打て、走れ、ホークスば勝たせろ
第2話 打て、走れ、ホークスば勝たせろ
その日の放課後。
鹿児島高校のグラウンドには、陸上部員たちの掛け声と、スパイクが土を蹴る音が響いていた。
午後の日差しはまだ強く、トラックの向こうには夏を思わせる青空が広がっている。桜島の上には薄い雲がかかり、風が吹くたびにグラウンド脇の木々がゆっくりと揺れた。
「位置について」
短距離ブロックの先輩が声を上げる。
大石早苗はスターティングブロックへ足を合わせ、腰を落とした。
午前中、あれほど教室中を騒がせた寝ぐせは、昼休みを過ぎるころにはようやく落ち着いていた。もっとも、本人はまだ油断しておらず、前髪を時折触っては、再び立ち上がっていないか確かめている。
小柄で細身の早苗だったが、スタートラインに立った瞬間、その雰囲気は一変する。
体を低く構え、視線を前へ向ける。
「用意」
早苗の指先がトラックを押す。
次の瞬間、合図の音が響いた。
早苗は勢いよく地面を蹴った。
低い姿勢のまま鋭く加速し、短い足の回転を武器に、一気に前へ飛び出していく。小柄な体が風の間を縫うように走り、同じ一年生の女子部員たちを半歩ずつ引き離した。
五十メートルを過ぎても速度は落ちない。
最後まで腕を強く振り、ゴールラインを駆け抜けた。
「七秒台前半!」
タイムを計っていた先輩の声に、早苗は振り返った。
「ほんとね?」
「よか走りじゃったど。スタートが速かった」
「よっしゃ!」
早苗は両手を上げた。
その声が、トラックの外周を走っていた長距離ブロックにまで届く。
田中直樹は、前を走る二年生の背中を追いながら、ちらりと早苗のほうを見た。
「また騒いじょっな」
今日は五千メートルを意識したペース走だった。
高身長で痩せ型の直樹は、短距離で爆発的な力を出すタイプではない。その代わり、一定のリズムを長く保つことができる。大きな歩幅を生かし、呼吸を乱さず、淡々と周回を重ねていく。
早苗が一瞬で勝負を決めるスプリンターなら、直樹は時間をかけて相手を追い詰める長距離ランナーだった。
二人は幼いころから一緒に走っていたが、得意とする距離は正反対だった。
早苗は長い距離を走らせると、最初の一周で飛ばしすぎて後半に失速する。
直樹は百メートル走になると、加速し終わる前にゴールへ着いてしまう。
それでも、二人はそろって陸上部へ入った。
早苗は短距離。
直樹は五千メートル。
同じグラウンドで、まったく違う走りを磨いている。
「直樹、あと二周じゃっど!」
給水を終えた早苗が、トラックの内側から声を上げた。
「分かっちょっ!」
「前の先輩、追い抜け!」
「簡単に言うな!」
「根性じゃ、根性!」
「おまえは昭和の監督か!」
直樹はそう返しながらも、少しずつペースを上げた。
前を走っていた先輩との差が縮まっていく。
残り一周。
呼吸は苦しい。
脚にも疲労がたまっている。
それでも、直樹は腕を振り、歩幅を崩さないまま最後の直線へ入った。
「行けー! 直樹、ラストスパートじゃ!」
「うるさか!」
「声援じゃっど!」
「集中できん!」
口では文句を言いながらも、直樹は最後にもう一段速度を上げた。
先輩のすぐ後ろまで迫り、そのままゴールラインを通過する。
走り終えた直樹は膝へ手をつき、大きく息を吐いた。
早苗がスポーツドリンクを持って駆け寄ってくる。
「惜しかったね。あとちょっとじゃった」
「早苗が横で騒がんかったら、抜けたかもしれん」
「僕の声援があったから、追いつけたんじゃろ」
「どっちじゃろな」
「素直に感謝せんね」
「じゃあ、ありがとな。昭和の監督」
「誰が昭和の監督よ!」
早苗はタオルで直樹の腕を軽く叩いた。
その瞬間、直樹の汗がタオルへついたことに気づき、早苗は眉を寄せる。
「あっ、僕のタオル!」
「自分で叩いたんじゃろが」
「直樹が汗だくなのが悪か」
「五千メートル走ったあとじゃっで、当たり前じゃろ」
「僕なんか百メートル走っても、そげん汗かかんよ」
「距離が五十倍違うが」
「五十本走れば同じじゃん」
「そげん走ったら、おまえ途中で倒るっど」
練習が終わるころには、空が少しずつ赤みを帯び始めていた。
部員たちはトラック整備を済ませ、倉庫へ用具を片づけていく。
早苗と直樹も着替えを終え、荷物を持って校舎脇のベンチへ向かった。
しかし、すぐには帰らない。
二人には、練習後に必ず行う習慣があった。
「直樹、試合どうなっちょっと?」
「ちょっと待て。今、ラジコ開くで」
直樹がスマートフォンを取り出し、ラジオ配信アプリを起動する。
二人は福岡ソフトバンクホークスの熱烈なファンだった。
鹿児島に住んでいても、試合がある日は可能な限り中継を聴く。テレビ中継がない日でも、ラジオがあれば問題ない。部活動で試合開始に間に合わない日は、練習後にラジコをつけるのが二人の日課だった。
スマートフォンから実況の声が流れ始める。
『六回の表、ホークスの攻撃。ツーアウトながらランナー一塁、二塁――』
早苗の表情が一気に変わった。
「チャンスじゃっど!」
「まだツーアウトじゃ。落ち着け」
「次、誰ね?」
「三番からじゃ」
「よっしゃ。絶対打つ!」
二人はベンチへ並んで座った。
直樹がスマートフォンを中央へ置き、音量を少し上げる。
『ピッチャー、第六球を投げました!』
二人の体が同時に前へ傾く。
「打て!」
早苗と直樹の声が見事に重なった。
『打ちました! 一、二塁間を抜けていく! 二塁ランナー、三塁を回った!』
「行けー!」
「走れー!」
また声が重なる。
『ホームイン! ホークス、待望の先制点!』
「よっしゃー!」
二人は同時に立ち上がった。
早苗は両手を上げ、直樹は拳を握る。勢い余って互いの肩をたたき合い、その場で跳びはねた。
「先制じゃっど!」
「よかぞ!」
「もう一点取れ!」
「一気に行け!」
通りかかった陸上部の先輩が足を止める。
「何しちょっとよ、二人とも」
「ホークスが先制したんです!」
「まだ六回じゃろ」
「先制点は大事なんです!」
早苗は真剣な顔で答えた。
直樹も大きくうなずく。
「ここから追加点を取れるかが勝負です」
「おまえら、陸上の試合より熱くなっちょらんか?」
「そげなことなかです」
「さっきより声が出ちょっど」
二人は一瞬黙った。
しかし、ラジオから次の打者への実況が聞こえると、すぐにスマートフォンへ向き直る。
『ランナー一塁、三塁。まだホークスのチャンスは続きます』
「頼む!」
「打ってくれ!」
今度も二人の声は完全にそろっていた。
まるで何度も練習した掛け声のようだったが、打ち合わせなど一度もしたことはない。
幼いころから一緒にホークスを応援してきた結果、チャンスで叫ぶ言葉も、立ち上がるタイミングも、拳を握る瞬間まで同じになっていた。
残念ながら、次の打者は外野フライに倒れた。
「ああー!」
二人は同時に頭を抱えた。
「もうちょっと伸びんか!」
「風、仕事せんか!」
「風に文句言っても仕方なかじゃろ」
「直樹も今、伸びろって言ったじゃん」
「俺は打球に言ったんじゃ」
「同じようなもんじゃっど」
試合は一対〇のまま、終盤へ入った。
二人は帰り道でも片耳ずつイヤホンを分け合い、中継を聴き続けた。
高身長の直樹に合わせてイヤホンの線が引っ張られるため、早苗は何度も背伸びをすることになる。
「直樹、もうちょっと低く歩いて」
「そげな歩き方できるか」
「僕の耳が引っ張られちょっど」
「早苗がもうちょっと背を伸ばせばよか」
「今すぐ伸びるか!」
「じゃあ、スマホ持つ?」
「僕が持ったら、今度は直樹が低くならんと聞こえんじゃろ」
「面倒くさか身長差じゃな」
「直樹が高すぎるの」
「早苗が小さすぎっとじゃ」
「言うたな!」
二人が言い争っている間にも、ホークスは一点のリードを守り続けていた。
やがて、早苗の家と直樹の家へ分かれる交差点へ着く。
「まだ八回裏じゃな」
「家に帰ってから聞こう」
「ホークスが勝ったら、窓から叫ぶが」
「僕も叫ぶ」
「近所迷惑にならん程度にな」
「直樹に言われたくなか」
二人はそれぞれの家へ向かって別れた。
大石家へ帰った早苗は、玄関を開けるなり靴を脱ぎ、スマートフォンを手にしたままリビングへ駆け込んだ。
「ただいま!」
「おかえり。まず手を洗いなさい」
小児科の看護師として働く母・美紀が、台所から声をかける。
「今、九回表になるところなの!」
「野球の前に手洗い」
「大事なところなんだよ!」
「病院で働く母さんの前で、手洗いを後回しにせんの」
「はい」
早苗は不満そうにしながらも、洗面所へ走った。
一方、田中家でも、直樹がリビングのラジオをつけていた。
「ただいま」
「お兄ちゃん、帰ってきたと思ったら、すぐ野球ね」
中学二年生の妹・裕美があきれたように言う。
「九回じゃっで、今が一番大事なんじゃ」
「さっきまで走ってたんでしょ。よう元気が残っちょっね」
小学六年生の優樹菜も、ソファに座りながら兄を見る。
「走る体力と応援する体力は別じゃ」
「意味分からん」
試合は九回裏へ入った。
ホークスが一対〇でリード。
あとアウト三つで勝利だった。
早苗は大石家のリビングで、ラジオの前に正座していた。
父の恒一は仕事からまだ戻っていない。母の美紀、大学一年生の兄・翔太、中学二年生の弟・陽斗が、早苗の異様な集中ぶりを遠巻きに見ている。
「早苗、宿題は?」
兄の翔太が尋ねる。
「試合が終わってから」
「夕飯は?」
「試合が終わってから」
「風呂は?」
「試合が終わってから!」
「人生のすべてがホークス中心になっちょらんか?」
「今は一球が人生を左右するんだよ!」
「選手でもなかのに」
一方、田中家の直樹も、ラジオの前から動かない。
母の真由美が夕食を並べながら言った。
「直樹、ご飯できちょっど」
「あとアウト一つ!」
「冷めるが」
「勝ってから食べる!」
バス運転手の父も仕事を終えて帰宅し、制服から着替えながらリビングをのぞいた。
「まだ試合しちょっとか」
「あと一人じゃっど」
「そいなら静かに見届けんか」
「無理じゃ」
ラジオから緊迫した実況が流れる。
『ツーアウト、ランナー一塁。ホークス、あと一人です』
鹿児島市内の二つの家で、早苗と直樹が同時に身を乗り出した。
『ピッチャー、セットポジションから投げました!』
「頼む!」
二人の声が、それぞれの家で重なる。
『空振り! 三振! ゲームセット! ホークス、一対〇で勝利しました!』
その瞬間だった。
「よっしゃー!」
大石家。
「よっしゃー!」
田中家。
ほとんど同じタイミングで、二人の叫び声が住宅街へ響いた。
窓を開けていたため、互いの家から聞こえた歓声が夜の空気の中で重なる。
早苗は窓際へ駆け寄った。
「直樹ー! 勝ったどー!」
少し離れた田中家の窓が開く。
「早苗ー! 完封リレーじゃっどー!」
「最高じゃー!」
「ホークス最高ー!」
再び二人の声が響く。
大石家では、母の美紀が額へ手を当てた。
「近所中に結果を知らせんでもよかが」
兄の翔太も苦笑する。
「たぶん、この辺で中継を聞いてなかった人にも伝わったな」
弟の陽斗は窓の外を見ながらつぶやいた。
「何で離れた家から、同じタイミングで叫べるんだよ」
一方の田中家でも、真由美が直樹の背中へ声を飛ばす。
「直樹、夜じゃっど! 少し声を抑えなさい!」
「勝ったんじゃっで、仕方なか!」
裕美が即座に突っ込む。
「仕方なくなか! 近所迷惑じゃっど!」
優樹菜も腕を組む。
「お兄ちゃんと早苗ちゃん、どこにいても同じことしちょっね」
父は窓の外から聞こえる早苗の声と、目の前の息子を交互に見た。
「おまえら、別々の家に帰った意味がなかが」
「勝利の喜びは共有せんとな」
「スマホで連絡すればよかじゃろ」
「叫んだほうが早か」
「そげな理由で近所を巻き込むな」
それぞれの家族から同時にツッコミが入り、早苗と直樹はようやく窓を閉めた。
それでも、スマートフォンにはすぐにメッセージが届く。
直樹からだった。
『明日も勝つど』
早苗は笑いながら返信する。
『僕らが応援すれば勝つ』
少しして、直樹から返事が来た。
『そいは関係なかと思う』
『夢のなか男じゃな』
『現実的と言え』
早苗は声を出して笑った。
「何を笑っちょっと?」
母の美紀が尋ねる。
「直樹が、僕らの応援とホークスの勝利は関係なかって」
「そいは直樹君が正しか」
「母さんまで!」
そのころ、田中家でも直樹がスマートフォンを見ながら笑っていた。
「お兄ちゃん、早苗ちゃんでしょ」
裕美が言う。
「何で分かっとよ」
「そげん楽しそうに連絡する相手、早苗ちゃんしかおらんが」
「別に普通じゃっど」
「はいはい、幼なじみ、幼なじみ」
「何ね、その言い方」
優樹菜が姉の横から顔を出す。
「どうせ明日の朝も一緒に学校行くんでしょ」
「家が近かでな」
「早苗ちゃん、またサイヤ人になって来たりして」
直樹は朝の早苗の髪型を思い出した。
一度はこらえようとしたものの、数秒後には吹き出していた。
「ぶはっ!」
「急に笑わんでよ、お兄ちゃん!」
「思い出しただけじゃ」
「何を?」
「朝の早苗」
「失礼な兄ちゃんじゃな」
裕美と優樹菜の声がそろう。
「明日、早苗ちゃんに言いつけよ」
「やめんか!」
田中家に、また笑い声が広がった。
短距離スプリンターの大石早苗。
五千メートルランナーの田中直樹。
走る距離も、体格も、将来の夢も違う二人。
けれど、ホークスがチャンスを迎えれば、叫ぶ言葉はいつも同じ。
勝利の瞬間には、離れた家からでも声がぴたりと重なる。
家族からすれば、少々騒がしく、近所迷惑になりかねない幼なじみコンビだった。
だが、二人にとっては、それが当たり前の日常だった。
そして翌朝も、田中家の前には、直樹を迎えに来た早苗の声が響くことになる。
「直樹ー! 学校行くよー!」
今度こそ、髪型は普通のはずだった。
少なくとも、早苗本人はそう信じていた。
次回予告
第3話「桜島の灰と白い制服」
翌朝、今度こそ完璧な髪型で直樹を迎えに来た早苗。
ところが通学途中、桜島の噴煙が風に乗り、鹿児島市内へ降灰が始まる。
「せっかく髪、直したのに!」
「今日はサイヤ人じゃなくて、灰かぶり姫じゃな」
「誰が灰かぶり姫よ!」
さらに、直樹の白いシャツへ灰が落ち、二人は学校へ着く前から大騒ぎ。
一方、陸上部では早苗と直樹が初めて出場する記録会の日程が発表される。
百メートルと五千メートル。
正反対の種目へ挑む二人に、最初の目標が生まれる。
次回、第3話「桜島の灰と白い制服」。
鹿児島の空は、幼なじみコンビの都合など待ってくれない。




