桜島の灰と白い制服
第3話 桜島の灰と白い制服
翌朝。
鹿児島市の空は、昨日よりもいっそう青かった。
四月とはいえ、日差しにはすでに初夏を思わせる強さがある。住宅街の屋根や電柱を照らす朝日はまぶしく、風はまだ涼しいものの、歩き始めればすぐに額へ汗が浮かびそうだった。
田中家の門の前に、大石早苗が立っていた。
今朝の髪型は完璧だった。
昨日の反省を生かし、早苗はいつもより二十分も早く起きた。寝ぐせを水で濡らし、ドライヤーとブラシを使い、最後には念のためヘアミストまで吹きかけた。
鏡の前で何度も横を向き、後ろを向き、手で軽く揺らしても髪は乱れなかった。
「今日は絶対に大丈夫」
早苗は自信満々にインターホンを押した。
しばらくして玄関が開き、制服姿の直樹が出てくる。
「おはよう、早苗」
「おはよう。どう?」
早苗は少し得意げに髪を指さした。
直樹はその場でじっくりと確認する。
「おお。今日は普通じゃっど」
「普通って言わんでよ。完璧と言って」
「昨日がひどすぎたでな」
「昨日の話はもう終わったの」
「まだ教室では語り継がれちょっど」
「語り継がんでよ!」
二人はいつものように並んで歩き始めた。
直樹の歩幅は大きく、早苗は少し速足にならなければ追いつけない。幼いころから何度も繰り返している光景だったが、早苗は今でも時々不満そうに直樹を見上げる。
「直樹、もうちょっとゆっくり歩いてよ」
「普通に歩いちょっだけじゃっど」
「僕の普通と直樹の普通は違うの」
「足の長さが違うでな」
「朝から身長差を見せつけんで」
「見せつけちょらん」
交差点を渡り、見晴らしのよい道へ出る。
正面には桜島が見えた。
山頂付近から、灰色の噴煙がゆっくりと立ち上っている。
直樹は足を止め、桜島を見ながらのんびりと言った。
「桜島、今日も元気やねえ」
「元気で済ませてよか噴煙じゃなか気がすっとけど」
「鹿児島じゃ、いつものことじゃろ」
早苗は空を見上げ、目を細める。
「それにしても暑かね。鹿児島の四月の太陽、もう本気出しちょっど」
「まだ四月じゃっど」
「僕、夏まで生き残れるかな」
「陸上部が何を言いよっとよ」
「短距離は一瞬で終わるもん。通学は長距離じゃっど」
「学校まで五千メートルもなかが」
「気持ちの問題なの」
その時、風向きが変わった。
桜島のほうから、わずかにざらついた空気が流れてくる。
直樹が空を見上げた。
「おい、こっちに来よらんか?」
「何が?」
「灰」
早苗も空を見る。
朝日を受けた細かな灰が、目にはっきり見えるほどではないものの、風に乗って鹿児島市街地へ流れ始めていた。
数秒後。
早苗の紺色の制服の肩へ、小さな灰が落ちた。
「うそ!」
早苗は慌てて肩を払う。
続いて髪にも灰がついた。
「ちょっと待って! せっかく髪、直したのに!」
「今日はサイヤ人じゃなくて、灰かぶり姫じゃな」
「誰が灰かぶり姫よ!」
「でも、よう似合っちょっど」
「褒め言葉になってない!」
灰は少しずつ増えていった。
直樹の白いシャツにも、細かな灰色の点がつき始める。
「うわ、俺のシャツまで」
「直樹、白いから目立つね」
「おまえの髪も目立っちょっど」
「僕の髪は言わんで!」
早苗は鞄からハンカチを取り出し、髪や肩を払った。
しかし、払えば払うほど灰が広がり、制服の表面が薄く汚れていく。
「これ、学校着いたら掃除から始まるんじゃない?」
「教室入る前に落とさんと、床が灰だらけになっど」
「もう今日は体育館で授業したらよかのに」
「そっちも灰が入っちょるかもしれんが」
「逃げ場なかじゃん」
二人は口元をハンカチで押さえながら、急いで学校へ向かった。
鹿児島高校へ到着すると、昇降口の前では多くの生徒が制服や髪についた灰を払い落としていた。
「おはよう、大石」
「おはよう。今日は髪、立ってないね」
同じクラスの男子生徒に言われ、早苗は眉をつり上げる。
「代わりに灰が乗っちょっけどね」
「昨日はサイヤ人、今日は灰かぶり姫か」
「直樹、余計な情報を広めたでしょ!」
「俺は何もしちょらん」
「何もしない人の顔じゃない!」
教室へ入ってからも、二人は窓際で制服の灰を落とし続けた。
早苗は鏡で髪を確認する。
「せっかく完璧だったのに」
「自然には勝てんが」
「桜島は乙女心に厳しか」
「桜島は早苗の乙女心まで考えちょらん」
「少しは考えてほしか」
「そいは無理じゃろ」
午前中の授業が終わるころには、降灰も少し落ち着いていた。
放課後。
陸上部の部員たちはグラウンドへ集められた。
顧問が手にした紙を見ながら、一人ひとりの顔を見渡す。
「来月、県内の高校が集まる記録会がある。うちの一年生も何人か出場してもらう」
部員たちの間に緊張が走った。
早苗は隣に立つ直樹を見上げる。
「僕らも出るかな」
「たぶんな」
顧問が名前を読み上げていく。
「女子百メートル、大石早苗」
「はい!」
早苗は勢いよく返事をした。
続いて。
「男子五千メートル、田中直樹」
「はい」
直樹も落ち着いた声で答えた。
早苗は目を輝かせる。
「直樹、二人とも出らるっど!」
「まだ出場が決まっただけじゃ」
「初めての記録会じゃん。楽しみじゃっど」
「俺は五千メートルじゃっで、楽しみより緊張のほうが大きか」
「五千メートル、ずっと走るんだもんね」
「おまえも百メートルを本気で走るじゃろ」
「僕は一瞬で終わるから」
「その一瞬のために何十本も走りよっじゃろ」
「確かに」
顧問から練習計画が説明され、二人に最初の目標ができた。
早苗はスタートからの加速を磨くこと。
直樹は五千メートルを最後まで一定のペースで走り、終盤にもう一段速度を上げること。
種目は正反対だった。
けれど、初めての記録会へ挑む緊張は同じだった。
「僕、絶対自己ベスト出す」
「俺も出す」
「負けたほうが梅ジュースね」
「種目が違うのに、どうやって勝ち負け決めっとよ」
「自己ベストの更新幅」
「百メートルと五千メートルじゃ、秒数が違いすぎっが」
「じゃあ、気持ちで決める」
「一番あいまいじゃな」
練習が終わったころ、空は朝とはまったく違う色になっていた。
西の空から厚い雲が広がり、風も少し冷たくなっている。
早苗は空を見上げる。
「雨、降りそうじゃね?」
「天気予報じゃ、夕方から雨じゃったど」
「え」
早苗の動きが止まった。
「傘は?」
「持ってきてない」
「何で持ってこんかったとよ」
「朝、そげん天気よかったじゃん」
「予報見らんかったんか」
「髪を直すので忙しかったの」
「そいは自業自得じゃ」
「昨日のサイヤ人事件があったんだから仕方なかでしょ」
ぽつり。
早苗の頬へ雨粒が落ちた。
続いて二粒、三粒と雨が降り始める。
「降ってきた!」
生徒たちは次々と傘を開き、校門から出ていく。
直樹は鞄から折り畳み傘を取り出した。
「仕方なか。一緒に入るか」
「ほんと?」
「早苗だけ濡れて帰らせたら、母さんたちに怒らるっでな」
「幼なじみへの優しさじゃなかの?」
「半分はそい」
「残り半分は?」
「家族からの苦情対策」
「現実的すぎる!」
直樹が傘を開く。
二人は並んで歩き始めた。
しかし、すぐに問題が起きた。
直樹が傘を持つと、傘の位置が高すぎる。
背の低い早苗は傘の端に入りきらず、右肩が雨にさらされてしまう。
「直樹、僕、濡れちょっど」
「ちゃんと中に入れ」
「入っとるよ!」
「もっと近くに来ればよか」
「これ以上近づいたら歩きにくかが」
早苗が直樹の腕へ寄る。
それでも身長差のせいで、傘の端から雨が落ちてくる。
「右肩が冷たか!」
「傘をそっちへ傾けたら、俺が濡るっど」
「直樹は大きかから、少しくらい濡れてもよかじゃん」
「体の大きさと濡れてよかかは関係なか」
「僕は小さいから優先して」
「そげな法律はなか」
早苗は不満そうに直樹の手から傘を取った。
「じゃあ僕が持つ」
早苗が傘を持ち上げる。
今度は傘の高さが低すぎて、直樹の頭へ傘の骨が当たりそうになる。
「低か!」
「直樹がしゃがめばよか」
「このまま家まで歩けと言うと?」
「足腰のトレーニングになるよ」
「五千メートルランナーに変な負荷かけんな!」
直樹は腰を曲げたまま歩く。
その姿を見て、早苗は笑い出した。
「何、その歩き方。おじいちゃんみたい」
「誰のせいじゃ!」
「もうちょっと低く」
「無理じゃ。腰が壊るっど」
結局、傘は再び直樹が持つことになった。
二人はできるだけ体を寄せ、歩幅を合わせて進んだ。
それでも早苗の右肩は少しずつ濡れていく。
雨は次第に強くなり、制服の肩の部分が水を吸って濃い色へ変わっていた。
直樹が何気なく早苗のほうを見る。
そして、急に顔をそらした。
「……」
「直樹?」
「何でもなか」
「どうした?」
「何でもなかって」
直樹の顔が赤くなっている。
早苗は不思議そうに下から顔をのぞき込んだ。
「顔、赤かよ。熱でもあると?」
「なか」
「じゃあ何ね」
直樹は言いにくそうに口を開く。
「その、右肩んところ」
「右肩?」
「雨で濡れて、制服が少し透けちょっど」
早苗は自分の肩を見た。
一瞬、意味を理解できずに首をかしげる。
そして、数秒後。
「えっ!」
早苗は慌てて右肩を鞄で隠した。
「何で早く言わんの!」
「言いにくかったんじゃ!」
「直樹、見たの?」
「見ようとして見たんじゃなか!」
「でも見たんでしょ!」
「見えたんじゃ!」
「乙女心を弄ぶなー!」
「俺は何もしちょらん!」
早苗は顔を真っ赤にしながら、直樹の腕を叩いた。
「傘が揺るっど! もっと濡るっど!」
「直樹がちゃんと傘を持たんからじゃ!」
「身長差のせいじゃろ!」
「また僕の身長のせいにした!」
「事実じゃが!」
直樹は自分の制服の上着を脱ぎ、早苗の肩へかけた。
「ほら、これ着ちょけ」
「直樹が寒くなるじゃん」
「俺はまだ濡れちょらん。それに早苗がそんままじゃ歩きにくかろ」
早苗は少し黙った。
直樹の上着は、早苗にはかなり大きかった。肩からかけると、袖が手の先まで隠れそうになる。
「大きか」
「早苗が小さかだけじゃ」
「せっかく素直にありがとって言おうとしたのに」
「じゃあ言えばよか」
「今ので言う気なくした」
「返せ」
「返さん」
早苗は上着をしっかりと握った。
直樹は苦笑し、傘を早苗の側へ少し傾ける。
「これで濡れんじゃろ」
「直樹の左肩、濡れちょっど」
「少しくらいならよか」
「さっきは濡れてよか体の大きさは関係ないって言ったじゃん」
「今は状況が違う」
「どう違うの?」
「おまえが風邪ひいたら、陸上の記録会に出られんが」
「直樹も同じでしょ」
「俺は丈夫じゃ」
「痩せちょっとに?」
「関係なか」
早苗は直樹の左腕をつかみ、傘の中央へ引き寄せた。
「もっとこっち来て」
「歩きにくかろ」
「二人とも濡れるよりよか」
「そいなら、歩幅合わせろよ」
「直樹が僕に合わせるの」
「分かった、分かった」
二人はいつもよりゆっくりと歩いた。
直樹は小さな歩幅で。
早苗は少しだけ大きな歩幅で。
完全に雨を防ぐことはできなかったが、先ほどよりは二人とも傘の中へ収まっている。
「相合い傘じゃね」
早苗が何気なく言った。
「急に言うな」
「何で?」
「何でもなか」
「また顔が赤くなっちょっど」
「暑かだけじゃ」
「雨降って寒かよ」
「歩いたで暑か」
「変なの」
早苗は何も疑わず、直樹の上着にくるまりながら歩き続ける。
直樹はできるだけ前だけを見ていた。
朝は桜島の灰。
帰りは突然の雨。
そして、身長差のある相合い傘。
鹿児島の空は、幼なじみ二人の都合など考えてはくれない。
それでも二人は、いつものように言い合いながら、同じ道を帰っていく。
その距離が、昨日までよりほんの少しだけ近くなっていることに、早苗だけはまだ気づいていなかった。
次回予告
第4話「貸した上着と家族会議」
雨の中、直樹の上着を借りて帰宅した早苗。
大石家では、母・美紀と兄・翔太、弟・陽斗が、見慣れない大きな制服を着た早苗を見て一斉に注目する。
「その上着、直樹君のじゃなか?」
「何で相合い傘になったとよ」
「何もなかったから!」
一方、田中家では、上着を着ずに帰ってきた直樹を裕美と優樹菜が質問攻めにする。
「お兄ちゃん、上着は?」
「早苗に貸した」
「へえ。早苗ちゃんにねえ」
両家で始まる、幼なじみを巡る家族会議。
さらに翌朝、早苗が洗って返した上着には、なぜか甘い梅の香りが残っていて――。
次回、第4話「貸した上着と家族会議」。
上着一枚で、家族の想像はどこまでも走り出す。




