゃろ」
「幼なじみも女子じゃっど」
「そいは分かっちょっ」
優樹菜はソファの背もたれから身を乗り出した。
「何で早苗ちゃん、上着が必要なくらい濡れたの?」
「傘が小さくて、右肩が濡れちょった」
「二人で一つの傘?」
「そうじゃ」
「相合い傘?」
「仕方なくだ!」
優樹菜の目がきらりと光る。
「なんか、お兄ちゃん」
「何ね」
「ラッキーすけべみたいなん、見てないやろね?」
直樹はぴたりと動きを止めた。
「は?」
「早苗ちゃん、制服が濡れたんでしょ」
「そ、それは……」
裕美が兄の顔をじっと見る。
直樹の耳が、分かりやすいほど赤くなっていた。
「何でしどろもどろになっとっとよ」
「なってなか!」
「なっちょっが」
優樹菜も兄の顔をのぞき込む。
「見たの?」
「見ようとして見たんじゃなか!」
言った瞬間、直樹は自分の失敗に気づいた。
裕美と優樹菜の表情が変わる。
「見たんだ」
「やっぱり見たんだ」
「違う! 少し透けちょったのが見えただけで、すぐ上着貸したんじゃ!」
裕美は腕を組み、疑わしそうに兄を見る。
「ますます怪しかね」
「何が!」
「聞いてないところまで、自分から説明し始めた」
「誤解されたくなかっただけじゃ!」
優樹菜が面白がるように、さらに質問を重ねる。
「顔、赤くなった?」
「なってなか」
「今も赤いよ」
「風呂上がりみたい」
「まだ風呂入ってなか!」
そこへ母の真由美が台所から顔を出した。
「三人とも、玄関で何を騒いじょっとね」
裕美がすぐに報告する。
「お兄ちゃんが早苗ちゃんと相合い傘して、制服が濡れた早苗ちゃんを見て顔を赤くしたって」
「話を勝手にまとめんな!」
優樹菜も続く。
「しかも、見ようとして見たんじゃないって言い訳しちょる」
「言い訳じゃなか!」
真由美は直樹を見た。
「直樹」
「何」
「ちゃんと上着を貸したなら、それでよかが」
「母さん……」
味方が現れたと思い、直樹は少し安堵した。
しかし、真由美は続けた。
「ただし、本人が困っちょることを妹たちに細かく話す必要はなかよ」
「俺が話したんじゃなくて、こいつらが聞き出したんじゃ!」
裕美と優樹菜が声をそろえる。
「お兄ちゃんが勝手にしゃべったんじゃん」
「そうじゃん」
「おまえら!」
リビングに笑い声が広がる。
ちょうどその時、父が仕事から帰ってきた。
「ただいま。何の騒ぎね」
優樹菜が楽しそうに父へ駆け寄る。
「お父さん、お兄ちゃんが早苗ちゃんと相合い傘したんだって」
「ほう」
「しかも上着まで貸した」
「ほう」
「変なところだけ反応せんで!」
父は直樹の濡れた左肩を見た。
「そいで、おまえも濡れたんか」
「少しだけ」
「風邪ひかんように、早く着替えんか」
「分かっちょっ」
直樹は逃げるように階段へ向かった。
しかし、背後から裕美の声が飛んでくる。
「お兄ちゃん、明日、上着が返ってきたら匂い確認しないとね」
「何で匂いを確認すっとよ!」
優樹菜も続ける。
「早苗ちゃんの匂いがついちょるかもしれんよ」
「変なこと言うな!」
直樹は顔を真っ赤にしたまま、自分の部屋へ消えていった。
扉が閉まる。
裕美は笑いながらソファへ戻る。
「分かりやすか兄ちゃんじゃね」
優樹菜もうなずく。
「早苗ちゃんが相手になると、急に弱くなるよね」
真由美は二人へ釘を刺す。
「あんまりからかいすぎんようにしなさい。直樹も早苗ちゃんも、本気で困ったら何も話さんようになるよ」
裕美は少しだけ真面目な顔になる。
「分かっちょっ。でも、二人とも見てると面白かとよ」
「何をしてもコントになるもんね」
優樹菜がそう言うと、父も苦笑した。
「確かに、あの二人は幼稚園のころから変わらんな」
その夜。
大石家では、美紀が直樹の上着を丁寧に手入れしていた。
早苗はその横で、落ち着かない様子で見守っている。
「明日の朝までに乾く?」
「部屋干しと乾燥で大丈夫じゃろ」
「変な匂い残らない?」
「そげん心配せんでもよか」
「直樹、匂いに敏感そうじゃん」
「鉄道の音には敏感じゃろうけど、上着の匂いまでは分からんよ」
早苗は少し考え、洗面台の近くに置かれていた柔軟剤を見る。
「これ、梅の香り?」
「そうじゃね。新しく買ったもの」
「梅……」
早苗は梅ジュースを思い出した。
直樹が購買で買ってくれた、自分の好きな飲み物。
「ちょうどよかかも」
「何が?」
「何でもない」
翌朝。
早苗はきれいにたたまれた上着を紙袋へ入れ、いつもより少し早く家を出た。
今度は寝ぐせもない。
雨も降っていない。
桜島の灰も、今のところ飛んできていない。
「今日は完璧」
早苗は自信を持って田中家のインターホンを押した。
しばらくして直樹が出てくる。
「おはよう」
「おはよう。昨日はありがと」
早苗は紙袋を差し出した。
「上着、洗ってもらった」
「別に、そのままでもよかったのに」
「借りたものはきれいにして返すのが礼儀でしょ」
直樹は袋から上着を取り出した。
すると、ふわりと甘酸っぱい香りが広がる。
「何か、梅の匂いがすっど」
早苗は少し得意そうに胸を張った。
「僕の好きな匂い」
「何で俺の制服から早苗の好きな匂いがすっとよ」
「嫌だった?」
「嫌じゃなかけど」
「じゃあよかじゃん」
その時、玄関の陰から裕美と優樹菜が顔を出した。
「ほんとに梅の匂いがする」
「早苗ちゃんの匂い?」
「違うよ!」
早苗と直樹の声が、見事に重なった。
裕美と優樹菜は顔を見合わせる。
「息ぴったり」
「やっぱり怪しか」
「何も怪しくなか!」
朝の田中家の前に、また大きな笑い声が響いた。
上着一枚。
ただそれだけだったはずなのに、両家の想像はどこまでも走り出す。
早苗と直樹の高校生活は、今日も朝から順調に騒がしかった。
次回予告
第5話「梅の香りと教室の追及」
梅の香りが残る上着を着て登校した直樹。
教室では、いつもと違う香りにクラスメイトたちがすぐ気づく。
「田中、何か甘い匂いせん?」
「これ、早苗の好きな梅の匂いじゃなか?」
早苗は必死に否定するが、二人が同時に慌てれば慌てるほど、疑いは深まっていく。
一方、放課後の陸上部では、記録会へ向けた本格練習が始まる。
スタートが決まらず焦る早苗。
設定ペースを守れず、前半から飛ばしてしまう直樹。
互いに励ますはずが、なぜかいつもの言い合いへ発展する。
次回、第5話「梅の香りと教室の追及」。
梅の香りは甘酸っぱく、クラスメイトの勘は鋭い。




